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「古典派からのメッセージ・2003年〜2004年」目次へ戻る
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「県」不要論

 

 僕は、最近、「県」という行政単位は不必要ではないかと感じている。そう感じるのは、最近遭遇した仕事での事案などによる。まず、我が金沢支店での最近の事案を紹介しよう。我が支店では、ささやかな「集中と選択」の一貫として、税金支払や公金支払の銀行窓口での取り扱い(銀行用語では収納代理業務と称する)を金沢市と石川県に返上しようとした。その際の金沢市の合理的な対応と石川県の理不尽な対応が対照的だったのだ。

 当行はもともと貯蓄性の銀行であって、しかも石川県内に一つしか店舗が無い。実際に税金や公金の支払で当行を使っている預金者は十人にも満たない。一方、収納代理業務は免許業務であるため、取り扱いがほとんど無くても、県や市に毎日実績報告をせねばならず、かつ、定例的な検査を受ける手間も馬鹿にならない(県や市にとっても手間である)。県民、市民に迷惑もかけず、県・市にとっても意味の無い業務を返上したいとの当行からの提案を、金沢市にはすんなり認めていただいたのに対し、石川県は、「たとえ取り扱いが僅少でも県の徴税窓口を減らすのは不可、石川県が御行各支店の最初の事例になるのは不可」と、事なかれ主義と権威主義で、申し出てから一年以上経つ現在に至るまで突っぱね続けている。

 「当行は、既往の数人の利用者にも他の方法への移行をお願いし、何の問題も無く了解していただいています」とか、「当行は、収納代理業務を廃止することによるコスト減を定期預金の金利上乗せで県民の皆様に還元します」と訴えても頑として聞かない。県の事なかれ主義、事大主義の病は膏肓に入っている。

 もうひとつの事案は、僕が高校時代に、愛知県の読書感想文コンクールに入賞し、その時出席した県主催の表彰式のあまりのくだらなさである。出席者の八割以上が居眠りする退屈で表面的な挨拶をずらりと並べる、これまたすさまじい事なかれ主義と権威主義だった。これほど無駄で意味の無い表彰式をよくも何年も続けていられるな、と、高校生ながら県の役人の太平楽にあきれ果てたものだ。

 これら事なかれ主義と事大主義は、県が国と市町村に挟まれた中途半端な存在であることに起因する。県は、市町村と違って、住民生活の実感が肌でわからない感度の鈍い存在なのである。現在全国的に進んでいる合併で、市町村の存在感は増すはずであり、そうなれば、県を廃止して、徴税権を含め市町村へ思い切って権限委譲をし、市町村も甘えを絶って自己責任で運営すべきだと思料する。真の自治や地方自立は、住民に密着した最小の行政単位を自己責任で運営することではじめて身に付くはずである。

 そして合併が進んだ「広域市町村」は、江戸時代以前の「国」の大きさに落ち着くのではないだろうか。すなわち、石川県なら金沢を中心にした「加賀広域圏」と七尾を中心にした「能登広域圏」であり、愛知県なら名古屋を中心にした「尾張広域圏」と岡崎を中心にした「三河広域圏」といった具合である。実はこうした歴史と伝統を持つかつての「国」に対してこそ、住民の一体感もあり、愛着も一番湧くのではないかと思う。

平成一六(二〇〇四)年六月九日