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「蝉しぐれ」―民族の叙事詩

 

 

今日、立川のシネマシティへ、家族三人で藤沢周平原作の映画「蝉しぐれ」を見に行った。この映画のキャッチコピーに「二十年間、人を想い続けたことはありますか」とあったが、「蝉しぐれ」は単なる切ない恋愛ドラマではない。恋愛劇というよりは民族の叙事詩である。苛烈な自然の中での人々の生活、過酷な運命を生きる主人公の文四郎。この映画には、武士の姿が、或いは武士のあるべき姿が、しっかりと刻み込まれている。義に生きる心構え、居ずまいの美しさ、知恵と勇気、覚悟と腹の据わり等々。いや、武士だけではなく、我が先祖たちの生きる姿の何と健気なことか!そう叫ばずにはいられず、さらに、こうした人々の営みのおかげで今の自分や妻や娘の豊かな生活があるのだ、そう頭を下げざるを得ない説得力がこの映画にはある。監督の黒土三男(くろつちみつお)氏は、藤沢周平の原作に忠実に撮る以外にあり得なかったと述べ、日本人の気高さを描きたかったと語っておられるが、その意図はひしひしと見る者に伝わってくる。「蝉しぐれ」はもちろん架空の物語であるが、あたかも江戸期の人々の生きる姿を記録した美しい叙事詩のように僕には感じられたのである。

 

 よく出来た映画だと思う。映像も日本の四季をいとおしく感じさせる美しいものだし、剣術あり、陰謀劇ありと、画面から目を離せなくなるエンターテインメントもたっぷり用意されている。僕は、冒頭、後に文四郎がふくに助けられ難渋しながら父の亡骸を大八車で運ぶことになる坂道の風景が出てきた瞬間から涙が止まらなかった。我が娘もかなり衝撃を受けたようで、その日の夜、興奮した様子で友達に「蝉しぐれ」のことを電話したり、大学の図書館で藤沢周平の原作を借りてきたりしていた。

 僕は、何でも見せてしまうことで鑑賞者を完全に受身にし、その自由な想像力を奪いかねない映画という表現形式を必ずしも好きになれない。例えば演劇としての能は、テキストを熟知したうえで、謡を聞き型を見るものである。そうすることによって、舞台で演じられる謡や型を触媒として、悲しみであれ喜びであれ、見所の心に人間の真実の姿が鮮やかな象形となって開花するのである。見所には自由があり、能作者や能役者は見所の自由な想像力の触媒役なのである。一方、テキストを予習しなくても、その場ですべて説明し尽くすのが映画である。現実を余すところ無く映し出す映像には、言葉と違って想像力の働く余地が無い。見所はただ映画監督の思想信条や美学を受身に押し頂くしかなくなる。映画の鑑賞者に自由は無い。が、「蝉しぐれ」のような良心的な映像づくりをする黒土監督になら、僕も喜んで説得されよう。

平成一七(二〇〇五)年一〇月一〇日


映画「蝉しぐれ」パンフ