私の音楽鑑賞メモ(二〇〇五年)
ヴァンハルの未刊行交響曲を聞く
さる金曜日(祝日)に、我が家から程遠からぬ「府中の森芸術劇場」のウィーンホールで、ハイドン・シンフォニエッタ・トウキョウ(以下HST)の演奏会がありました。演目は古典派の知られざる曲ばかりで、特に、ヴァンハルのト長調(
Bryan G7)や変ホ長調(Bryan Es4)といった交響曲は、楽譜も未刊行なのを、HSTの主宰者である広實さんが苦労して資料を校訂して当日の演奏会に供されたものです。ヴァンハルはモーツァルトやハイドンと同時代の音楽家で、教会音楽、交響曲、室内楽、クラヴィア曲など膨大な数の作品を残しています。優れた作曲技法を持った人で、短調の印象的な交響曲をいくつか書いており、近年はCDもけっこう出るようになりました(詳しくはHSTのウェブページをご参照下さい)。小生はヴァンハルでは「ふたつのファゴットのための協奏曲 ヘ長調」が最近のお気に入りです。さて、当日演奏された曲では、ト長調(
Bryan G7)の交響曲は、三楽章形式で比較的初期の作品です。伸びやかな主題を持つ第一楽章、メランコリックな短調に転ずる第二楽章、軽快な第三楽章から成っており、おおむね初期ハイドンの交響曲と同じ常套的なイタリア序曲風の曲です。一方、変ホ長調(Bryan Es4)の交響曲は、四楽章形式のやや規模の大きな曲です。第一楽章は、低弦のピツィカートに乗った牧歌的な第二主題が美しく、全休止(ゲネラル・パウゼ)も駆使し短調に転じる劇的な展開部も凝った作りです。第二楽章は、ハイドンの交響曲第五五番「校長先生」の緩徐楽章を思わせる散歩の軽快さを持ったアンダンテ・スケルツァンド。第三楽章メヌエットでは、中間部(トリオ)の宮廷舞踏会を想像させる優美な旋律が印象的です。第四楽章は、一つのフレーズを転調させながら延々と続ける不思議な展開部を持った躍動的なフィナーレ。総じてこの変ホ長調(Bryan Es4)は、古典派の枠組内にありながらもヴァンハルらしい意外性やひねりも随所に見られる楽しい曲でした。平成一七(二〇〇五)年二月一三日
飽きの来ないテレマンの魅力
バッハやモーツァルトの名曲たちも、「耳タコ」状態になってしまうと、さすがに新鮮な感興が湧かなくなるものだ。こうした名曲たちに飽きてしまうような申し訳ないことにならぬように、僕はこうした曲を意識的に遠ざけるようにしている。ところが、テレマンの音楽は、飽きが来ない不思議な音楽だ。作品の数が多い(例えば教会カンタータは、バッハが約二〇〇曲に対し、テレマンは約一四二〇曲! 最近でこそTWVという作品番号が定着しつつあるようだが、「テレマン全集」はどこからも出ておらず、未だに全貌が見えない音楽家である)こともあるが、例えば最も有名な「ターフェル・ムジーク(食卓の音楽)」にしても、一曲一曲が変化に富み、ちょっとした工夫が至るところに凝らされているので、何度聴いても、またどこを聴いても、飽きが来ない。何か特別な激情を喚起するようなことは無いが、日常生活を豊かにする品の良い調度品のような音楽である。
平成一七(二〇〇五)年三月一〇日
自我意識の音楽
ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲は、西洋音楽史上、最高傑作のひとつとの誉れ高い曲群である。僕はこの名曲たちに何度かチャレンジしたが、この曲群に惹かれた人たちが語る、「魂を揺さぶられた」とか「人生観が変わった」とかいう感銘を受けたことが無い。きっと聴き方が足りないのだと思い、今回改めて作品一二七と作品一三〇の弦楽四重奏曲を聴いてみた。しかし聴けば聴くほど、僕の頭には「この人は公衆に心を開いていない。自己に閉じこもった音楽だ。耳を悪くした変わり者の自我意識とどこまでつきあえと言うのか!」という苛立ちが募るばかりだった。
