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「二コマコス倫理学」―多神教世界の合理主義的倫理

 

 

アリストテレスは、武骨な実践者だったソクラテスとも、使命感に燃えた理想家だったプラトンとも、その性向は大きく異なる。「ニコマコス倫理学」の中で、アリストテレスは、「人はかくあるべし」と熱く主張はしない。人間はこうした存在であるという客観的観察に基づき、「だから人間はかく行動すべし」と冷静に説いている。彼は西洋の合理主義、実証主義の祖である。中世のイスラム教世界の人々には、アリストテレスの冷静な合理主義が規範となった。一方、ローマ帝国末期から中世のヨーロッパの人々は合理主義を忘れてキリスト教の熱狂に没入した。ヨーロッパが近世ルネサンスを迎え、ようやくキリスト教の頚木から脱しようとした時、ルネサンスの天才たちの規範となったのは、やはりイスラム世界に保存されていたアリストテレスの合理主義であった。

 

「ニコマコス倫理学」で称揚される倫理的な卓越性(徳)には、論語や武士道の倫理と共通項が多いのが印象的だった。「勇気」「節制」「矜持」「温和」「誠実」「正義」等々は、東洋の倫理と変わるところはない。倫理の淵源には人類に共通の何かがある。それはおそらく、個体の保存よりも共同体の維持を優先させるための人類の本能に基礎を置いている。「ニコマコス倫理学」を読んでいてもうひとつ印象的だったのは、行為の価値を判断するのに、日本と同じように、美感が規準になっていることだ。「その行為が望ましくないのは、それが麗しさに欠けているからだ。」といった具合に、「麗しさ」を倫理の基準にしていることがしばしばある。ゼウスやアポロンなど数多くの神々を擁する古代ギリシアの多神教の世界は、日本の倫理基盤と共通性があると思われる。

 

 その古代ギリシア、ローマの多神教を基盤とした寛容の倫理、アリストテレス流の冷静さと中庸を得たストイシズムは、ローマ帝国の末期になると、ユダヤ人から発した一神教を基盤にした選民思想のキリスト教に圧倒され、その熱狂に呑みこまれてしまった。平和で寛容な多神教と戦闘的で非寛容な一神教が戦えば一神教が勝つのは目に見えている。精神の世界に留まるべき宗教が現世(政治)をも支配しようとするキリスト教の拡張に対し、古典古代の寛容な世界を守ろうとキリスト教と戦ったローマ皇帝、ユリアヌスの悲劇を読んで、僕は、多神教が一神教に勝つには、ガンジーの無抵抗主義しかないのだろうか、と、やや暗澹たる気持ちに陥らざるを得なかったのである。

 

平成一八(二〇〇六)年二月一一日

 

〈参考にした書物〉

@アリストテレス「ニコマコス倫理学」(上・下)高田三郎訳(岩波文庫)

A塩野七生「ローマ人の物語(十五)―キリストの勝利」(新潮社)

皇帝ユリアヌスとキリスト教については特に223ページ〜224ページを参照。