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「古典派からのメッセージ・2003年〜2004年」目次へ戻る
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西田幾多郎と鈴木大拙

 

西田幾多郎、鈴木大拙との出会い

 金沢ゆかりの偉大な思想家に、西田幾太郎(一八七〇年〜一九四五年)と鈴木大拙(一八七〇年〜一九六六年)がいる。二人は金沢の第四高等学校(現在の金沢大学教養部)で同級生であり、殊に人生の後半は親しく付き合っていた。僕も、西田は「京都学派」の祖である哲学者、鈴木は禅を世界に広めた宗教家として、二人の名前くらいは知っていた。京都は疎水の辺の西田が好んで散歩した道は「哲学の道」と言われて今や観光名所だ。しかし浅学の情けなさ、何やら難しいことを論じた哲学者と宗教家というイメージしか無く、著作を読もうなどという気は起きなかった。しかし二人がこの地の出身だということで俄然興味が湧き、彼らの代表的著作を読んでみた。予想以上に面白かった。金沢に住むことが無ければ、西田幾太郎や鈴木大拙の本にはまず手をつけなかっただろうが、たまたまここに住んだおかげで彼らに出会いその名著を紐解く機会を得たことに感謝したい気持ちだ。

 

「善の研究」

 まず西田幾多郎の「善の研究」(岩波文庫)を読んだ。一般に、哲学書は、ヘーゲル曰く、キルケゴール曰くの類が多く、哲学書というより、哲学解説書、哲学史解説書であることが多い。著者はあくまで客観的立場から過去の哲学者の述べたことを解説しているに過ぎず、自ら哲学を構築してはいないことが多い。しかし、この本は違う。「善の研究」は、古今東西の哲学、宗教を踏まえながらも、西田の真情告白であり、哲学することそのものである。近代日本で初めて、プラトン流の自省と思索を実践したのが西田であり、その成果がこの本である。

 「善の研究」は、もともと、第四高等学校の教師をしていた時期の西田が授業で講義した講義録だったそうだ。この講義を受けた四高の生徒はさぞ戸惑ったことだろう。授業時間に教師が思索にふけり、その哲学を開陳するのだ。こんな授業は他には無かったろう。「善の研究」は、戦前の旧制高校生に強い影響を及ぼしたようである。西田が京都大学の教授となってからは、その講義を聞こうと講堂に人があふれたそうである。台湾の前総統、李登輝氏も、著書の中で、若き旧制高校時代に西田のこの本に深く啓発されたとおっしゃっている(「武士道解題」(小学館)三八ページ以下)。

 「善の研究」は、必ずしも全く新しい哲学の完成された体系が打ち立てられているわけではない。体系だった思索を試みた、思想のデッサンとでも言うべき書である。その特色は、僕流の理解では、人間は自己の快楽だけでは満足し得ず、他者や世界への貢献に理想を追う存在であるという人間の真摯さへの信頼と性善説であり、神は宇宙の外に居て宇宙を創造したり統制したりする存在ではなく、人間や自然の全ての中に宿り、宇宙に統一を与えている内的存在であるという宗教観であり、分析的思考よりも無意識をも包含した深い直覚を重んじる自我認識である。

 こうした思索は、ソクラテス的な倫理や近代ヨーロッパの理想主義を取り込みながらも、極めて日本的であり、禅や親鸞や老荘思想や日本的アニミズムの優れた価値を哲学として組み立て称揚したいとの西田の意志を強く感じる。現に西田は、金沢時代に、卯辰山の麓の洗心庵で禅の修業に励んでいたとのことである。西田の独特の思索は、僕の頭に抵抗無く入り、共感するところ大であった。

 

禅の本質

 鈴木大拙では「禅」(ちくま文庫)と「日本的霊性」(岩波文庫)を読んでみた。前者は大拙が欧米向けに禅の本質を解説した英文諸論稿を邦訳編集したもの。後者は日本人の宗教的情熱の可能性を、主に鎌倉・室町期の浄土宗や浄土真宗の中に見出そうとした論考である。

 まず、「禅」は、正直、僕の頭に素直に入ってこなかった。禅の逆説と非合理的な修行方法には、偽者、まやかしになりかねない危うさがある。「野狐禅」という言葉もあるではないか。そんな思いばかりが僕の頭をかすめた。しかしそれは、僕がこの本から禅を「客観的に」理解しようとするからなのだと読後に気づいた。禅とはそもそも頭で「理解」する対象ではないのだ。それは、人生や存在の意義について、客観的、一般的な回答を用意はしない。問う人それぞれに修行という「体験」を通じて人生や存在の意義を悟らせようとするのである。禅は言葉と客観的知性だけでは体得し得ない。禅のスローガンは「不立文字」であり「主客一如」なのである。彼自身の言葉を引用しよう。

