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「古典派からのメッセージ・2005年〜2006年」目次へ戻る
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私の能楽メモ(二〇〇六年)

 

 

早春の番組

 

大寒を迎え一年で一番寒い季節です。東京はきのう終日雪が降り、五センチほど積もりましたが、この程度は北陸地方で暮らした経験からはどうということもありません。小生は、金沢で使った長靴を久々に履いて、宝生流の若手能楽師を中心にした例会「五雲会」へ出かけました(水道橋の宝生能楽堂にて)。この日は、「竹生島」「花月」「東北」といった、一足早い早春の曲が演じられ、春待つ気持ちを高められます。


このうち「竹生島」は、小生が謡を習った曲ですが、実際に演じられるのを拝見するのは初めてです。竹を曲げて白布を巻いて作られた船を象徴する出し物に、宮廷に使える大臣と女(実は弁財天の化身)と漁翁(実は琵琶湖の守護神である龍神)が乗船し、琵琶湖に浮かぶ竹生島に参詣します。地謡が「所は海の上、所は海の上。国は近江の江に近き、山々の春なれや、花はさながら白雪の、降るか残るか時知らぬ、山は都の富士なれや。なほ冴え返る春の日に、比良の嶺おろし吹くとても、沖漕ぐ船はよも尽きじ・・・」と謡うと、舞台には早春の琵琶湖の景色がさーっと広がります。曲のフィナーレで龍神が登場しますが、衆生済度を誓い、人々の諸願をかなえ、国土を鎮めるという龍神の勇ましい姿に、今年も良き一年でありますようにと、思わず頭を下げたくなるような気分になりました。

 

平成一八(二〇〇六)年一月二二日

 

 

見所も参加する親密な能

 

昨夜、家内と、神楽坂の矢来能楽堂で催された「のうのう講座特別公演」に出かけました。「のうのう」というのは、「能を知る(Know Noh)」という英語と、能でシテ(主人公)が登場する時によくワキ(主人公の相手方)に呼びかける呼びかけの言葉とを掛けたものです。前半は、能楽師の観世喜正さんが、この日演じられる能「巴」について解説したり、その一節を見所(観客)と一緒に謡ったりしたあと、この後演じられる能「巴」の前シテの女の装束や鬘(かづら)や面(おもて)を着けるところを実演します。見所は装束や鬘や面の美しさを観賞し、それらを三人がかりで着ける手際よさを拝見します。そして休憩を挟んで後半に、木曾義仲の愛妾であり女武者であった巴御前を主人公にした能「巴」が演じられました。解説などがセットされたこの講座型演能、能を初めて見る人には最適のスタイルだと思いました。家内もわかりやすいと喜んでいました。彼女は特に、装束の着付けや鬘(かづら)付けを専門の着付け係や鬘係がやるのではなく、能楽師たち自身でやってしまうことに驚いていました(能では、舞台裏の着付けや出し物の製作も一人前の役者になるための大事な修養項目なのです)。能の底辺を広げるためには、こうした現代的な感覚の初心者向け企画能もいいものだと感じた次第です。


さて、肝心の能「巴」は、若手能楽師中心の演能でしたが、素晴しく引き締まった囃子や地謡が出色で、シテの観世喜正さん(この方もたぶん三十歳台ではないでしょうか)もそれに乗ってメリハリのついた好演でした。特に、巴が追撃してきた敵兵を長刀で追い払う激しくきびきびした所作の「動」と、その後で義仲の自害して果てた姿を見て悲しむ形の「静」の対比は印象的でした。会場の矢来能楽堂にはこの日初めて行きましたが、観世家のご自宅の中に能舞台があり、そこに客席を設(しつら)えた形のこじんまりした能楽堂でした。日頃使い込んだ舞台だけに、能楽師たちの修練の跡を感じさせるとても親密な雰囲気です。見所は舞台を取り囲むような形で演者の姿を間近に見ることが出来、自分たちも舞台に参加しているという感覚を強く呼び覚まされ、能が猿楽と呼ばれていた頃の原初の雰囲気を想起させられます。小生はこの能楽堂が大変気に入りました。

