次の文章へ進む
前の文章へ戻る
「古典派からのメッセージ・2005年〜2006年」目次へ戻る
表紙へ戻る

 

芸術の効用とは何か

 

T

 

福田恒存全集第二巻所収の「芸術とは何か」において福田の言わんとするところは、抽象的な芸術の定義などではなく、「芸術が文明の中で本来果たすべき役割、効用は何か」ということである。福田によれば、それは、演戯(演じ戯れること)であり、感情の浄化である。アリストテレスを裏づけとするこの考えの背景には、福田の深々とした人間観がある。曰く、

 

「生は貪婪に欲望し貯蔵すると同時に、また欲しいままに消費することをも欲求してゐる。人間は永遠に生きようとしてゐるのかもしれないが、その同じ営みがひたすらおのれを無に帰せしめようと試みているやうでもあります。人生にあらゆる目的を仮設することもできるが、同時にそれらの目的をも含めて、人生は無目的であり、無用であり、まったくの無駄遣ひとも見られます。」(全集第二巻「芸術とは何か」より。以下同じ)

 

人間の生理は、ただ蓄積と成長を直線的に成し遂げるようにできているわけではなく、四季と同じように循環するのだ。肉体は新陳代謝によって古い部分の死と新しい部分の生まれ代りを繰り返す。古い世代は死に新しい世代を生み出す。古代に人々は古き年の死と新しき年の蘇りを、また、英雄の死と新たな生への賛歌を儀式や演劇にして表現した。そこに人々は集い、共に祈り、精神を浄化し、共同体への参画を体感したのである。これこそ芸術の起源である。古代日本の祭事や神事もまさにそうであった。古代ギリシアの悲劇も全く同様で、福田の言葉を借りれば、

 

「悲劇はまづ恐怖と哀憐の情を見る者に喚起し醒します。さうすることによって、この感情を舞台いっぱいに動き回らせ、その挙句の果てに、それに死の宣告を下し、舞台から放逐する―それが浄化作用であります。ここに明らかなことは、観衆は舞台を見ているのではないといふことだ。彼らは何かを見、何かを知るために、半円劇場に集まって来たのではない。治療を受けに来たのであります。芸術は、芸術家にとってのみならず、鑑賞者にとってもまた行為であります。芸術は、行為の場所であり、行為の手段すなわち手がかりである―さういふ簡単な事実を現代人はすっかり忘れているやうに思われます。」

 

U

 

近代以降、芸術は、選民思想と自己証明と意匠化によって、その本来の機能を喪失しつつあるのではないか、というのが福田の問題意識である。彼はそうした芸術の衰弱を演劇精神の衰退に見る。演劇は古来、悲劇と喜劇に明確に区分された。その明確な区分は、実人生がそんなにすっきりとは分かれ得ないことの代償として存在した。演劇は、実人生という「事実」の描写ではなく、とことん泣いてみたい、或いは徹底的にめでたしめでたしの結果を見たいという私たちの心理が要求する「真実」を提供する場だったのである。福田の言葉を借りると、

 

 「古典劇の時代にしても、実人生は常に平板空虚な劇でしかなかった。徹底した悲劇も喜劇もあり得なかったのです。が、それを芸術のうちに要求せずにゐられない生き生きした魂の充実は存在してゐた。」

 

のであり、現代の芸術は、その「生き生きした魂」が作り出す諧謔や演戯を嫌い、そういう魂を押し殺してしまうような、「事実」をできるだけ正確に表現すべきだという「生真面目な」実証主義、写実主義に覆われている。これが芸術における演劇精神の衰退である。

 

 芸術における演劇精神の衰退は、選民思想と自己証明と意匠化によって起こった、と福田は述べる。その委細を聞こう。まず選民思想とは、ユダヤ教に淵源を持つキリスト教に胚胎する思想である。すなわち、キリスト教徒を選民とし、自然を征服する欲望を正当化し、異教徒を征服する欲望をも正当化するのがキリスト教の選民思想である。それは欧州近代にも引き継がれる。曰く、

 