「禅に何か論理的に筋の通った、知的に明らかなものを与えてくれることを期待するならば、我々は全く禅の意義を見誤ってしまう。禅は事実を扱うものであって、一般論を云々するものではない。そして、禅が人格の根源に直入(じきにゅう)するというのは、実にこの点である。」

「禅は生きた事実である。だからそれは、生きた事実が扱われるところにのみ存する。知性への訴えは、それが生命から真っ直ぐに出て来る限りにおいてのみ、真実であり、生きたものとなる。そうでない時には、文字の上の業績や知的分析をどれほど積み重ねようとも、禅を学ぶ上の助けにはならない。」

「禅は、宗教感情を正しい道にみちびくものであり、知性に生命を与えるものである。」

「禅は、要するに、自己の存在の本性を見抜く術であって、それは束縛からの自由への道を指し示す。我々有限の存在は、常にこの世で様々の束縛に苦しんでいるが、禅は、我々に生命の泉からじかに水を飲むことを教えて、我々を一切の束縛から解放する。或いは、禅は、我々一人一人に備わっている全ての力を解き放つのだということもできる。この力は普通の状況では、押さえられ歪められて、充分な働きを発揮する道を見出し得ないでいる。」

 大拙はこの本の中で、こうした禅の本質を、原形を崩さず誤解させないように、何とか欧米人の思考法で理解できるように説明しようと試みる。その試み自体が既に矛盾した営みであるが、彼はそれを充分承知した上で、仏教と禅の人類的意義を何とか欧米人に理解させようと、言わば彼の大慈悲心から敢えて矛盾に挑戦するのである。彼は八十歳代で何度も米国や欧州に渡って講演活動をしている。仏教こそ日本が世界に宣揚すべき人類の精神遺産だとの彼の使命感は、浮ついたヒロイズムなど一切無い、実に誠実で芯の通った堅固なものである。今でも欧米人が禅に深い関心を寄せるのは、まさに大拙のこうした巨大な営みのおかげなのである。

 

僕の禅体験

 話は逸れるが、僕もささやかではあるが、禅には縁があり「禅体験」もある。縁とは、父方の実家の宗旨が曹洞宗であったこと。僕はそのことを祖父の一回忌の時まで知らなかったが、それ以降、何となく禅に親しみを持つようになった。大学一年の時には、友人に誘われて京都の大徳寺の参禅会に何回か通ったことがある。その時、禅師に、あなたは猫背だ、そんな背筋の曲がった格好では胃腸に負担をかけるから長生きはできない、と言われて衝撃を受け、以降、背筋を伸ばし、自分の姿勢というものに意を配るようになった。禅師は、直接そうは言わなかったが、「体の姿勢は生きる姿勢でもある」と教えてくれたような気がする。

 大学二年の時には、友人ふたりといっしょに岐阜は揖斐川沿いの山麓にある「大興寺」という寺で二泊三日のミニ修行をしたこともある。もちろん大拙が描くような厳しい修行ではなかったが、それでも、朝四時に起床し、座禅を組み、床を磨き、障子を洗い、禅師の話を聞く。夕方には鐘も撞いた。わずか三日の経験だったが、自然との共生ということを深く感じた日々だった。禅師は、禅のモットー「日々是好日」と、キリストの説いた「心に光を」というふたつの言葉を教えてくれた。そして帰りには「愚」と揮毫した色紙を僕たち三人にくれた。その意味するところは、とかく理屈と知識ばかりが肥大しがちな僕たちに、「賢」ではなく「愚」であれという言葉を贈って注意を喚起したものだと思う。その色紙は、自然とともに生きることの喜びの詩が書かれた扇といっしょに、今も僕の家に掲げてある。

 

