J・S・ミルの「自由論」―現代倫理の出発点
現代倫理の難しさ
現代の難しさは、倫理規範の納得性が揺らいでいること、つまり、何が悪で何が善かについて、安心して身を委ねることが難しくなったことである。例えば、次のような質問群のすべてに理由を示して明快に答えられる人が何人いるだろうか。
「麻薬使用は個々人の自由裁量に任せるべきか」
「妊娠中絶は女性の自己決定に委ねるべきか」
「他人に迷惑をかけなければ売春は悪いことではないか」
「法令の規制が無ければ周囲と不釣合いな奇抜な建物に住もうと勝手か」
「自殺は犯罪か」
「安楽死は認められるべきか」
「脳死者からの臓器移植は愛の贈り物か」
「クローン人間は神への挑戦か」
これらの問いに答えるのが難しくなっているのは、二つの理由があろう。ひとつは、科学技術の進歩で生命科学などの分野についてきちんとした知識がないとそもそも問題を理解し得なくなっていること。もうひとつは、近現代の自由主義の発達によって、人類としての種を維持・保存することや共同体の安全を維持することと、個人の自由な活動を許容することが対立し、その妥協が容易でなくなっていることである。科学技術の問題はさておき、ここでは、近代自由主義と倫理の問題を、自由主義の古典であるJ・S・ミルの「自由論」を足がかりにして考えてみたい。
功利主義的自由主義
ベンサムやミルの功利主義的自由主義の倫理思想には、四つほど特色があるように思われる。ひとつは「計量可能な快楽主義」である。人間にとって幸福とは快楽が増すことであり苦痛が減少することである。そして社会にとって望ましいのは計量可能な快楽としての幸福を最大化することである。ベンサムの「最大多数の最大幸福」という功利主義のスローガンは有名である。人間の欲望を否定的にとらえ「むしろ人はこうあるべき」という欲望にとらわれない理想像を示すのではなく、人間の素朴なエゴイズムを率直に認め、欲望を肯定する考えである。ミルは、「自由論」の中で、しばしばカトリックをはじめとするキリスト教の高圧的、硬直的、偽善的な道徳思想を排撃しているが、これはちょうど、江戸期の日本で本居宣長が儒教や仏教の硬直的で偽善に陥りやすい道徳主義に反発して、人間の素朴な欲望を肯定したのに通じるかもしれない。
功利主義的自由主義の特色の二つめは、「最低限の倫理主義」ないしは「罪刑法定主義」である。ミルは、人間のエゴイズムを肯定し、人間の行為をその動機によってではなく、結果(効用)によって評価しようとする。動機が崇高であろうと下劣であろうと、その行為のもたらす結果が社会に害悪をもたらさなければ、その行為を「悪」とは見做さない。つまり人々に崇高な要求をするのではなく、最低限の倫理基準を守るように求め、国家が個人の行為に関与し得る基準として最低限の倫理を定立し、法が個人を罰することが出来る事項を限定列挙とした。これが罪刑法定主義である。この思想の背景にあるのは、キリスト教と結びついた絶対王政が恣意的な「道徳」で権力に都合の悪い人々を処分したことへの反発である。
三つめの特色は、「個人主義」ないし「個性主義」というべき性格である。ミルは、集団的価値観に個人が埋没することによる文明の停滞、思考の硬直化を恐れ、個人が生き生きと個性を発揮できるような自由な社会を希求する。ただしここで言う個人とか個性とは、向上心に富んだ社会のリーダーにふさわしい個性のことを彼は念頭に置いている。ミルは、自由主義こそが適者生存的に最も環境変動への対応力を持ち、その時代にふさわしい思想や倫理を社会に定着させることが出来る(良貨が悪貨を駆逐する)と主張しつつも、一方では、自由主義が大衆社会化による衆愚政治や「多数の横暴」を招来する(悪貨が良貨を駆逐する)危険をも認め、隣人と新聞世論に右顧左眄するだけの大衆から一歩抜きん出た、社会のリーダーたるにふさわしい「偉大な個性」に導かれた自由社会を理想としている。
そして四つめは「相対主義」ないし「多元主義」である。自由主義は、画一と絶対思考を忌避し、すべての価値観を相対化する考えを内包している。ミルも、キリスト教以外の文明社会もそれぞれ貴重な役割を果たしていると述べるが、このあたりの柔軟さは僕もとりわけ共感を覚える部分である。
自由主義と現代
以上のような特色を持つ功利主義的自由主義の倫理思想を、加藤尚武氏の著書から引いて整理すると、「@判断能力のある大人なら、A自分の生命、身体、財産に関して、B他人に危害を及ぼさない限り、Cたとえその決定が当人にとって不利益であっても、D自己決定の権限を持つ」ということである。