「今日、我々はこの欲望をヒューマニズムと呼んでゐる。ヒューマニズムとは人間の主体性を確立せんとする思想であり態度であります。が、自己の主体性を確立するためには、自己は他人に客体のみを強ひなければならない。当然の結果として、客体側からの謀反が周期的に繰りかへされてきました。それが革命です。だが、革命をいくたび行ったにしても(中略)被支配階級が支配されることに満足し、支配階級が安心して支配してゐる時にしか、人間の権威も主体性の確立もあり得ぬといふことになります。(中略)芸術の領域においては、主体と客体の対立が芸術家対鑑賞者の対立に転位します。といふのは、聖職者と俗人、支配階級と被支配階級、知識階級と大衆、その他あらゆる対立関係の場合と同様、芸術においても、その創造にあづかる者が常に従順な服従者を必要とするといふことに他ならない。(中略)ここに、芸術において主体性を保持できる者は芸術家だけといふことになってしまったのです。それは言はば芸術家のための芸術であります。我々が芸術を愛好し享楽するためには、みづから芸術家にならなければならない―できるだけ多くの他人を自分の作品の鑑賞者とし、さうすることによって彼らを征服するために。この傾向を押し進めていけば、芸術家みづからを作品の主人公としなければやまないところまで行かざるを得ないでありませう。」

 

芸術は、ここに、古代ギリシア劇の持っていた、演者と観客とが一体となった祈りと浄化いう機能を失い、選民思想から派生して「芸術家の自己証明の道具」と成り果てる危機に晒される。私小説や自画像があふれ返り、形の上では私小説や自画像ではなくても芸術家の自己証明、自己弁明が「芸術」の名を冠して氾濫するのである。

 

 資本主義が発達した現代においては、さらに芸術の装飾品化、意匠化が起こる。典型的なのがアメリカ映画である。映画は芸術を装っているが、実際は、芸術の原点たる演劇とは似て非なるもので、映画にはそもそも演者と観客の交流も一体化もあり得ない。福田の表現を借りれば、「我々観客は暗闇の中で全く受動的に、無気力に、じっと息を殺して座ってゐる」のだ。そこでは、すべてを端々までリアルに映し出す映像が観客に押し付けられる。映画は、できるだけリアルであろうとするのみならず、人間の能力では見ることのできない「現実」まで特殊撮影技術によって観客に見せつけるのである。そこには観客の自由な想像力や精神の自由は無い。私たちは映画製作者の気ままな思いつきに引きずり回されるだけである。「鑑賞者に精神の自由を許さぬ作品が氾濫すれば、誰も彼も作る側に回りたくなる」わけで、現代は自主演劇団やインディ音楽家や小説家志望者や映画監督希望者が増えるのである。そしてインターネットの出現は、ついにすべての人が作る側に回ることを可能にしたのである。鑑賞者は、ただ、「流行りの映画を観たかどうか」を、あたかも最新ファッション情報を知っているかどうか、という次元で語る。映画はアクセサリーに過ぎない。これこそ福田の言う芸術の意匠化であり、今日の小説、音楽など、大半の「芸術」は装飾品として買われ消費され捨てられるのである。

 

V

 

もう一度芸術の持つ本来機能、カタルシスということの意味を振り返ってみたい。福田曰く、

 

 「同じ作品が何度でも鑑賞するに堪へ、また年月を経てなほかつ新鮮味を失はないのは、我々がそのたびに新しい意味を発見するからではない。もちろんさういふこともありませう。が、芸術作品において意味などといふものは第二義的なものであり、単なる副産物に過ぎません。古典が常に新しいゆゑんは、それが人間性の本質に通じたカタルシスの効用を持っているからであります。浄化排泄の作用は一度だけで済むものではなく、何度でも要求されるものだからであります。」

 

