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「古典派からのメッセージ・2005年〜2006年」目次へ戻る
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仏典を現代日本語で読む運動

 

 

私たち日本人が仏典に触れる機会は決して多くない。熱心な信者以外の人は、下手をすると葬式以外の場で仏典を読んだり聞いたりすることは人生の中で皆無かもしれない。しかも葬式での読経は、漢訳仏典の漢字の羅列を棒読み(音読)するだけなので、それを聞いてもまったく意味不明である。大方の現代日本人は、ブッダの教えの何たるかをまともに受け止めることなく生涯を終えてゆくのではないか。これは、特に特定の宗派の熱心な信者でもない僕が、一読者としていくつかの仏典の現代日本語訳を読み、その素晴らしさに驚いた経験からすると、大変もったいない気がする。現代日本人の基本図書として、主要な仏典の美しく格調高い現代日本語訳を用意すべきではないだろうか。僕は、わが葬儀の際には、読経とともに、現代語のナレーションを流したいと思っている。

 

仏典を漢訳の読経で覚えるのではなく、現代日本語に直して正確な意味を知りたいという僕のアプローチは、言葉の意味にこだわる現代人の病弊なのかもしれない。昔は村のお坊さんが檀家衆を集めて、生活に即して仏典の意味をわかりやすく説く機会もあっただろう。それを念頭において葬儀の場などで読経を聞けば、音楽的かつ荘厳な雰囲気から、仏典の意味を体で感得することもできたであろう。しかし昔のような地域共同体がもはや存在しない以上は、意味を理解できる形で流布しないと、一般の人たちにとって、仏典はますます遠い存在になってしまう。仏教の流布に使命感を持つ人たちが,美しい現代日本語の仏典を用意し、それを私たち現代日本人が読む。それによって、改めて仏教の美学や思想を体に染み込ませた自らの出自に気づき、そのアイデンティティを慈しむ―そんな体験ができれば、現代日本人の生き方はもっと陰影ある豊かなものになるのではないだろうか。五木寛之さんの“準仏教書”とでもいうべき人生論の類があれほど人々に受け入れられているのだから、現代日本人にはブッダの教えへの強い希求があるのだと思う。

 

平成一七(二〇〇五)年七月一六日

 

 

【追記】仏典の現代日本語訳は今でももちろんある。ホテルの机の引き出しには、聖書と並んでたいてい現代語訳の仏典が置いてある。中村元先生が原語から直接訳された岩波文庫の初期仏典は、日本語としてもよく練られていると思う。また、最近も、詩人の八木幹夫さんが、主要な大乗仏典の一部を詩の形で訳された「日本語で読むお経」(松柏社)という本を出された。これもリズム感があって読みやすい。しかしいずれも広く国民に普及しているとは言いがたい。願はくは、各宗派が協力して、全国民の標準的な素養となり得るような美しい現代日本語の主要仏典集を作り、それを広く日本中に流布せられんことを。

 

平成一八(二〇〇六)年一月一七日