 

平成一八(二〇〇六)年一月二八日

 

 

幸福に満たされた至芸のひととき

 

 先週日曜日の午後、渋谷のセルリアン・タワーの地下にある能楽堂で催された公演に出向きました。茂山千作(しげやませんさく)さんが太郎冠者を演じた狂言「寝音曲(ねおんぎょく)」が素晴しく、また、小生は初めて拝見する流派である金剛流で、宗家の金剛永謹(こんごうひさのり)さんがシテを演じられた能「土蜘蛛(つちぐも)」も好かったです。


 まず、狂言「寝音曲」はこんな話です。太郎冠者が謡を上手に謡うことを知った主人が、自分の前で謡うように太郎冠者に命じます。今後たびたび謡わされては厄介だと思った太郎冠者は、酒を飲まないと謡えないと言って酒をたらふく飲ませてもらい、次に、女のひざ枕が無いと謡えないとだだをこね、主人は自分のひざを貸してやります。太郎冠者は主人のひざ枕に寝ながらしぶしぶ謡い始めますが、主人が体を起こすと謡えなくなるふりをします。しかしそのうち、酔いが回ったせいでしょうか、主人が体を起こすとうまく謡ってしまうばかりか、調子に乗って舞まで舞ってしまい、酒やひざ枕が無くても上手に謡い舞えることがばれてしまいます。


 大正八年生まれの九十歳近い茂山千作さんが、どんな風にこの太郎冠者の甘えた様子を表現できるのか、正直、心配したのですが、いや驚きました。表情は豊かだし、声も張りがあって、実に「可愛らしい」太郎冠者を演じるのです。狂言の持つユーモア、諧謔、しかし通底するヒューマニズムといったものを、実にまろやかな味わいに包み込んで私たちに見せてくれました。こういう至芸を拝見できると非常に幸福な気分に満たされます。


 もうひとつの演目、能「土蜘蛛」は、源頼光が土蜘蛛の化け物を退治する話で、能としては単純でしかも派手なパフォーマンスもあり、誰が見ても退屈しない曲です。前シテは、病気の源頼光のもとへ忍び込む土蜘蛛の化身の僧侶として現れますが、シテの金剛永謹さんは、その怪しい雰囲気をじつにうまく出しておられ、登場した瞬間から舞台に妖気が漂うのが感じられました。金剛流の能は、華麗で躍動感あふれる芸風とのことですが、この日も、源頼光に切りつけられた前シテの僧が、舞台と橋掛かりの間で一回転してひっくり返ったり、独り武者たちにやっつけられた後シテの土蜘蛛が、天井に糸を放って仰向けにひっくり返って倒れるなど、派手な所作が目を引きました。土蜘蛛が次から次へと放つ千筋の糸で舞台が糸だらけになる中、ともすれば後半は乱雑な「ちゃんばら劇」になりかねないのですが、そこは能らしく、斬り合いでの形の美しさと品格はしっかりと保たれていました。

 

平成一八(二〇〇六)年二月一九日

 

 

早春にふさわしい颯爽とした舞

 

 昨日、小生お気に入りの神楽坂の「矢来能楽堂」で催された「若竹能」という催しに行ってきました。観世流の一派である観世喜之さん率いる九皐会(きゅうこうかい)に所属する若手能役者の皆さんが、能「小袖曾我」を演じるのをお目当てに行ったものです。ちょうど能楽堂入り口の紅梅が咲きはじめており、早春にふさわしく梅に迎えられたような気分でした。「小袖曾我」は、曾我兄弟の仇討ちにまつわる逸話を材料にしたお話です。曾我十郎・五郎兄弟が、仇討ちを前にして母に暇乞いをしますが、言いつけを守らず出家しなかったために母から勘当されている弟の五郎を、兄の十郎が敵討ちのためにと切々と懇請してようやく許してもらい、兄弟は晴れて門出の男舞を舞います。