「芸術はカタルシスであり、カタルシスの本質は繰り返しにある。それは肺臓の呼吸のやうに、また心臓や脈拍の鼓動のやうに、一定のリズムに支配されて繰り返しを行います。肉体の生理ばかりではない、情熱も観念も思想もこの原則からはづれるものではない。が、芸術家といふものは、元来、呼吸や脈拍の平常状態を忌み嫌います。(中略)芸術家は強烈に生きることを欲し、その生の自覚を求めるのです。芸術家は生を強烈に味はふために、呼吸や脈拍を早めたり遅めたりしようとする。この場合、もちろん彼は自己の生理の可能性の必然と限界とに随って、それを試みます。精神の運動の動と反動いふのは、そのことであります。(中略)動と反動があるゆゑに、そこには絶へざる繰り返しがあるのです。」

 

こうした本来の機能を果たさなくなり、芸術は芸術家の自己証明の道具となり、装飾品に成り果てつつある。芸術が人々にカタルシスを与えなくなった現代、浄化されない生命と精神にさまざまな問題が生起している。次の文章が書かれたのは昭和二十年代だが、福田の観察した事象は平成の現代でも驚くほど共通している。

 

 「現代人は自ら意識せずして、人をも我をも軽蔑し、人間を卑小な枠の中に閉じ込めてしまひました。金(カネ)と文明の進歩と、この二つのものによって、すべては解決できると思ひ込み、その枠の中に生命を閉じ込めてしまひました。が、人間の生命はさうはいかない。そんな枠の外にはみ出し、枠に謀反し、無条件に盲信されている枠の内部を撹乱し始めます。」

 

 それは、大衆の異常な風体や引き起こされる事件として現れる。

 

 「唇を醜いほど紅く塗った女、髪を赤くちぢらした女学生、単純な憤りから父親を殺す息子、金のために十数人の人間を毒殺し省みぬ中年男、二人連れの女に斬りつける若者、こと面倒と見れば簡単に自分の命を絶ってしまふ学生・・・彼らは果たして苦しんでゐないでせうか。彼らの苦しみはただ単に物質的なものであって、精神的な世界苦とは何のかかはりも無いものでせうか。(中略)大衆の生命力は傷に苦しみながら、世界中をのたうちまはっている。現代の倫理的、社会的混乱はすべてそれです。大衆は解毒剤を欲し、カタルシスを要求し、芸術を必要としているのです。が、その芸術さへ今日では解毒剤の役割を喪失して病菌そのものになってしまった。」

 

では、知識人たちには問題は無いのか。

 

 「なるほど、知識階級は芸術の文化的価値を知ってはゐます。が、その生命的価値を知ってはゐない。必要としてはゐない。いや、事実は必要なのだが、それが必要であるといふことに、言い換えれば根源的な生にとって必要であるべきはずの芸術が彼らには欠けてをり、それが教養の糧として、知識的生活の装飾として、単なる文明的価値に換算されてしまってゐるために、自分たちがどんなに苦しみ、どんなに混乱してゐるかといふ事実に気づいてゐないのであります。」

 

民衆も知識人も、無意識の生命の力が、本来の芸術、カタルシスをもたらす芸術を求めて止まないのである。曰く、

 

「彼ら民衆こそ―頽廃と汚辱とにまみれてゐる彼らこそ―人間が美しいものであるといふことを、最も信じたい人たちであり、それが信じられなければ生きていけない人たちなのであります。」

 

だから、民衆が、人間の美しさと生命力の象徴である「英雄」を求める心は決して消滅しない。民衆は常に英雄を求めている。しかし近代の芸術は英雄豪傑を締め出してしまった。そこで民衆は、「地下に潜り通俗小説的ドラマの中に復活」した英雄を見出すのである。一方、知識階級もまた英雄を求めている。「彼らは素朴な英雄崇拝に過ぎぬ通俗小説的ドラマを軽蔑し、さういふ自己の俗気を抑圧した結果、自我意識を英雄に祭り上げてしまった」のだ。民衆はこんな「知識階級の自我意識などを拝みたくない」のである。

 

古代ギリシアの典型的英雄オイディプースと、近代知識階級の自我意識が生んだ「英雄」の典型、イプセンの「人形の家」に出てくる女性主人公ノラとを比べると、二人の英雄がいかに異なる存在であるかがわかる。曰く、

