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「古典派からのメッセージ・2003年〜2004年」目次へ戻る
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不条理劇としての能「弱法師」

 

 今日石川県立能楽堂で開かれた北国宝生能のことを記したいと思います。毎年春秋に開催されるこの能会は、宝生流宗家の宝生英照師をはじめ、東京と地元金沢の宝生流の名手たちが共演する華やかな催しです。狂言「花折」の、今も昔も変わらぬ花見の見物衆の騒々しさと陽気さ、能「千手」における大坪美喜雄師のはかなげな美しい舞姿なども印象的でしたが、とりわけ小生の心に残ったのは、能「弱法師(よろぼし)」です。

 「弱法師」は、河内の国、高安の里に住む俊徳丸という少年が、讒言を信じた父に追放され、悲しみのあまり盲目の乞食に成り果て、「弱法師」と呼ばれて天王寺で施行を受けていたところ、たまたま前非を悔いて施行に来ていた父と再会するという物語です。ストーリーから言えばこの曲はハッピーエンドということなのでしょうが、小生にはとてもそうは思えませんでした。というのは、勧められて日想観(じっそうがん:天王寺の西門から夕日を拝んで浄土を見るという信仰)を行ない、美しい風景が弱法師の瞼の裏に浮かび、「見えたり見えたり」「満目青山は心に在り」と、心眼が開けて狂喜したのも束の間、彼は群集に突き飛ばされ、地面にへたり込んでしまうのです。つまり、信仰が現実に裏切られるのです。能では信仰によって救われることが常なのに、信仰が裏切られるストーリーは異例です。そして弱法師は幻想に酔った自分を恥じ、「思へば恥づかしやな」「今は狂ひ候はじ」「今よりは更に狂はじ」と、二度と幻想に狂うまいと言います。この残酷さ、不条理はしばらく小生の頭から離れませんでした。父との再会も、弱法師が隠れたのを無理矢理父親が引っ立てて行ったようにも思え、これからこの父子は高安に帰って幸せに暮らせるのだろうか、などと考えてしまいました。

 通常、能は、どんなに重い主題でも最後は救済で終わるため、安らかな或いは晴れやかな長調の曲を聞いたような気分になるものですが、この曲は短調のまま終わったような重苦しい気分でした。こういう悲劇的な不条理劇の趣の能もあるのだということを発見した能会でした。

 先に述べた日想観から群集に突き飛ばされるあたり、盲目の人が歩きまわる姿を描くシテの動きは、象徴的でありながら、実に現実味を帯びています。弱法師の面の目を閉じた悲しげな表情が一層惨めさを際立たせます。このあたり、シテの渡辺容之助師の所作はもちろんのこと、地謡や囃子方(特に亀井広忠さんの大鼓)のドラマティックな盛り上げも見事だったと思います。

平成一六(二〇〇四)年四月四日(日)