この曲は小生が金沢で謡を習った曲でもあり、大変楽しく拝見できました。小生の習った宝生流とこの日の観世流との謡い方の違いも興味深く聞きました。宝生流のほうが、メロディ(節付け)がきめ細かく、ドラマチックに盛り上げる謡い方だと感じました。例えば、金沢でこの曲を習っていたときに、小生は、「『小袖曾我』で、母の冷たさに落胆して曾我兄弟が立ち去ろうとするその刹那、本当は息子たちへの愛情がはちきれんとしていた母が、耐え切れずに兄弟を呼びとめ、『不孝をも勘当をも、許すぞ、許すぞ、時致(ときむね)』と叫ぶ場面があるが、ここでの『ときぃむね』の『きぃ』の音が母の興奮ぶりを表すように最高音まで跳ね上がるのである。」(私の能楽メモ(二〇〇四年))と書きましたが、観世流ではこの箇所であまり音程は上がらず、むしろ力で押してゆくような謡い方でした。


このあたり、浪花節調の人情劇とわかっていても、兄十郎が母を必死でかきくどき、胸に愛情のマグマがたまった母がついに弟五郎を許す劇的な展開にはほろりとさせられます。が、それ以上に印象的なのは、最後に曾我兄弟役の若手役者二人がそろって男舞を舞う姿です。そのシンクロの舞は力強く颯爽としており、彼らの役者としての早春とこの季節とが重なって、見ている観客を爽やかで晴れやかな気分にさせてくれたのでした。

 

平成一八(二〇〇六)年二月二六日

 

 

舞台と見所が一緒に慟哭する悲劇

 

 きょう、渋谷の観世能楽堂へ「第七回 岡田麗史の会」を見に行きました。野村万蔵さんが太郎冠者を演じた狂言「棒縛(ぼうしばり)」も実に楽しいものでしたが、なんと言ってもこの日の目当ては能「隅田川」です。「隅田川」は、世阿弥の息子、観世元雅作の名品です。人買商人に息子をさらわれた母が、都からはるばる隅田川の辺まで捜し歩いてきます。しかし隅田川の渡し守から聞いた息子の運命は、ちょうど一年前にこの地で病死して川辺の塚に埋められているというものでした。今日はその命日で、里人が供養の大念仏の法要をしています。母は悲しみに沈みながらも精一杯に鉦をたたき念仏を唱えると、塚から息子の幻影が現れます。必死に取りすがる母ですが、幻影ははかなく消えて、白々と夜が明けます。


能「隅田川」の最大の特色は、子を思う母の愛情だけを直裁に表現していることだと思います。それは、子を失った母の悲しみという普遍的な人間性のみを凝縮して描いているのです。僕は歌舞伎も嫌いではありませんが、歌舞伎は物語が複雑で大掛かりになり、人の死をめぐる悲しみについてあれこれ理由付けがやかましくなっています。殊に、主君への忠義のために我が子を殺すなどという話からは、儒教の持つ偽善的側面を感じてしまい、作り話の限界や江戸期の価値観との断絶を感じざるを得ません。能「隅田川」は、それとは逆に、あらゆる時代に普遍の親の愛と悲しみを簡潔に力強く描いています。


「隅田川」は能としても破格な所があります。まず、一般的に能は、見所(観客)とともに精神のカタルシスを味わうことを本旨としており(=能は祝言たるべし)、母子の別れ話でもたいてい再会の喜びで終わります。しかし「隅田川」は、死に別れた子の幻を闇夜に追いかける母に救いは訪れず、やがて白々と夜が明けるばかりです。悲劇が悲劇のまま終わるのです。また、「隅田川」のシテ(母)は物狂いという設定になっており、その象徴である笹の枝を持って登場しますが、物狂いが面白い舞や所作を見せる、能で一般的な「物狂い=芸能者」としての見せ場はこの曲では最小限に抑えられています。物語の焦点が母の悲しみという一点に絞られているのです。


