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「古典派からのメッセージ・2005年〜2006年」目次へ戻る
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「高野物狂」――その爽やかさと清々しさ

 

 今月の金沢定例能で演じられた「高野(こうや)物狂」を見て感激しました。「高野物狂」はこんな物語です。常陸の国の住人、高師四郎(たかしのしろう=シテ)が、主君の命日に寺に参詣していると、亡き主君の遺児・春満(しゅんみつ=子方)からの別れの手紙が届きます。そこには、春満が仏門に入る決意をしたことが、親代わりだった四郎への惜別の和歌と共にしたためられています。四郎は主君から託された春満がいずくとも知れず立ち去ったことを恨み嘆き、その跡を追って当て所も無い旅に出ます(ここまでが前半)。物狂いとなってさすらう四郎は、弘法大師の開いた真言宗の聖地、高野山にたどり着きます。高野山でもとりわけ美しく、仏法の永遠を象徴する「三鈷(さんこ)の松」の下で休んでいると、少年を伴った僧に出会い、さまざま語り合ううちに、高野山が人々に無常を悟らせるのにふさわしい場所であることに霊感を呼び覚まされてか、四郎は美しい舞を舞います。それを見ていた少年が、自分こそ四郎が探し求めていた春満であることを名乗り、二人はついに再会します。

 この曲の「主従の愛」という主題自体は、さほど現代人の興味を引くものではありませんし、登場人物もすべて面(おもて)を着けない直面(ひためん)だけに、「高野物狂」は全体的には地味な曲と言えましょう。しかしシテの薮俊彦師の所作と謡の素晴らしさで、この曲の清々しい魅力が充分に引き出されていました。まず、シテが幕から出て橋掛りを通って進み出る歩の運びの何とも言えぬ美しい緊張感。今からの舞台への期待感を膨らませてくれます。また、春満からの手紙を読み上げる謡は凛としてよく通り、見所の胸に響きます。手紙を取り落として萎(しお)る(=手を顔の前に持ってきて泣く形をする)姿の悲しさも胸を打ちます。旅程を表象する「カケリ」と称する型や「中の舞」は、均衡が取れて美しく、しかも滑らかです。能の舞はかくありたし、と思わせる素晴らしさでした。こうした所作と謡の美しさによって、仏法の聖地・高野山の静謐と主従の変わらぬ愛という、この曲の持つ爽やかで清々しい美質が浮かび上がっていたように思いました。

 なお、曲が終わってから、一緒に見ていた妻が、「舞台に出ていた立て松は、主従の契りが永遠であることを象徴しているのかな?」と質問してきました。たしかに常緑樹である松は長寿や永遠を象徴しますし、まして高野山の「三鈷の松」は仏法の不滅の象徴です。舞台に置かれた立て松は、「三鈷の松」を表わすとともに、物語の主題である主従の愛の普遍をも表わしているのだ――この能の象徴性の奥深さに気付いた妻をおおいに見直した次第です。

平成一七(二〇〇五)年五月一日