倫理思想における自由主義は、経済における資本主義、政治における民主主義と一体となって発達した。ミルは過去の共同体的な価値観(とりわけカトリックを中心とするキリスト教)が人々に画一的な人生観を強いてきた歴史を呪い、自由主義を称揚するのである。まさに一八世紀の楽観的人間観、進歩的世界観の典型である。自然科学とそれが生み出す技術の発達への全幅の信頼も「自由論」を読んでいて印象的である。
しかし、冒頭掲げたような、現代社会で問われる倫理の諸問題には、こうした楽観的な自由主義だけでは対応できないと思われる。まず、自由主義の四つの特色のうち、最初の「計量可能な快楽主義」は、現代先進国においては、既に生活の基本的利便性を確保した人間の欲望を無理やりかきたてる経済成長至上主義に陥っている。経済成長至上主義は、地球環境の有限性を考えると、もはや限界に近づいているように思われる。人々の欲望をただ量的に拡大するのではなく、欲望の質と種類を多様化するような倫理思想が必要である。「足るを知る」思想を、単なる禁欲主義ではない、豊かで前向きな思想に転換できないものだろうか。
自由主義の特色の二つめの「最低限の倫理主義」や「罪刑法定主義」は、権力から個人を守るという観点では(国家と個人との関係においては)依然として有効であり、この基本を変えることはできないように思われる。しかし、人々に求める倫理基準は、いったん下げると歯止めも無く下がってしまう恐れがある。人間は、ミルが想定したように向上心を持って生きるとは限らない。他人に迷惑をかけなければ何をしてもいい、という考えには、人を限りなく堕落させる甘さを含んでいる。悪貨が良貨を駆逐するリスクはミルの時代よりも現代の方がはるかに高くなっているように思われる。「他人のためないしは全体のために個人が我慢しなければならないことも多々あるのだ」という看板をしっかり立てて、倫理の下限水準を下げない仕組み・安全装置を社会の中に作っておかなければならない。また、もっと積極的に「志」とか「世のため人のため」という価値観を社会の中で称揚すべきだろう。
自由主義の三つめの特色である「個人主義」ないし「個性主義」はどうだろうか。個人主義は社会の紐帯を嫌い、人間ひとりひとりを砂のようなアトムとして認識しようとする。そこでは、向上心に富んだ個人が自由に競争することで、間違った意見は自然淘汰され、適者生存の法則に従って、より優れた意見が通り、最適な社会が実現されることが期待されている。しかし実際の近現代史は、個人は孤独化してニヒリズムに陥り、やがてファシズムへと傾斜したことを示している。そもそも何の色もついてないアトム的な個人などというものは存在しない。いかなる人間も、両親や生まれ育った地域や民族の歴史の刻印を押された存在である。そうした生身の人間を前提にしないで予定調和を考えることに無理があったのではないか。この失敗は現代においても経済学者が犯しがちである。人間を単純化した仮定から出発した理論には大きな誤謬が含まれる可能性がある。人間は共同体の中で群れて生きる生物であることを前提にした「共同体倫理」が求められているのではないだろうか。
四つめの「相対主義」ないし「多元主義」は、人間に温和な寛容さをもたらす半面、ニヒリズムと刹那主義の温床となる危険を孕んでいる。世界の何物にも軸足をおかず、すべての価値観をただ相対的に眺める態度には、傍観者の皮肉な冷笑が浮かびがちである。しかし人間は常に傍観者でいるわけにはいかない。信念も信条も無いニヒリストは、結局、行動せざるを得ない場面に遭遇すると、その時の自分のエゴだけで動く刹那主義に陥らざるを得なくなるのではないか。宗教の束縛の弱まった今日、自己の出自を基礎とした穏健な信条くらいは持ち合わせても狂信者や石頭にはなるまい。
自由とは、「何かをなせ」と命ずる積極的な倫理ではない。何かをなすために必要な手段にすぎず、その意味では消極的な倫理である。それをどう生かすか、私たち現代人は日々模索と試行錯誤を強いられるのである。私たちは自由に耐える強さを持たなければならない。資本主義と民主主義の世界に生きる限り、功利主義的自由主義と縁を切るわけにはゆくまい。功利主義的自由主義は現代社会の基本的な倫理、人間観、世界観の基礎を成している。J・S・ミルの後、自由主義に対抗しそれに代るべき倫理思想として、マルクス主義、実存主義、超人の思想、共同体思想などが出たが、それら諸思想がベンサムやミルを乗り越えたとは言い難いのである。
[参考にした文献]
J・S・ミル「自由論」塩尻公明・木村健康訳(岩波文庫)
加藤尚武「現代倫理学入門」(講談社学術文庫)