この日の舞台では、こうした「隅田川」の親の愛と悲しみが凝縮された魅力がよく表現されていたと思います。僕には、能が始まる前から既に見所が異様な緊張感に包まれているのが感じられました。人買商人にさらわれた或る少年がここで亡くなったという悲しい話をワキ(渡し守)が語るのを聞いて、シテがうめくように「なう舟人、今の物語はいつのことぞ」と尋ね、ついにその少年こそがわが子と悟る場面あたりからは、ハンカチで目頭を押さえる人があちこちに見られました(ちなみに僕は、ワキが語るあたりから涙が滂沱とあふれ最後まで止め得ませんでした)。そして、母の念仏に導かれるように少年の幻影が塚から現れ、「あれはわが子か」「母にてましますか」と会話を交わしますが、その子方の少年の無邪気な表情と声とが、黒のぼさぼさ髪に白の死装束という悲惨な姿とはいかにも不釣合いで、それがかえって悲哀の感情を高めます。見所の哀哭は最高潮に達し、まるで舞台と見所が一緒に慟哭しているような異様な雰囲気です。だから、僕には、少年の亡霊が塚に消えてからシテが塚に取り付く所作はかえって不要かと思われるほどでした。


 シテの岡田麗史さんの気迫のこもった熱演、ワキの宝生欣哉さんの冷静な中にも劇的な語り、悲哀の情感を支えた囃子方の好演等々、見所と一体になった素晴しい舞台だったと思います。

平成一八(二〇〇六)年二月二六日

 

 

悲しくも穏やかな俊寛

 

 昨日、三鷹市公会堂で催された「みたか弥生能」を見に行きました。お目当ては宝生流の能「俊寛」です(シテは三川淳雄さん)。鹿ケ谷の陰謀で平家政権転覆を図った罪により、薩摩のはるか南方の鬼界ヶ島に流されている丹波少将成経、平判官入道康頼、俊寛僧都の三人は、互いに昔を思い出しては今の境遇を嘆いています。そこへ、平清盛の娘・徳子が高倉天皇の子を身ごもったために特赦が行われることになり、都から赦免状を携えた赦免使が鬼界ヶ島に到着します。ところが赦免状には三人のうち俊寛の名前だけが記されていません。俊寛は筆者の誤りかと疑いますが、俊寛ひとりを残せとのことだと赦免使に告げられます。それでもよもやと俊寛は赦免状の巻物を何度も見ますが、自分の名は無く、絶望に泣き崩れます。やがて船がふたりを乗せて出発します。俊寛は船に取り付いて乗船を乞いますが、船人はそれを振り切って船を出し、船は島から遠ざかって行きます。


この広く知られた平家物語の中でもひときわ悲惨な俊寛の物語、能がどのように描くのか、興味深く拝見しました。ちょうどしばらく前に、同じ題材を扱った歌舞伎をテレビで見ましたが、歌舞伎は恋愛劇をまぶしたりして、相当原作を拡張していました。また、ラストの船が去って行くところも、俊寛が岩の上によじ登り、泣き叫びながら全身で絶望と嘆きを現します。この場面を描いた後世の演劇や映画もだいたい歌舞伎のパターンを踏襲しているのではないでしょうか。


