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「古典派からのメッセージ・2003年〜2004年」目次へ戻る
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エコノミストは信用できるか

 

 掲題の東谷暁氏の本(文春新書、平成一五年一一月初版)は、日本のエコノミストたちの言論を、「主張の一貫性」や「議論の整合性」といった尺度で検証、評価したもので、まさに僕がやりたかった検証を実際にして見せてくれた。快哉である。

 この本を読むと、多くのエコノミストたちの文筆業者としての誠意や責任感の欠如に改めて驚かされる。わずかの間に一八〇度違う見解に衣更えしても全く平気な無責任さにはあきれるばかりである。かつて福田恒存氏は「物書きは読者を裏切っちゃいけない」と述べたが、多くのエコノミストたちは読者を裏切ることなど何とも思っていないようである。心根卑しき売文家どもである。

 尤も全てのエコノミストが卑しい売文家なわけではない。中には、誠実に冷静に首尾一貫した見地から経済現象を分析している人たちも居る。僕は東谷氏の本を読んで、エコノミストの真贋を見分ける指標がいくつかあると感じた。まず、経済現象のヴォラティリティを上げようとする人と下げようとする人の区別である。悪質な売文家は、おおむね、現象を増幅するように、現象に乗り遅れるなと煽り立てる。それに対し、良質なエコノミストは「いや待てよ、もう少し慎重に考えようよ」と現象の過大評価を戒める。

 エコノミストの真贋を見分けるもう一つの指標は、単なるデマゴーグ(扇情家)または論拠の伴わない思いつき屋または自分に何の信念も無く現象の後追いをする風見鶏といった人たちと、実証ないし確立された理論を踏まえて物を言う人との区別である。

 かつてこのホームページで僕がその言論を評価したエコノミストたちにも、厳しい評価を受けている人たちがおり、我が不明、無知を恥じざるを得ない。団塊世代としての自己を正直にかつ厳しく批判した上で、日本のとるべき戦略について具体的に語ったことを「極めて良心的」と僕が評価した榊原英資氏も、ITブームをめぐる言論の風見鶏振りは目を覆いたくなる。また、「現代日本のデフレは貨幣的な現象ではない」と明快に論拠を示して説き、「デフレと不景気を混同してはいけない」との至当な指摘をしたことを僕が高く評価したリチャード・クー氏も、日本の経常黒字と為替レートの因果をめぐる議論では、確立された理論を踏まえぬ思いつき発言が目立ち、静態均衡理論を踏まえた小宮隆太郎氏に無節操振りをたしなめられている。

 榊原氏とクー氏の言論に共通するのは、学問的言説なのか政治的言説なのか、区別がつきにくいことである。一見純粋個人的なメッセージが、米国の利益か自己保身か何かを狙った政治目的から発する発言のようにも感じられるのだ。時には適切な分析や指摘をしている人たちだが、全体としては信頼できる人物とは言えないだろう。

平成一五(二〇〇三)年一二月二七日