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「古典派からのメッセージ・2005年〜2006年」目次へ戻る
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国を愛するということ―健全な愛国心のために

 


T

 

愛国心とは、「…だから国を守る、…だから日本を愛す」のではない。有名人でなくとも、大金持ちでなくとも、私たちは自分や自分の家族を愛する。それと同じく、英雄や天才がいなくとも、世界を支配した歴史を持たなくとも、私たちは自分の祖国を愛するのである。

 

 私たちは親を選ぶことはできない。兄弟姉妹を選ぶこともほとんど不可能だ。生まれ故郷を選ぶこともできないし、祖国を選択する自由も事実上は持ち合わせてはいない。であれば、それらを、つまり自分が選ぶことのできない宿命を慈しみ愛するほかはあるまい。そうでなければ自分を否定することになる。

 

 遠い祖先に自分が連なっていることを想像するのは実に楽しいではないか。こうした感性は自然や先祖を慈しむ、私たち人間の本源的で自然な感情なのだ。おそらくあらゆる宗教の根源はここにある。

 

こうした事情について、福田恒存はこう述べる:―

 

「法隆寺や万葉集や実朝や天皇や、さういふものによってはじめて自覚される民族主義ではいけないといふことです。湯川秀樹や古橋広之進に我が民族の誇りを仮託してもなりません。(中略)ぼくたち日本人は仲間のうちから今後一人のチャンピオンを出さなくともよろしい。どんぐりばかりで結構です。ただその際必要なことは、どんぐりもまた一人の人間であり、英雄や天才と同じ権利を持つといふ個人の自覚であります。(中略)暖衣飽食しか考へてゐないのが大衆の常であり、さういふ彼らをそのまま肯定してやること、それ以外に個人の自覚はありません。(中略)歴史における未来の空白を自覚し、その前に立って自分の一歩を歩みだすその歩み方は、他の誰にも代役の務まらぬ光輝ある創造だといふことさへ知ってゐれば、卑下も尊敬も要らぬのです。」(福田恒存全集第二巻から「民族の自覚について」より)

 

あるがままを愛すること。これこそ真のヒューマニズムであり、真の愛国心なのである。

 


U

 

内には卑屈になることなく堂々たる自信を持ち、それゆえに外に対しては理性と謙虚さで対することができる「大人の愛国心」が私たちに求められている。しかし、国を愛することのこうした基本姿勢を忘れた不自然な誇大ナショナリストや、その逆の、自国の歴史を斜に見る愚か者が何と多いことか。特に、大東亜戦争の意味については、左右両極、誇大ナショナリズムと中国や韓国に媚びる卑屈な自虐史観とに分裂しがちである。自虐史観には何をか言わんやであるが、近年は昭和の歴史をやや美化しすぎる論調も目に付く。僕は、昭和前半の歴史を、失敗の歴史として扱い、冷静に敗戦の原因を解析すべきだと思う。元首である以上、昭和天皇の敗戦責任は問われるべきだとも思う。ただしそれは他国民に対しての責任ではなく、自国民への戦に勝てなかった責任である。

 

 僕は自虐史観が大嫌いなので、それを是正する活動をしている「新しい歴史教科書をつくる会」を支援している。今年五月一四日に金沢で開かれた「つくる会」主催の「教科書シンポジウム」にも顔を出してみたが、いくつか面白い発見があった。特に、日本の近代史が海外から予想以上に高く評価されていることである。「明治維新は武士階級の自己犠牲による革命であり、世界史上でも類例の無いことである。」これはフランスの世界史教科書の記述である。もちろん日露戦争勝利への海外教科書の礼賛は枚挙にいとま無い。中国の孫文、インドのネルー、イランの民族主義詩人、トルコのケマル・アタチュルク、エジプトの民族主義者など、当時欧米の植民地支配に苦しんでいたアジア・アフリカ諸国の指導者たちにとって、アジアの新興国、日本がヨーロッパの大国ロシアを破ったことは、驚天動地の快挙だった。ああ、しかし気をつけよう。「…だから日本を愛す」の発想には気をつけよう。たとえ敗戦を経ても、あるがままを日本を愛すること。これこそ真のヒューマニズムであり、真の愛国心であることをもう一度肝に銘じよう。

 


V

 

「君が代」について偏見を抱いている人は意外に多いようだが、各国の国歌を聞いてみるとそれぞれ特色があって面白い。アメリカ国歌はいかにも資本主義のたくましさを感じるし、フランス国歌の狂気にはフランス革命とは何だったのかを改めて考えさせられる。ドイツ国歌はなんと言ってもハイドン作曲の名品だ。第二次大戦後に出来た新興国家たちの国歌は、どれも民族の伝統が感じられず、西洋音楽の安っぽい借り物のようだ。その点、日本の「君が代」は異彩を放っている。「君が代」の歌詞の原典は和漢朗詠集や古今和歌集にさかのぼる。作曲は、明治初期にイギリス人フェントンや宮内省式部寮雅楽課によって作曲された後、ドイツ人エッケルトの編曲などを経て、明治一三年に吹奏楽総譜として完成したとのことである。その音楽は、雅楽を基調としながらも、近代西洋音楽との融合も巧みに図られている。ここで注意したいのは、雅楽は国粋的な音楽ではないということだ。それはシルクロードを伝わってきた古代アジア各地の音楽を消化した極めて国際的な音楽なのである。「君が代」が国粋的だとの批判は全く的を得ていない。そのような硬化し切った左翼的感性では国際社会に通用しないだろう。「君が代」は四海を越えて各国と親善を図りたいという願いが込められた音楽なのだ。こんな良く出来た音楽を好きにならずにいられようか。

 

 ついでに「日の丸」について調べてみると、「日の丸」の旗印は南北朝時代や戦国時代にも使われたが、国の代表的な旗として使われるようになったのは江戸時代以降とのこと。幕末は日本の船印として使われ、万延元(一八六〇)年、日米修好通商条約批准のため米国に赴いた咸臨丸は日章旗を掲げて太平洋を渡った。明治三年、太政官布告により船舶に掲げる国旗と定められたそうだ。江戸時代にアメリカが自国の国旗にしたいから譲ってくれと言ってきたのは有名な話である。確かに「日の丸」はいいデザインだ。僕はこの簡素な美しさを愛する。

 

ああ、また、これこれだから日本の国歌や国旗が好きだと述べる愚を犯してしまった。優れたところがどんなに少なくても、あるがままを愛することこそ真の愛国心なのだということをもう一度しっかり胸に刻んでおこう。

平成一七(二〇〇五)年七月一四日