それと比べると、能は、俊寛の心理にスポットを当て、心象劇として簡素かつ穏やかに物語を作りあげています。全体にしっとりした寂しさと悲しみが漂っています(或いはそれがこの日の演者の意図だったのかもしれませんが)。赦免使がやって来る前の、谷の水を汲んできた俊寛と成経、康頼とのやりとりなどは、むしろ優雅な味わいさえ醸し出し、この三人が都では風雅の士だったことを想起させます。ただ、俊寛が赦免状の巻物を何度も見返し、その名が無いことを悟って赦免状を投げ捨てるあたりの所作は、「僧都とも俊寛とも書ける文字は更に無し。こは夢かさても夢ならば覚めよ覚めよと現(うつつ)無き…」と謡う地謡を伴って劇的に盛り上がります。それは俊寛が絶望する瞬間の激しい心理の表現だと感じました。船出の時が来て、とりすがる俊寛を突き放す康頼や赦免使の所作も抑制された淡々としたものですが、それが却って人間の残酷さを浮き立たせます。しかしその残酷さにもかかわらず、最後に船を見送る俊寛の静かな姿からは、絶望と共に諦観をも感じさせます。いや、去り行く船から人々が声を合わせて「必ず俊寛が赦免されるように働きかけるから、待っていよ」と呼びかけ、それに応じる俊寛の姿からは、むしろ俊寛もやがて救われることを匂わせて能が終わっているのではないかと思われるほどです。それほどこの日の「俊寛」は静かで穏やかな幕切れに感じられました。なお、乗船した人々が静かに順番に橋掛から消えて行くのは、船が遠ざかって行く光景を想起させる秀逸なやり方だと思いました。

平成一八(二〇〇六)年三月五日

 

 

国立能楽堂での「加茂」と「摂待」

 

 昨日、妻と金沢時代の藪先生のお弟子さんのひとり・Kさんと三人で、千駄ヶ谷にある国立能楽堂で、宝生流の能「加茂」と観世流の能「摂待(せったい)」を拝見しました。国立能楽堂へ行ったのは初めてでしたが、苔や木々を美しく配した中庭や木材を基調にした簡素で清潔感にあふれた建物など、気持ちのいい空間でした。


はじめの能「加茂」は、京都の下鴨神社を舞台に、同社の由来が語られ、祭神である御祖神(みおやのかみ)が天女の姿で現れて美しく舞い、別雷神(わけいかづちのかみ)も勇壮な姿で現れて五穀豊穣と国土守護を誓うという脇能(神を主人公とする祭祀性の強い能)です。世阿弥の娘婿、金春禅竹の作といわれるこの曲は、都の名高い川や滝の名を折り込んだ詞章が美しく、また、雨を司る別雷神(つまり雷さま)を登場させて、稲作が始まるこの季節に自然の恵みを祈る祈りの曲でもあります。今の季節にふさわしい初夏の清涼感と祝祭性を湛えて印象的です。この日、御祖神を舞われたのは、藪先生のご子息の藪克徳さんです。三十歳代初めの若い能楽師の卵ですが、拝見した私たち三人にとっては身近な存在です。今回、国立能楽堂の舞台で天女の舞を見せるという大事な役を任されたわけですが、衒(てら)い無く力みも無く、素直な表現で天女の舞を舞われたと思います。御祖神の面(おもて)は若い女の顔ですが、混じりけの無い純真なお顔が本当に美しく感じられました。


さて、この日は「加茂」の間狂言で「御田(おんだ)」という替えの曲が演じられました。賀茂神社の神職に導かれた六人の早乙女たちが神田の田植えをするのですが、神職が早乙女の容貌をけなしたりしながら、狂言らしい楽しく溌剌とした田園風景が演じられます。神職も農具を手にして農耕の風俗をより直接的に表現しています。田よりむしろ畑のほうが多い東京多摩地方では、あまり稲の成長で季節を感じることはありませんが、北陸に居た時は、郊外に広がる田んぼの稲の成長の様子を見ては季節を感じさせてもらったものです。きょうの能「加茂」と間狂言「御田」を見ていて、久しぶりに稲作文化の中の自分に回帰させてもらった気分になりました。


