自由な言論は強者にしかできぬ
日下公人氏の近著「そして日本が勝つ」と「質の経済が始まった」(いずれもPHP)を読む。「そして日本が勝つ」で氏が言わんとするところは、「日本は、一般に日本人が考えているよりもはるかに多くの強いところ、優れたところを持っている。むしろ諸外国の方がそのことに気づいている。日本に足りないのはその強さを活かす意志の力である。」ということである。意志があれば国を造ることもできるし意志が無ければ国は滅びる。このことを、日下氏は、戦後間も無い時代の沖縄に出現した「八重山共和国」と、強さを欠いたためにアメリカの狡知に国を奪われたハワイ王国の例を挙げて説明する。自分の運命は自分で切り開く。この当たり前の「人間としての強さ」を、私たち日本人も日本国も持たなければならない。
一方、「質の経済が始まった」は、政府の開発事業や社会福祉などをゼロクリアし、経済運営を徹底的に民間の自発的な力に委ねようという主張である。これも、日本人に、「官」に依存せず自分の力で生きてゆくことを求めたものである。また、成果主義はマニュアル化できる低級品・低級サービスの生産に適した人事であるに過ぎず、日本型の人事でこそ、自由で自発的な力が発揮され、付加価値の高い高級品、高級サービスを創造できる、との主張も説得力がある。要は、米国の経済学や経営学を日本に適用しようなどという机上の空論はもうやめて、自分の頭で自分の事を考えよう、ということだ。民間が官に依存せず、個人が強く自発的な存在になれば、日本型人事の負の側面であった官僚的腐敗も生じにくくなろう。
日下氏は、アメリカにも、中国にも、自分が各種諮問委員会の委員になっている日本国政府に対しても、遠慮せずに直裁に発言している(もちろん彼なりに言葉や実例を選ぶ慎重さは保持してのことだが)。日下氏は、状況適応型ないしは外国崇拝型の学者・評論家ではない。自分の頭でものを考え、自分の眼力でものを見、自分の肉声でものを語る「知恵の人」である。
日下氏と同様に、自分の信念をしっかり自覚しながら発言しているのが、作家の曽野綾子さんである。彼女が理事長をしている日本財団が、海上保安庁の巡視艇に追いつめられ自爆した北朝鮮の武装した偽装漁船を一般に公開していたのは、日本人の自主独立精神を涵養するのにとても良い教材になったと思う。あの船を見た人たちは、きっと、兵士を人間として扱わないような、非人間的な武装専制国家の「悪」を実感できたからだ。
曽野さんが「北國新聞」の日曜日に連載しているエッセイは、歯に衣着せぬ発言がすがすがしい。七月三日のエッセイには、靖国参拝について、「中国や韓国が嫌がるから参拝するな、というのは、商売人の資質である。それは政治家であれ経済人であれ、一流の人格と哲学を持つ人の口にすることではない」と述べておられるが、僕も満腔から賛成である。外国に右顧左眄するような「商人国家」が日本の理想であってはならない。そんな国は世界から軽蔑され疎まれるだけである。また、七月一〇日には、子供に資産形成や株式市場についての教育を進めている証券会社系の団体の活動について、「資産形成は、まず自分で働いて金を稼いでからのことである。基本的な経済能力を持たない者が、なまじっか経済的観念を持ったり資産形成を考えたりすれば、(中略)楽をして一攫千金を狙う投機的な関心と結びつくだけである」と批判しておられるのも、子供の教育には何が必要で何が必要でないかを考える上で重要な視点である。このように、曽野さんの発言も、特定の勢力や業界に遠慮していないのが素晴しい。
もうひとり、経済人で積極的に発言しているのが、A社のM代表である。M氏は、顧客向けPR誌で対談やエッセイを通じて自分の意見を発信しておられる。氏が自由な発言をできる理由について、ご自身からこんな話を伺ったことがある。まず、組織に依存した雇われ人では、属している組織を遠慮なく批判するなどということは難しくなる。自ら事業を起こしてメシを食えることが自由な言論の条件である。さらに、特定の業者や業種に依存している事業だと、彼らを批判できず、気兼ねしなければならない。消費者に直接物やサービスを提供する事業を営むことが自由な言論のもうひとつの条件である、と。自由な言論は自ら身を立てた強者でなければできないのだ。
もちろんすべての人が日下氏や曽野さんやM代表のようになれるわけではない。むしろほとんどの人が数多くの「しがらみ」を抱えて生きており、自由な発言などできる人は例外である。しかし、しがらみを抱えた組織人であっても、ひたすら組織に適応することだけを最優先して生きている人と、一個人としての生き方を見失わない人とでは、発言の重さが違ってこようし、組織のあり方を誤らぬのも後者のような人が運営したときである。人間には独立自尊の気概が不可欠である。逆に、私たちは、マスコミなどで発言している人の発言について、発言者の背景をよくわきまえ、彼(彼女)を制約している「しがらみ」を把握し、その言論の限界はどの辺かをよく見極める必要がある。その発言は、自分の意見などではなく、単なる業界利益の代弁に過ぎないかも知れないのである。発言者についての「社会学」も必要なのである。
平成一七(二〇〇五)年七月一一日