この音楽は公衆に開かれていない。聴衆を楽しませることを意識していない。ベートーヴェンは自己に閉じこもっている。そしてその自我意識の王国を承認せよ、自分を楽聖として跪拝せよ、と聴く者に迫って来る。確かに美しい旋律も所々に聞かれ、音楽技術的に興味深い「巧みの技」も随所に見られるのだが、音楽の形式は次第に崩され、均衡感を欠いてゆき、ついには自我意識のあふれ出るままに「幻想曲」を書き連ねるといった趣に変じてゆく。僕はこの過剰な自我意識の湧出に耐えられず、逃げ出したくなるのだ。この音楽は、「音楽家(しいては芸術家)を特別視せよ、神聖視せよ」という近代芸術家の優越意識、自我意識の病弊の始まりに思えてならない。ここには、公衆を喜ばせ楽しませようという健全な「芸人魂」「職人意識」は消え失せている。
平成一七(二〇〇五)年三月一七日
再び自我意識の音楽
近代になっても西洋ではキリスト教音楽がしきりに書かれた。そこには自分たちの伝統を尊重し、それを現在に生かそうとする強固で健全な歴史意識が存在する。僕もそうした近代キリスト教音楽のいくつか―例えばシャルル・グノーやドヴォルザークのミサ曲の類―を愛好している。しかし多くの近代キリスト教音楽には自我意識の混入が目立つ。例えば、セザール・フランクがオルガンやハルモニウムのために書いた教会音楽はなかなか美しいが、信仰の純粋さから言うと、はなはだ危ういものを感じる。バッハのオルガン音楽は、神に仕える音楽職人の技の粋である。その音楽は「技に彩られた美しい神の姿を見てほしい」と訴えている。ところがフランクの音楽は、「神を信じる純粋な自分の姿を見てくれ」と叫んでいるように思える。彼はおそらく無意識に自我意識を神に祭り上げてしまっているのだ。
自我意識は、他人や他の生き物に対する優越意識であり、人間を孤独に追い込み、地球を破壊して省みない横暴な生物と化さしめる。現代のあらゆる問題は自我意識の膨張から発していると言ってよい。二十一世紀に生きる私たちは、自我意識という近代の病弊を超克しなければならない。
平成一七(二〇〇五)年六月一日
トランペットとティンパニの惚れ惚れするような切れ味
さる6月10日のオーケストラ・リベラ・クラシカ(以下OLC)の演奏会に出かけました(会場は浜離宮コンサートホール)。演奏された曲は、ヴァンハルの交響曲ホ短調(Bryan e2)、ハイドンの交響曲第75番ニ長調、モーツァルトの交響曲第38番ニ長調「プラハ」、それにアンコールとしてモーツァルトのオーケストラ用メヌエットの一曲が演奏されました。この演奏会での僕の目当ては最初のヴァンハルでした。古典派音楽ファンにとってヴァンハルは非常に重要な人物です。彼は、18世紀後半の一時期、ウィーンの売れっ子音楽家で、ハイドンやモーツァルトとも親交があったらしく、モーツァルト作曲の弦楽四重奏曲の初演でチェロを弾いたとの記録もあります。が、一般にはまだそれほど知られた音楽家ではなく、こんなマイナーな曲が日本の一流の古楽器オケによって演奏される機会はそうありません。しかもこの演目、OLCの賛助会員のおひとりで小生の知り合いでもあるSさんが、OLCの指揮者の鈴木秀美さんをかき口説いてようやく取り上げられるに至ったのです。Sさんの熱意に敬意を抱きつつ聴いた交響曲ホ短調(Bryan e2)は、期待に違わず透明な悲しみに満ちた美しい音楽でした。しかもヴァンハルらしい機知と意外性もあって楽しめました。
しかしこの日僕が一番好いと思ったのは、二曲目のハイドンでした。ハイドンでもこの75番などという交響曲はめったに演奏される機会は無く、僕も生演奏で聴くのはこれが初めてだと思います(ひょっとしたら、十年以上前に、新日本フィルがカザルスホールでやったハイドンの交響曲全曲演奏会のシリーズで聴いたかもしれませんが・・・)。この75番交響曲、ホグウッド盤のCDではトランペットやティンパニは入っていませんが、この日のOLCの演奏ではトランペットとティンパニを入れていました。このトランペットやティンパニの演奏が惚れ惚れするような切れ味だったため、曲がたいへん爽快でにぎやかな印象になりました。第二楽章の変奏曲もハイドンらしい喜悦に満ちており、殊に、チェロがひときわ目立つ弦楽三重奏での演奏の部分は最高の食後のデザートです。第三楽章の低音楽器によるドローンバスの効果も面白く、最後の第四楽章に至るまで躍動感に満ちた素晴しい演奏でした。