休憩を挟んで後半の能「摂待」の方は、がらりと趣が変わって、源義経一行が奥州に逃げる途中で、戦死した義経の忠臣、佐藤継信・忠信兄弟の実家に立ち寄り、そこで義経一行と佐藤兄弟の母や継信の幼い息子との間で繰り広げられる人情話です。舞は無く、音楽もさほど聞かせどころは無く、ひたすら語りと人物のやりとりによって「人間劇」を見せる、異色の能です。シテ(佐藤兄弟の老母)に片山九郎右衛門さん、ワキ(弁慶)に宝生閑さん、大鼓に亀井忠雄さんと三人の人間国宝を擁した豪華な舞台です。継信の戦死の様子を語る弁慶の語りには、何とも言えぬ力強さと説得力と人情味があり、それを無言で聞いている老母の様子からは彼女の気持ちの揺れが湧き出て、この場面では小生も涙を禁じえませんでした。最後に、継信の幼い息子が義経一行について行くと言うのをなだめて抱擁する老母の所作からは、包み込むような大きな慈悲が発散していました。囃子方の雰囲気作りも実に巧みなのがよくわかりましたし、十二人もの山伏姿の一行が、舞台に整然と身じろぎひとつせずに坐り続ける姿からは緊張感があふれていました。もし一人でもその姿ががさがさと動いたりしたら、もうそれだけで舞台は台無しになっていたことでしょう。「摂待」は、演劇性の強い能ですから、人物や物語をしっかり造型できる演者を揃えないと退屈になりかねません。「通」好みの大曲を味わわせていただきました。

平成一八(二〇〇六)年四月三〇日

 

 

能の普遍性

 

 僕は「伝統芸能」としてのみ能を見ているのではない。現代人である僕の心に直に訴えるものを感受できるからこそ、能は僕にとって心の栄養たり得るのだ。特殊でユニークな日本文化としてではなく、世界に普遍な歌舞劇として、僕は能を愛する。

平成一八(二〇〇六)年六月九日

 

 

「雷電」と「来殿」

 

 水道橋の宝生能楽堂で催された宝生夜能で、「小袖曾我」と「来殿」を拝見しました。「小袖曾我」の爽快な味わいは小生のお気に入りです。二月二六日の本欄にも、観世九皐会に所属する若手能役者の皆さんによる演能について書きました。そのときの若手による力のこもった熱い舞も良かったのですが、きょうの宝生流シテ方の中堅・金森秀祥さんの、力強さの中にも余裕のある柔らかな舞も違った味わいで楽しめました。


もう一曲の「来殿」は、もともと、藤原氏によって讒訴され大宰府で失意のうちに亡くなった菅原道真が雷神と化して暴れまわる「雷電」という名の「鬼の能」だったそうです。ところが、江戸時代の末期に、菅原道真を祖先としている加賀・前田家が菅公を記念する能の特集をやろうとしたとき、能「雷電」が菅公の怨念が雷と化して暴れるという内容ではまずいということで、後半を、菅公が成仏して喜びの早舞を舞うという現行の「来殿」に改作されたのだそうです。現行曲でも、前半に菅公の亡霊が藤原氏の横暴を訴える際に恨みが募って手向けの柘榴(ざくろ)を噛み砕いて吐き出すとそれが炎となって燃え上がったという一節に、鬼の能の片鱗が残っています。現行の祝言の曲も悪くはないのですが、改作前の「雷電」を一度拝見したいものだとも思いました。

平成一八(二〇〇六)年六月二八日

 

 

「恋重荷」の印象

 

 国立能楽堂で催された「能楽座」第十二回公演を拝見しました。この日は、八世・観世銕之丞の七回忌ということもあり、前半は、現代能楽界の大御所の皆さんによる舞や謡の数々が披露されました。これだけの方々の素の姿での舞台を拝見できる機会はめったにないことでしょう。じっくり味わわせていただきました。