妙好人礼賛

 鈴木大拙のもう一つの著書「日本的霊性」はとても楽しく読めた。現代日本人は実質的には無宗教の人が圧倒的に多いし、近年のオウム真理教やイスラム過激派のこともあり、宗教というと理性を欠いた狂信という具合に否定的にとらえる人が多いように思われる。が、そうした偏見を捨てて考えれば、良き生き方を求める人は、だれしも最後は絶対者を求めて何らかの宗教的な求道に向わざるを得ない。西田幾多郎の思索もそうであった。もともと日本人は宗教的情熱が乏しかったわけではない。大拙がこの本で言うように、日本人の霊性は鎌倉時代におおいに目覚め、貴族・武士階級から庶民にいたるまで広範に素晴らしい情熱で宗教的求道を追求したのである。法然・親鸞らの浄土系諸派、栄西・道元らの禅宗諸派、日蓮など、宗教的天才が続出したのは鎌倉時代である。

 大拙は、こうした日本人の霊性の目覚めを、単に中国から入ってきた仏教諸派の受動的な受け入れとは考えない。奈良時代以来、次第に成熟した日本的霊性が、たまたま浄土宗などを触媒として、鎌倉時代に爆発的に燃え上がったのだ、と考える。確かに、歴史家は、何でもかんでも外来の影響の受動的摂取や改良としか日本史を考えないフシがある。日本人に備わった資質を重く見る歴史家は少ない。外来の摂取という図式を頭で理解するだけでは、生きた人間の演ずる歴史はいつまで経っても見えはしない。

 大拙が日本的霊性の固有性を説くのは、彼が、鎌倉・室町期の仏教、とりわけ浄土系諸派が、庶民の隅々にまで熱烈に入り込んでいた事実を隈なく見ているからである。あの時代、特別な知識人ではなく、大地とともに生きる下級武士や庶民階級の人々が、求道者として真摯な生き方を求めていたのである。彼は好んでこうした市井の求道者たちを取り上げ、「妙好人」としてその事蹟を紹介している。戦国末期の三河武士で四〇歳を過ぎてから出家した鈴木正三や、市井の陰陽師・阿波介(あわのすけ)や、沙弥・随蓮や、武蔵国御家人・甘糟太郎忠綱や、越中赤尾の道宗や、石見国の下駄作り・浅原才市…。彼らの生き生きとした言動や生きることへの覚悟のほどは、今でも私たちを奮い立たせ力づけてくれる。

 

加賀の風土が生んだ真摯な求道者たち

 さて先に西田幾多郎と鈴木大拙の親しい間柄を延べたが、二人は特に大拙が米国から帰国した四十歳代以降、頻繁に交友を持つようになった。互いの深甚な影響は著書から明らかである。西田幾多郎と鈴木大拙に共通する志向は、東洋諸思想や禅、浄土宗などの仏教の説くところを西洋人にも理解し得る哲学論理で説明し説得したいという使命感であり、また、東洋思想と西洋思想をそれぞれ根源まで突き詰めて体得し理解した上で、文化的相対主義(諸文明は一定の種類へ収束して行くのではなく、あらゆる文明がそれぞれ個性を持った独立的な存在であるという考え)に基き、欧米の流行りものよりも日本の個性を重要視する堅実な思考である。そして、彼らに共通する、より良き生き方を求める熱烈な求道の真摯さも僕には光り輝いて見える。

 もしかしたら二人は、

「それこそが大乗仏教の本質やないけ?」

「いや、も少し深く考えまっし」

などと、故郷金沢の訛りで論じていたのだろうか。

 金沢は、加賀百万石の城下町としてばかり紹介されるので、芸どころ、茶屋街、祭り好きといった享楽的な生活を想像し勝ちである。確かにその面はあり、今でも人々は生活を楽しんでいる。しかし、前田家が入ってくる前、ここは一向一揆共和国が百年続いた土地だということを、私たちは忘れてはいけない。加賀の人々の根っこにあるのは、中世以降、低湿地だったこの地をこつこつ開拓し続け、生活圏を広げてきた自作農なのである。この堅実で誇り高い人たちが浄土真宗という熱烈な共同体原理を得て、守護大名を追放し百年に渡り自治政府を運営したのである。

 それゆえ、金沢が生んだ偉人には、堅実で芯の強いタイプの人が多い。市内にある「ふるさと偉人館」で紹介されているのも、鈴木大拙のほか、天文学者・木村栄、化学者・高峰譲吉、評論家・三宅雪嶺、国文学者・藤岡東圃といった顔ぶれである(西田幾多郎は生まれが隣町の宇ノ気町というところなので金沢の偉人館には入っていない)。金沢が決して生まなかったのは、激越な革命思想家や、破滅型の文学者や、とんでもなく陽気な関西風芸人といったタイプの人間である。

平成一六(二〇〇四)年五月三〇日