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「古典派からのメッセージ・2005年〜2006年」目次へ戻る
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華やかなるかな、実盛!

 


 九月四日、金沢能楽会の別会能を拝見。能三番と狂言一番が演じられた中で、何と言っても最も心を動かされたのは、我が師匠である藪俊彦師がシテを演じられた能「実盛」でした。この曲の主人公、斎藤実盛とはいかなる人物なのでしょうか。主人公の事跡がわからないとこの能の面白さを充分味わえないと思いますので、長くなりますが、ネット上のフリー百科事典「ウィキペディア」から実盛の項を引用しましょう。

 

「斎藤実盛 天永二(一一一一)寿永二(一一八三)平安時代末期の武将。越前に生まれ、のち武蔵国幡羅郡長井庄(現在の埼玉県大里郡妻沼町)を本拠とし、長井別当と呼ばれる。武蔵国は、相模国を本拠とする源義朝上野国に進出してきたその弟・源義賢の両勢力の緩衝地帯であった。実盛は始め義朝に従っていたが、やがて地政学的な判断から義賢の幕下に伺候するようになる。こうした武蔵衆の動きを危険視した義朝の子・義平は、久寿二(一一五五)年に義賢を急襲してこれを討ち取ってしまう。実盛は再び義朝・義平父子の麾下に戻るが、一方で義賢に対する旧恩も忘れず、義賢の遺児・駒王丸を預かり、信濃国中原兼遠のもとに送り届けた。この駒王丸こそが後の旭将軍・木曾義仲である。木曾義仲にとって実盛は命の恩人であった。

 

保元の乱平治の乱においては上洛し、義朝の忠実な部将として奮戦する。平治の乱で義朝が滅亡した後は、関東に落ち延びて平家に仕え、東国における歴戦の有力武将として平家から重用される。そのため、治承(一一八〇)年に義朝の子・頼朝が挙兵しても平家方にとどまり、平維盛の後見役として頼朝追討に出陣する。平家軍は富士川の戦いにおいて頼朝に大敗を喫するが、これは、実盛が東国武士の勇猛さを説いたところ維盛以下平家の武将が過剰な恐怖心を抱いてしまい、その結果水鳥の羽音を夜襲と勘違いしてしまったことによるという。実盛にとっては痛恨の負け戦であった。

 

寿永二(一一八三)年、再び平維盛らと木曾義仲追討のため北陸に出陣するが、加賀国篠原の戦いで敗北。味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の部将・手塚太郎によって討ち取られた。この際、出陣前からここを最期の地と覚悟しており、『最期こそ若々しく戦いたい』という思いから白髪の頭を黒く染めていた。そのため首実検の際にもすぐには実盛本人とわからなかったが、木曾義仲が首を付近の池にて洗わせたところ、みるみる白髪に変わったため、ついに実盛と確認された。かつての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせんだという。」

               
               実盛の石像(小松市の多太神社)                   篠原古戦場近くにある、実盛の首を洗ったとされる「首洗い池」

 

 能「実盛」は、遊行上人が加賀国篠原で実盛の幽霊に二百余年ぶりに十念を授けて成仏させたという、室町時代の当時大変話題になったニュースを契機に、世阿弥が創作した曲です。遊行上人が篠原で連日説法をしていると、一人の老人が毎日熱心に聴聞に来ています。上人が老人に名を尋ねてもなかなか明かしませんが、強いて尋ねると、周りの人を遠ざけた後、自分こそ二百余年を経てなお成仏できずにいる実盛の幽霊であると明かして消え失せます(ここまでが前半)。上人が実盛の跡を弔って念仏を唱えていると、白髪の老武者姿の実盛が現れ、上人の回向に感謝しつつ、篠原の戦いにおける錦の直垂を拝領しての出陣の様子や手塚太郎に討ち取られた修羅の様子などを物語り、重ねての回向を上人に頼んで消え去ります。

 

 この能の眼目のひとつは、実盛という人が最期の戦(いくさ)をどんな心境で戦ったのか、ではないでしょうか。事跡から考えるに、実盛という武将は、ただ勇猛なだけの人物ではなかったと思われます。むしろ戦(いくさ)や人の運命に対して複雑な思いを抱き続けながら生きた人だったのではないでしょうか。もともと源氏に仕える武将でしたが、義朝・義賢の兄弟同士の源氏の内紛には困惑し嫌な思いもしたでしょうし、幼い木曾義仲を救った義侠心にもこの人の気持ちがよく現れています。義朝が滅んでからは平家に仕え、木曾義仲や頼朝の挙兵にも応じず平家に忠義を尽くしますが、これも単に処世術のためではなく、親兄弟が争う源氏と比べ、一族が最後まで団結していた平家の雰囲気に惹かれるところがあったのではないかと小生は想像します。そして北陸での戦いを自分の死地に選んだ実盛。齢(よわい)も既に七十を超え、自分が命を救った木曾義仲と戦うことになった宿命や、生まれ故郷の越前に近い加賀の篠原での戦いとなったことは、こここそ自分の死地である必然を彼に感じさせたことでしょう。彼はこれまでの様々な思いを乗り越えて華やかに最期を飾ろうと覚悟を決めるのです。能「実盛」の詞章には、こうした実盛の思いが随所に散りばめられています。

 

前場では、実盛の化体である老翁が、死して二百年を経てなお成仏できぬ悲しみをさびさびと語るのが印象的です。「草葉の露の翁さび…」と謡われる前場の最後の部分でのシテの微動だにしない姿の美しさはどうでしょう。「なき世語りも恥かしとて」で微かにうつむく型が実盛の悲しみを切々と訴えてきます。中入りの退出姿も厳粛です。後場では、最後に手塚太郎に首を討ち取られる凄惨な型は、「老武者の悲しさ」が生々しく表現されており、まさに芭蕉もこの能の詞章を引いて詠んだとおり「無残やな」というわけですが、小生には、それよりも実盛の美しく着飾った華やかさの方が印象に残りました。表はオレンジ色、裏は紫色に染めた、「錦の直垂に萌黄匂ひの鎧着て、黄金作りの太刀かたな」という華やかな装束が、長い白髪に三光尉の老翁の面(おもて)を意外なほど引き立てて、老武者の最期の覚悟の程を感じさせてくれます。その華やかさは、実盛の伊達ぶり、ダンディズムをしのばせ、「戦も人生も一時の夢よ」とでも語りかけてくるようで、一種突き抜けた明るさを感じさせるのです。首実検の場面を再現するあたりからの一連の所作も実に華やかで、特に「されば古への、朱買臣は錦の袂を会稽山に翻し」の謡に合わせて袂を翻す所作は何とかっこいいのでしょう。寸分の隙も無いシテの所作の連続に、目も心も釘付けにされました。修羅道に落ちて二百年も苦しみ続けた実盛ですが、凄惨でありながらも華やかな自分の最期を遊行上人に語り尽くすことで苦しみから解き放たれてゆくのです。

 

 藪師の主宰する篁宝会の会報によれば、演能に先立って、藪師は篠原の地を訪れ、実盛の首を洗ったといわれる池の面に手を合わせてその成仏を祈り、能を無事に舞い納めますと誓われたとのことです。演じることが祈ることになり、祈ることで人が苦しみから救われる、そして我々見物衆も精神の浄化(カタルシス)を味わうが能の祝祭性です。この日の能はまさしく祈りの舞だったのです。

平成一七(二〇〇五)年九月一〇日