 

「オイディプースが英雄であり得るためには、他になんびとをも必要としない。彼は自分に敵対する、或いは自分を崇拝し追随してくれる相手を必要としない。が、ノラは自分を英雄とするために、夫のヘルメルといふ俗物を必要としてゐる。」

 

このことは、観客の心理や生理にもたらす効果に大変な違いを生ずる。ギリシア悲劇においては、観客は英雄オイディプースに同一化し、「彼らの精神は英雄として運動し、自己を消費し、自我の貯蔵庫をゼロにする」のである。そこで観客は自我意識から解き放たれて自由を得、人間の美しさと共同体への信頼を取り戻し、精神の浄化を味わう。「人形の家」の観客は、英雄になるのではなく、英雄崇拝を強いられる。彼らは劇の進行とともに、自我意識が凝固してゆく過程をじっと耐えなければならない。自己をノラに擬し得た観客も、ノラの自我意識に自分の自我意識が追随・屈服させられただけで、そこには精神の自由と浄化は無い。

 

W

 

 芸術の効用は、あくまで精神をゼロの状態に復帰させることである。芸術は、人間を何者かにするのではなく、何者でもなくなるようにするのである。さらに福田の言葉を聞こう。

 

「精神は変わる必要も無ければ、変えることもできない。それはただ芸術によって強壮になるだけであります。芸術の効用はそれ以外にありはしない。強壮になった精神が、そのあとで何をするかは、およそ芸術の本質とは無縁のことなのです。その点では、芸術はあくまで無用であり、無目的であり、無償のものであります―あたかも医者はただ病気を治すのが目的であって、その肉体が何に使用されるかは問題にしないやうに。」

 

 「ゼロはあらゆる可能性を含むがゆゑに完全なのだ。なぜなら可能性は可能性にとどまっているから、破綻を招来することもなく、したがって美しいのであります。が、猜疑心に富んだ現代のリアリストたちは、可能性といふものを信用しません。(中略)彼らは人間が美しいものだといふ可能性よりも、その醜い現実を見て喜んでゐる。美しくとも可能性は虚偽であり、醜くとも現実は真実であると言ふ。」

 

 「芸術は、人間を、その現実からその可能性へと解放してやるものであります。たとへ瞬間にもせよ、そのとき人間は人間としての自己の美しさを信じることができる。鑑賞者もまた創造に参与すると言ふのは、この完全なる可能性に到達するカタルシスの運動を、鑑賞者もまた自ら行ひ得る場合だけであります。が、近代芸術はそれを拒絶する。選民芸術家たちは自分たちの自我意識の承認を鑑賞者に迫るのであります。可能性において人間が美しいといふことではなく、現実において作者の自我が美しいといふことを鑑賞者に納得させようとする。

 

一枚の風景画は、作者が自然をかく見たといふことを絶叫している。一巻の小説は、作者が人間を、人生をかく見たとわめいている。鑑賞者はカタルシスによってゼロの均衡状態に到達する代わりに、凝固した不純な自我意識にぶつかるだけだ―従順な鑑賞者は作品の自我意識に同化し、反発する鑑賞者はそれに対立して自分の内部におのれの自我意識を凝集せしめる。今日では、人々は芸術作品に自我意識の確立を求め、それを完全に果たしてくれる作品を偉大なる芸術と呼んでゐます。芸術の効用はカタルシスではなく、ナルシシズムに堕してしまったのであります。」

 

芸術は、本来、私たちの心を無にリセットするものであり、心を「無為にして為さざる無き」状態に還元するものである。心を裸にして自我意識から解放するものである。芸術は私たち人間を、現実からその可能性へと解放するものでもある。以上が福田の芸術論である。この「芸術とは何か」を読んで、僕は、福田の著作自身が読者に「考えさせる」文章であり、結論を与えて「おれを支持しろ」と喚いているような文章ではないことに気づいた。まさに読者を解放し、「可能性としての人間の美」へ一歩を歩ませる文章なのである。

 

平成一七(二〇〇五)年五月二八日