モーツァルトの「プラハ」交響曲は、対位法をふんだんに駆使した第一楽章が緻密な織物のようで、かつ、生き生きとした美しさに満ちていましたが、あとのふたつの楽章は、曲も演奏もやや平板な印象でした。アンコールで演奏されたモーツァルトのオーケストラ用メヌエットでは、フルートやオーボエが本来の木管楽器の素朴な音色で耳を楽しませてくれました。
平成一七(二〇〇五)年六月一二日
濃密な歌謡曲たち
レンタルCD屋をうろついていたら、昔の深夜のラジオ番組「走れ歌謡曲」で取り上げた曲を集めたCDが目についたので、レンタルして聴いてみた。昭和三〇年代から六〇年代までのこの曲集、懐かしさよりも、思いのほかに濃密で個性的な歌の数々を楽しめた。特に、日吉ミミ「男と女のお話」や朱里エイコ「北国行きで」といった曲の濃密な情念が印象的だった。朱里エイコの曲は音楽的にも転調の妙が面白い「名曲」だと思う。
平成一七(二〇〇五)年七月一三日
「プラハ交響曲」聞き比べ
今週日曜日の午後、保谷こもれびホールで開かれたオーケストラ・シンポシオンの演奏会に出かけた。オリジナル楽器を用い古典派をレパートリーの中心とするこのオーケストラは、三〇歳代を中心とする若々しい集団だ。ヴァイオリンとヴィオラが立ったまま演奏するのは、音響の上からはいいことだと思ったが、それもメンバーが若いからできることだろう。この日はオール・モーツァルト・プログラムで、交響曲第26番変ホ長調K184、ピアノ協奏曲第21番ハ長調K467、交響曲第38番ニ長調K五504「プラハ」の順で演奏された。はじめの変ホ長調シンフォニーの冒頭から歯切れ良い躍動的な演奏に耳を奪われる。ハ長調ピアノ協奏曲のソロは、小倉貴久子さんがモーツァルト時代のピアノ(いわゆるフォルテピアノ)で好演。フォルテピアノでモーツァルトの協奏曲を聴くのは初めての経験だ。慣れないうちは何だか頼りない蚊の鳴くような音に聞こえたフォルテピアノだったが、次第にオケに溶け込むその軽やかな音色が心地よくなり、最後には力強さすら感じさせた。映画音楽に使われた有名な第二楽章が、あまりロマン派風の荘重にならず、軽快なテンポで進んだのにも好感が持てた。音の軽いフォルテピアノを使った協奏曲の演奏はこうありたい。
さて、この日の最後の「プラハ交響曲」だが、たまたま六月に同じ曲をオーケストラ・リベラ・クラシカでも聴いたので、オリジナル楽器のオケで聞き比べができる幸運に恵まれた。まず個々の演奏家の技量から言えば、内外の超一流プレイヤーを集めたリベラ・クラシカに一日の長がある。ことにリベラ・クラシカのトランペットとホルンはよく鳴っていた。若手中心のシンポシオンではオーボエの三宮正満さんが安定した技巧で美しい音色を聞かせてくれた。一方、音楽の作り方は、僕の好みはシンポシオンである。諸岡範澄さんの指揮は、古典派にふさわしいメリハリが利いており、しかも知的ユーモアと余裕に満ちたものだ。この日のアンコールで演奏されたハフナー交響曲のメヌエットを、全休止の後ゆっくりしたテンポで静かに終わらせる遊び心など、応えられない楽しさだ。シンポシオンの演奏は、古楽器独特の素朴で古拙な良さを充分活かした迫力と愉悦感に満ちている。リベラ・クラシカの指揮者、鈴木秀美さんは、これと比べると、音楽の作り方が生真面目すぎるような気がする。確かに引き締まったいい演奏なのだが、古典派に必要な愉悦感がやや乏しいのは、この人の真面目すぎる性格のせいか。しかも優秀な演奏だけに古拙さが失われて普通のモダンオケの演奏に近づきすぎている気もする。デコボコというかギクシャクというか、そういう古楽器オケ独特の賑やかさが無くなり、ツルリと近代的になり過ぎているきらいがある。もちろん、演奏には聴く人の好みがあり、以上のコメントは僕の個人的好みを述べているに過ぎないことをお断りしておく。
平成一七(二〇〇五)年一〇月八日
イヴァン・フィッシャーと樫本大進の意欲に感激す
去る金曜日、サントリーホールへ、ブタペスト祝祭管弦楽団の演奏会を見に行きました。指揮者のイヴァン・フィッシャーは、若い頃アノンクールに師事したこともあり、古楽の経験も活かした緊密なアンサンブルづくりをする人の由。また、このオケはハンガリー内外から優秀な演奏家を毎年オーディションで選んでいるとのことです。確かにこの日のベートーヴェンの第七交響曲でも、各声部の対位法的な扱いがくっきりと示された知的で緊密な演奏でした。しかも、第二楽章の冒頭の弦の(特に弱音の)美しさと、第四楽章の騎馬民族にしか構築できないと思わせるダイナミックで精悍なリズムに乗せた音楽は大変印象的でした。久々に「生きたベートーヴェン」を聞かせてもらいました。
