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「古典派からのメッセージ・2005年〜2006年」目次へ戻る
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人類への指針

 

 

 佐藤優氏の「国家の自縛」(産経新聞社)を興味深く読んだ。佐藤氏は、昭和三五(一九六〇)年生まれ、ロシア通の外交官である。平成一四(二〇〇二)年五月、ロシア問題に関するテルアビブ大学主催の国際学会に日本人学者や外務省職員を派遣する際の費用を外務省関連の国際機関「支援委員会」から拠出したことが背任に当たるとして、佐藤氏は東京地方検察庁特別捜査部に逮捕され、今も控訴中である。この問題の法的な正否は僕にはよくわからない。しかしこの本を読む限り、佐藤氏は、古今東西の書物に通じ、外交官としての職務に忠実であろうとし、日本を思う気持ちは熱く、かつ、日本外交の戦略のポイントをよく把握しておられる。卓抜な見識に、僕は何度も本に「Clever!」と書き込んだ。

 

 中でも、僕が「まさに然り!」と、満腔から手を打ちたい気持ちで読んだのは、愛国心についての一節である。それはこんな要旨である。

「憲法や教育基本法に愛国心とか道徳をもっと盛り込んだ方がいいという人たちがいるが、これは間違いだ。こういうものは心の中から自然に出てこないとダメである。自然に出てくるためには、歴史や古典の『詰め込み教育』が不可欠なのだ。日本では、一九八二年の学習要領改定で高校の古文、漢文がほとんどなくなってしまい、現在の三十歳代の人たちは日本の知的伝統から切断されてしまっている。こういうところからは、心根から湧いてくるような愛国心は絶対に出てこない。ロシアでは分厚い歴史教科書を義務教育で暗誦させるし、自分たちの古典、例えばプーシキンの詩とかチェーホフの小説とかを全部覚えさせている。憲法に愛国心を盛るというような形だけをやっても愛国心は身に付かない。日本の古典を覚えるところからこそ愛国心は出てくるのである。中国も韓国もロシアもドイツも、歴史や古典の教育にますます力を入れている。」

 

英語を公立小学校で義務化するなどという馬鹿げたことを行おうとするのが日本の文部官僚である。全うな政治家たちは、流行りものに右顧左眄する小役人どもから教育の仕組みづくりという大事な仕事を取り上げて、自国文化を体に刷り込むことを最優先する教育体系を早急に構築すべきだと僕も思う。

 

 もうひとつ、僕が興味深く読んだのは、欧州型保守主義と米国型保守主義の違いとそれが環境問題と深く関っていることを述べた一節である。それは次のように要約し得るだろう。

「公平な分配を重視する欧州の経済モデルか、分配は傾斜型になるが自由を重んじる米国型の経済モデルか。この問題を考えるにあたっては、米国型、ハイエク型の新自由主義モデルには、経済が持続的に成長することが可能であるという『フロンティア無限』の前提があることを考慮に入れなければならない。米国の新保守主義には自然との和解という発想はない。自然は基本的に野蛮な状態であり、自然を克服もしくは征服してフロンティアを開拓することこそが人間の課題となる。一方、ドイツの新保守主義には、自然との和解が可能、つまりは自然と人間には共通の神的要素があるとの認識がある。この点は日本の伝統的な価値観と重なっている。この自然観から出てきたのが欧州の環境運動である。環境破壊への欧州の人たちの危機意識は非常に高い。欧州(および日本)で少子化が進んでいるのは、人々がこのままでは環境破壊によって人類は滅亡するのではないかと無意識に気づいているからこそ子どもを作らなくなっていることに起因しているのではないか。欧州では、もうこれ以上生活水準を上げなくていいから、分配を重視し、かつ、この生活と環境を子孫に引き継いでゆく術を優先すべきだという志向が強くなっている。」

 

 僕も基本的に佐藤氏の問題意識を共有する。しかし一方で、資本主義経済が新しい技術や商品・サービスを生み出す企業家を育てるには、米国型の自由競争が必要である。特に日本では、佐藤氏も指摘するように、成功する企業家に嫉妬するのではなく、堂々と賞賛する文化を確立させることが重要だ。つまり米国型の新自由主義的原理も不可欠なのである。新自由主義と地球環境維持を両立させるにはどうしたらいいのか?

