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「古典派からのメッセージ・2005年〜2006年」目次へ戻る
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「現代日本の指導者層のためのノブリス・オブリージュ」序論

 

 

リーダーの自覚無きリーダーたち

 

現代日本は「ノブリス・オブリージュ(=指導者や社会的エリートが保つべき倫理規範)」の確立が困難な社会である。まず、「そもそも誰がエリートなのか」が極めて不明確である。戦前までは、天皇、公家、武家といった古代以来堆積してきた社会の指導層が権威を持っており、そうした伝統的権威に、明治以降の近代エリート(旧制高校や大学を出た官・民・軍のキャリア組や近代知識人)が重なる形で社会の指導者層が形成されていた。戦後は、天皇制以外の伝統的権威は消滅し、明治体制下のエリートも否定され、平等主義と無階層化が徹底されたアトミズムの社会が出現した。アトミズム社会は、共同体的紐帯を束縛として排除しようとする砂の集合のような社会である。

 

アトミズム社会では、社会のリーダーは、身分や知見や納税額によってではなく、普通選挙によって選ばれる。しかし日本では選ばれた政治家に対する尊敬と信頼の気持ちは必ずしも厚くはなく、政治家は必ずしもエリートと見做されてはいない。というのも、憲法がアメリカから押し付けられたものであることも手伝って、日本国民には、アメリカ人などと比べると、自ら指導者を選んでいるという自覚、言い換えれば「自治の精神」が著しく乏しいからである。大多数の国民にとって選挙は煩わしい義務でしかない。民主主義は、本来、国民の強烈な自治への希求を前提にした制度であり、この希求が欠如したまま選ばれる日本の政治家が必ずしも「選良」と認知されないのもやむを得ないのである。

 

しかも現代日本では、専門分化が進み、政治エリートと経済エリートと科学技術エリートと知識エリートが分離並立している。社会の指導者として尊敬を受けるのは必ずしも政治家ではなく、経済優位の現代日本では経済界での成功者が政治家以上に持て囃されることもある。しかし多くの経営者は「儲ける」こと以外にはあまり関心は無い。科学技術者の存在感も大きくなっているが、彼らは専門性の枠に籠りがちで、社会のリーダーとしての自覚は乏しい。一方、政治・経済・科学技術の実務から距離を置いた知識人エリートやエコノミスト、コンサルタントといった人々も存在するが、知識人の権威は戦前に遠く及ばず、ネット社会の出現は知識人の存在意義をますます曖昧なものにしつつある。このように、現代日本では、「そもそも誰がエリートなのか」が不明確であり、社会の指導者層は無自覚的に存在しているに過ぎない。

 


ノブリス・オブリージュからの逃避

 

 これまで述べたように無自覚な存在とはいえ、あらゆる組織はリーダー無しには運営できず、現実の日本にも指導者層は存在する。しかし平等主義の社会はエリートの存在を許容しない。平等社会は「嫉妬」と「足の引っ張り合い」のセンチメントに支配されており、それを扇動しているのがマスコミである。そこでは、指導者層の持つべき倫理を論ずること自体が「差別的なエリート主義だ」との反発を招くような状況であり、実りあるノブリス・オブリージュ論自体が存在しない。一方、現実の指導者たちも、わが身を嫉妬社会の暴力から守るために、本来指導者として持つべき使命感を持つことをできるだけ抑え、打たれる杭にならぬようにとの消極的な処世術を身に着けがちである。

 

 また、経済至上主義の社会では、とにかく短期的な収益を挙げる経営者が有能と見做され、中期展望に立った企業理念を構築するといった、本来リーダーに求められる機能が疎かになりがちである。ノブリス・オブリージュは無用なものとして放置、忘却されがちである。このように、平等主義と経済至上主義の現代日本においては、持つべき倫理規範(=ノブリス・オブリージュ)が指導者層に示されていないし、彼ら自身もそれを持つことを避けているのである。

 


ノブリス・オブリージュの姿を求めて

 

 このままでは日本に優れたリーダーは育たない。民主主義や自由主義の象徴とも言うべきアメリカ第三代大統領ジェファーソンも社会に優れたリーダーは不可欠と言っている。独裁政治の温床である衆愚政治を招来しないためにも、また、惰性が支配する官僚的統治から生み出される企業不祥事を発生させないためにも、日本国民が腹の底から共感できるような日本的ノブリス・オブリージュの確立が求められている。その際留意すべきは、ノブリス・オブリージュとは、不祥事を起こさない心構えなどという消極的なものではあってはならないということだ。それは、大げさに言えば、生きとし生けるもの全ての共生の実現といった積極的な「志」と「使命感」を指導者に持つことを促す指導原理でなければならない。

 

日本型ノブリス・オブリージュの姿を描くヒントは、かつての武士階級の規範である武士道に中にふんだんに存在すると僕は考えている。また、古代ギリシア哲学以来の西洋の倫理思想史にもそのヒントはたくさん隠されている。指導者を分野ごとに考えてゆくと、まず、政治家にとっては、国益とは何かを考えることが最も重要なポイントである。例えば、アメリカ独立当時の政治家であったハミルトン、マディソン、ジェイの共著「ザ・フェデラリスト」に、そのヒントが豊かに示されている。経済界の指導者にとっては、日本型経営をもう一度自覚的に構築することが求められている。その上でアングロサクソン型資本主義を身の丈にあわせて使いこなす術を学ぶという主体的な態度が必要である。科学技術分野の指導者には、科学技術開発の効用についての責任ということを考えてもらわなければならない。知識階級やコンサルタントには、言論の責任ということを求めたい。このように、指導者層全般に必須のノブリス・オブリージュと、分野別のノブリス・オブリージュの姿を具体的に考えてゆきたい。

平成一七(二〇〇五)年八月二一日