しかしこの日、それにも増して見事だったのが、ドヴォルザークのヴァイオリン協奏曲で独奏した樫本大進さんでした。まだ二十歳代のこの若い日本人ヴァイオリニストは、既に風格を感じさせる堂々たる演奏振りで、なんと言っても素晴しかったのは、オレはドヴォルザークをやりたいんだ、という表現意欲がひしひしと伝わってきたことでした。ドヴォルザークのヴァイオリン協奏曲は、チェロ協奏曲などと比べると演奏頻度はそんなに高くありません。ソロが比較的地味で、チェロ協奏曲ほどメロディが鮮烈ではなく、やや冗長なところもある印象だったのですが、この日の樫本さんの見事な演奏でこの曲を見直しました。ボヘミアの自然を感じさせるドヴォルザーク節はこの曲でも随所に活きていますし、独奏ヴァイオリンとオケの管楽器などとの対話や融合もよく工夫されていて、優秀なソロとオケで演奏されれば聞かせどころ満載の「名曲」だったのです。こうした隠れた名曲を自らの表現力で世に引き出すことこそ、演奏家の大きな喜びのひとつではないでしょうか。
平成一七(二〇〇五)年一〇月三〇日
管楽合奏の楽しみ
虎ノ門にあるJTアートホールの室内楽シリーズ「宮本文昭の世界 Z」を聞きに行った。ポピュラー音楽との共演など、マルチタレントとして活躍されているオーボエ奏者・宮本文昭さんが、日本人とドイツ人が半々の合計一〇名ほどの管楽器合奏団を率いて、管楽合奏のための名曲を三曲演奏した。最初はモーツァルトのディベルティメント・変ロ長調(K二七〇)。オーボエ、ファゴット、ホルン各二本によるこの六重奏ディベルティメントは、当時の標準的な宮廷管楽合奏のために書かれた簡潔で楽しい音楽で、モーツァルトばかりでなくハイドンやミスリヴェチェクやホフマイスターなど当時の音楽家が数多く手掛けたジャンルである。管楽器の合奏は、弦楽器の合奏のような同系の楽器が綾なす緊密さや精緻さは無いが、ひとつひとつの楽器の個性や音色の対比を楽しむ開放的な音楽である。次のモーツァルトのセレナード・変ホ長調(K三七五)は、先の六重奏にクラリネットが二本加わった八重奏だが、左からはオーボエ、右からはクラリネットの独奏が掛け合う妙は管楽合奏の大いなる楽しみだ。しかもモーツァルトは、脇役を演じることの多いファゴットやホルンの奏者のためにも時々素敵な独奏を用意するのを忘れない。特に僕は、この曲の第一楽章の展開部でホルンが第二主題を朗々と吹きあげる何ともいえない開放感が大好きだ。
さて、この日の後半はドヴォルジャークの管楽セレナード・ニ短調(作品四四)が演奏された。ドヴォルジャークの管楽セレナードは、管楽合奏に低弦楽器が補強された規模の大きな四楽章の室内楽で、いかにもドヴォルジャークらしい暖かさにあふれた佳品である。特に、緩徐楽章の大自然に抱かれたような優しい叙情も印象的だが、何と言っても第四楽章の変化に富んだ面白さは忘れられない。飛び跳ねるような快活な主題が現れて充分展開された後、次第にテンポを緩め、何が起るかと思いきや、何と第一楽章冒頭の重厚なニ短調の行進曲が再現される。しかしそれも束の間、今度は超スピードで快活な主題が駆け抜け、最後はホルンのファンファーレで華やかに曲を閉じる。まさに名匠が技巧の限りを尽くして作り上げた名品! 僕は心の中でこう叫ばずにはいられなかった。演奏もメリハリのよく効いた好演で、聴衆を心から楽しませ、感性を豊かにしてくれる演奏会だったと思う。
あとはアンコールとなるわけだが、ここで宮本さんが話された舞台裏話が興味深かった。管楽器奏者は、普通、三曲も続けてしかもほとんど休み無く吹き続けるような機会は無い。オーケストラの中では彼らは断続的に出番が訪れるに過ぎない。三曲連続の演奏は、管楽器奏者にとっては過酷なプログラムなのだ。宮本さんによれば、この日のメンバーの大部分が、リハーサルで既に口の中が切れてしまっていた由。名匠の名品は演奏家の血の滲む精進によってこそ名品たり得ているのである。
平成一七(二〇〇五)年一二月三日