後半は、前シテ・大槻文蔵さん、後シテ・梅若六郎さんで、観世流の能「恋重荷(こいのおもに)」が演じられました。この曲は「恋のむなしさ」が主題だと感じました。恋の妄執に取り付かれた老人は、決して持ち上がるはずもない重荷を持ち上げようともがき、だまされたと知って恋しい女御を金縛りにして打ち据えます。これらがまさに恋の妄執の象徴的な姿です。最後に老人は、ふと取り付いていたものが落ちたかのように杖を放り投げますが、ここで妄執から離脱したことが象徴されています。結局、恋のむなしさが残ったのです。「恋重荷」は、個々の象徴的な所作は大変印象的なのですが、僕には、恋はこんなふうに簡単に物の怪が落ちたように解決されてしまうのだろうか、という思いも残り、やや釈然としないものを感じました。

平成一八(二〇〇六)年七月一三日

 

 

仲秋の名月に

 

 一一月中旬から一二月初めにかけて、古楽演奏会を集めた「北とぴあ音楽祭二〇〇六年」が開かれました。今年のテーマは「月」。月に関係する演目を主にした演奏会の数々が催されました。僕は、「幽玄なる月の世界」と題する能・狂言の会と、ハイドンの喜歌劇「月の世界」と、月とは関係ありませんが、モーツァルトとミヒャエル・ハイドンを並べた演奏会に出かけました。そのうちの「幽玄なる月の世界」と題する能・狂言の会についてここで記します(あとのふたつについては「私の音楽鑑賞メモ」をご覧下さい)。


はじめに、観世流シテ方、野村四郎さんによる仕舞「忠度」が華やかに演じられました。野村四郎さん自身が書かれた解説に「仕舞は能のデッサンともいえるもので、その曲のエッセンスを素で(筆者注:つまり紋付き袴の姿で)お見せするものです」とあったのが、仕舞というものを端的、的確に表現されているな、と感心しました。


次に、野村万作、萬斎父子による狂言「月見座頭」。仲秋の名月の秋の夜、一人の座頭(盲目の人)が野辺で虫の音に聞き入ります。そこへ、都から月見に来た男が声をかけ、二人はお互いに歌を詠み、すっかり意気投合して謡い舞う酒宴となります。やがて別れたあと、都の男の心にふと悪魔が忍び寄り、座頭にぶつかって彼を転ばせて逃げ去ります。月見の人とぶつかってきた人が同じ人物とはわからぬ座頭は、痛みをこらえてようやくのこと起きあがり、世の中にはあんないいい人もいれば悪さをする奴もいるものだと、つぶやきながら退場します。野村万作さんの座頭が何とも味わいがありました。野辺で虫の音に聞き入る姿からは、煌々と照る月光と虫の音がそこに現前するかのようでした。「月見座頭」は、そうした風雅で和やかな月見の風情が印象的ですが、最後に人間の悪の部分が突然に現れ、悲しいような幕切れとなる、不思議な味わいの狂言です。野村万作さんの座頭がそうした哀愁をもしみじみと感じさせてくれました。


最後に、野村四郎さんのシテ(月世界の天女)、宝生閑さんのワキ(漁師の白龍)ほかの能「羽衣」が演じられました。これも野村四郎さん自身の解説に「羽衣伝説は世界中にある説話です。日本のかぐや姫も同類で、異類婚と呼ばれる説話です。天女とか鶴とかが人間と結婚するが、結局もとの世界へ帰る、というモチーフが共通しています。これは異民族の結婚の悲劇を投影しているともいわれます。」とあったのが興味深く思われました。能の「羽衣」は、悲劇にはせず、羽衣を奪われて悲しむ天女の姿を憐れに感じた白龍が羽衣を返し、天女はその羽衣をまとって舞を舞うという心やさしい筋立てになっています。この日の「羽衣」は、彩色の伝という特殊演出で演じられ、天女は白一色の装束に白蓮を頭に戴く姿になります。天女の清純さ、無垢さが強調されるとともに、菩薩とか観音とかの仏教的な天女とも感じられました。天女の飛び去り行く姿が、後ろ向きに幕に入る型で表現され、白龍がそれを見送る最後の場面からは、三保の松原のひとときの幻影が目に浮かぶようでした。


平成一八(二〇〇六)年一一月一五日