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「古典派からのメッセージ・2003年〜2004年」目次へ戻る
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悲しき鉄輪女

 

 今日は「観能の夕べ」の最終日、能「鉄輪(かなわ)」を見に行った。「鉄輪」は、「葵上」や「道成寺」などと同趣の、女が自分を捨てた男を怨んで悪鬼となって出現する「怨恨もの」である。しかし僕は、怨恨のすさまじさやおどろおどろしさよりも、自分を捨てた男を殺そうと、貴船神社の社人に言われるがままに、三本の足に火を灯した鉄輪を頭に付けて般若の形相となって現れる女に、言いようの無い悲しみを感じた。女は男を怨みながらも彼を愛することを止めることができないのである。そうした鉄輪女の感情の揺れは、シテと地謡の掛け合いで謡われる次の詞章によく現れている。

「(シテ)恨めしや 御身と契りしにその時は 玉椿の八千代二葉の松の末かけて 変らじとこそ思ひしに などしも捨ては果て給ふぞや あら恨めしや 捨てられて (地謡)捨てられて 思ふ思ひの涙に沈み 人を恨み (シテ)夫をかこち (地謡)或る時は恋しく (シテ)または恨めしく (地謡)起きても寝ても忘れぬ思ひの…」

 何と悲しい女の情念だろう。シテが前場で笠をうち捨てて毅然と男を殺す決意をする凄惨さにはハッとさせられたが、それよりも、シテが後場で般若の恐ろしい面ながら萎る姿(泣く型をすること)が何とも哀れに満ちており、その意外性に一層悲しみを感じた。その面も怨恨と憤怒の表情の中に泣き崩れたような情感を宿しているように見えた。

 女が男を地獄へ連れ去ることが出来れば恨みを晴らすこともできようが、男は、スーパー陰陽師、安倍清明に頼んでしっかりと祈祷してもらい、女の神通力も通じなくなってしまい、退散させられる。結局女は救われない。神仏による救済も彼女には無いのである。怨恨という執着は最も罪深いということなのだろうか。救いも浄化も無いという意味ではこの物語も不条理に満ちている。

 鉄輪女の情念を見事に表現したシテは、我が師匠、藪俊彦師が演じられました。ワキの安倍清明役、平木豊男さんの美しい装束と所作も、いかにもスマートなスーパー陰陽師らしく感じられました。

平成一六(二〇〇四)年八月二八日