 

 この本を読んですぐに、たまたま、加藤尚武氏の「応用倫理学入門」という本を読んだ。その中に、上記の問いへのヒントとなる「環境倫理学」という興味深い学問分野が紹介されていた。環境倫理学の三原則についてこの本から要約して紹介してみたい。

 

「環境倫理学の三原則のひとつめは『地球有限主義』である。有限の地球生態系では、原則としてすべての人間の行為は他者への危害の可能性を持つので、行為は自由に任され得ず、倫理の統制下に置かれる。経済学で言えば外部経済が内部化されるということである。大気圏という有限の場所に炭酸ガスを大量に廃棄しても費用を払わないとか、埋蔵された有限の地下資源を枯渇させても見返りの減価償却をしないといったような、地球生態系が無限の大きさを持つのでなければ正当化できない外部経済の論理を持つ『近代経済学』によって私たちの経済は営まれてきた。外部経済の内部化とは、地球の有限性という現実に合わせた経済論理を構築しなければならないということであり、私たちの行為の自由が制約され得るということである。

 

ふたつめは『世代間倫理』である。未来の世代の生存条件を保証する責任が現在の世代にある、というのが世代間倫理である。私たちは地球環境の持続可能性が守られる範囲内でのみ自然物を利用できる。ご先祖様から預かった自然を子孫にも汚さずに伝えるという義務が私たちにはあるのだ。これは日本の伝統的な『先祖の恩は子孫に渡せ』という価値観でもある。環境問題は、現在の世代が加害者で未来の世代が被害者となる『犯罪』である。被害者である未来の世代は、地球の大気が汚染されても、至るところに核廃棄物を残されても、石油を使わなければ動かない機械を山ほど残され肝心の石油を空っぽにされても、何の文句も言えない。このような巨大なエゴイズムが可能であったのは、二十世紀前半までは人類の力が地球環境を破壊するほど大きくはなく、未来世代のことなど度外視してその時代のことだけを考えればよかったからである。民主主義は、常にその時代のことだけを考えるエゴイズムを内包している。国債を大量発行してその時代の景気を良くして借金は未来世代に残すというような意思決定を民主主義は平気でする。環境破壊によって未来世代の権利侵害が明白になってもなお、民主主義は現在の世代のエゴイズムを抑制する機能を持っていない。未来世代の利益代理人とか、自然物の生存権の代弁者といった非政府組織に発言権を与えることには一定の道理がある。

 

 三つめは『自然物の生存権』である。これは、人間だけではなく自然物も生存の権利を有するので、生物の種の絶滅が自然史そのものの時間的尺度よりも短い期間に起るような原因となる行為を行ってはならない、という考えである。自然は人間のためにあるのではない。人間の役に立つ自然だけではなく、あらゆる自然に生存権を認めるべきである。ただしその権利は未成年の権利と同じで、守られる権利であるが、契約主体にはなれない。

 

 以上をまとめると、環境倫理という視点から導かれる経済、政治、法律のあり方は次のようなものとなろう。@地球有限主義を拠り所として外部経済の内部化を経済理論の基礎とすること、A世代間倫理を拠り所として通時性の責任概念を導入し、持続可能性という制約が政治的合意の前提に置かれること、B自然物の生存権を拠り所として自然物の法益を法律体系内に位置づけること。

 

二十世紀後半からは、人類は、自然の法則を破壊するような技術を実用化し、経済生活を営んできた。それは、@核エネルギーの開発、A遺伝子操作、B臓器移植医療、C地球温暖化をもたらすほどの炭酸ガスの排出、である。これらの技術ないし経済生活は、自然界の異なるレベルでの本来の自然が持つ自己同一性を破壊することになった。神様が『人間よ、この限界さえ守れば、自然界のバランスそのものは私が保証する』と述べていた限界、即ち@原子の自己同一性、A遺伝子の自己同一性、B生物個体の自己同一性、C地球生態系の自己同一性を破壊しようとしているのである。

 

二十一世紀中には、進歩から持続可能性へ、自由主義から理性的管理主義へ、自由から責任への価値観の転換が起る可能性がある。国家よりも国土が重視され、民主主義よりも世代間責任が重視され、共時性の文化から通時性の文化へ変容し、現在中心ではなく、過去と未来を見据えた生活の長期設計が必要となろう。自然主義的永遠性の思想が復活するだろう。この意味で東西思想の接近もこの世紀の課題である。」

 

 以上紹介した加藤氏の諸論点に対しては、生態系破壊の事実関係についての疑問(=実際にはそんなに悲観的になる必要はないのではないか)を発し得るし、人間の自由の制約理由を広げすぎる危険といった指摘が可能であろう。また、第三番目の環境倫理「自然物の生存権」については、エキセントリックなロマンティシズムや極端な動物愛護運動に振り回される危険もある(徳川綱吉のお犬様令を想起せよ)。しかし、環境倫理学の三原則は、私たちが避けて通れない政治経済法律の課題を提起していると僕には思われる。大切なのは、環境問題がいたずらにイデオロギー論争に陥らないように、自由で理性的で実用的な議論を重ねることである。私たちは整備された環境倫理の枠内での新自由主義という道を模索してゆくべきであろう。

 

平成一八(二〇〇六)年四月二七日

 

〈参考にした本〉

 @佐藤優「国家の自縛」(産経新聞社)

 A加藤尚武「応用倫理学入門―正しい合意形成の仕方―」(晃洋書房)