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「古典派からのメッセージ・2003年〜2004年」目次へ戻る
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疾風怒涛期の短調交響曲の如き能「善知鳥」

 

 昨日は「観能の夕べ」第二夜、能「善知鳥(うとう)」が演じられました。「善知鳥」は、鳥獣を殺すことを生業としていた猟師が、死後に、殺生戒を犯した罪のため地獄で苦しむ様子を描いた、暗く、かつ、静と動の対照が印象深い劇的な曲です。救いや浄化で終わることが多い能の中ではかなり異彩を放っています。

 猟師の亡霊は妻子のいる自分の家を訪ねて現れますが、子どもの髪を撫でて声をかけようとすると、煩悩の雲に遮られてか、子どもの姿は見えなくなってしまいます。この辺りの髪を撫でようとする所作やそれが叶わずに泣き出す型は、見ていて哀れを誘います。

 善知鳥は、親鳥が「うとう」と呼ぶと子鳥が「やすたか」と答えます。その習性を利用して親鳥の鳴き声をまねて子鳥をおびき寄せて獲っていた猟師の亡霊は、昔を思い出して猟の様子を再現して見せます。この「翔り(カケリ)」と称する猟の物真似の所作は、猟師が、いったんは逃がしてしまった鳥を、橋掛りからまたゆっくりと追い詰め、正面まで来て杖で激しく打ち据えて捕らえる様子を描いたものですが、シテの動きも囃子の音楽も、ゆっくりした「静」から突然激しい「動」へ移る対照が大変面白く、息つく暇無く舞台に引き寄せられます。

 そこからは、地謡とシテの所作による地獄絵巻です。以下謡本の現代語訳を引くと、

「善知鳥は現世では獲りやすかったが、地獄では化鳥となって罪人を追い立て、鉄の嘴(くちばし)を鳴らして羽ばたき、銅の爪を研いで、罪人の目をつかみ出し、身体を引き裂く。叫ぼうにも猛火に咽んで声も出ないのは鴛鴦(おしどり)を殺した報いだろうか、逃げようにも立てないのは羽抜鳥を殺した科であろうか。今や自分は雉(きじ)となって、空では鷹に、地では犬に追い責められて、心休まる暇もない。この身の苦しみを助け給え…」

 このように謡う地謡が、大変劇的に地獄絵を描いていましたし、また、化鳥となった善知鳥に追い立てられ、笠をかざして逃げ惑うシテの姿が、地獄の恐ろしさを見事に象徴していました。こうして猟師の亡霊は、救いを求め咆哮しつつ去って行きますが、この最後の場面は、ドン・ジョヴァンニの地獄落ちのシーンを見ているような迫力でした。

 能に、このような疾風怒涛期の短調交響曲のような、暗く劇的な曲があるとは、驚きでした。シテは広島克栄師が演じられました。

平成一六(二〇〇四)年七月一一日