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「古典派からのメッセージ・2005年〜2006年」目次へ戻る
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理性的で成熟した言論―「なんとなく、日本人」を読む

 

 

「なんとなく、日本人」(PHP新書)の著者、小笠原泰さんは、僕と同世代の方で、国際ビジネスの第一線で活躍しつつも、というより、国際的な舞台に立っておられるからこそ、日本人と日本企業のアイデンティティについて真剣に考え提言しておられる方である。僕は強く共感しつつこの本を読んだ。

 

小笠原さんは、活動のグローバル化を余儀なくされる日本人と日本企業は、やたらにグローバル化に「適応」することを優先すべきではなく、むしろ「軸足のローカル化」をしっかり行わなければならないと説く。本文中から引用すれば、「グローバル環境への適応を目指す前に、日本人と日本社会の内側を客観的に認識し、現実的な前提(何ができて、何ができないか)を論理的に理解する」ことが重要であり、「ローカル化としての『ぶれの無い』軸足、すなわち、日本人の本質=アイデンティティとは何かを、論理的に理解する」ことが必要なのである。「日本人には『変われること』と『変わりづらいこと』があるという、自分たちの行動の限界を知り、そのうえで、日本の強さを生かすことが非常に重要なのである。」つまり、私たちは「なんとなく、日本人」では困るのであって、自己を客観的にかつ前向きに把握しなければならないと訴えているのだ。

 

 本書は、この主題を訴えるに当たって、言語、自我構造、自他関係、社会行動を社会心理学的知見によって分析することで、日本人の「変わりづらい本質、アイデンティティとは何か」を解き明かそうとする。すなわち、日本語という言語の文脈依存性であり、日本人の自我が相対自我であることであり、日本人の自他関係は境界設定と役割特化に特色があること(したがって組織には「参加」するのではなく「帰属」する性向があること)であり、それらの特性に基づき、欧米人とは異なるさまざまな社会行動をとることである。また、日本の若者がこうした従来の日本人から「アメリカ的(?)個人主義者」へ変化しているという見解を否定し、若者の行動の基底にある心性を分析し、彼らもまた相互協調的な自己を持ち、安定的な役割を希求し、そこで役割の精緻化に没頭するなど、日本人としての基層は変化していないと見る。そのうえで、著者は、こうした日本人と日本社会の特性を肯定的にとらえて、日本の強さの根源(外来文化の日本化、役割設定、精緻化と究め、関係性の構築)を生かすように企業経営者や各界指導者たちに求めている。

 

この本は、日本人論として特に目新しい知見が示されているわけではない。しかしこの本のスタンスが好ましく感じられるのは、小笠原さんの冷静で理性的な態度による。この本は、自虐的日本人論やアングロサクソン的枠組の無分別な取り入れ(米化推進)にはっきり「NO」を突きつける一方、感情的なナショナリズムや情緒的な日本人・日本文化礼賛ともはっきり一線を画している。小笠原さんは、バブル期の「もはや日本は欧米から学ぶものはなくなった」といった奢った心理が、日本人にその長所を見失わせたと述べ、外部からの新奇性の受け入れは、日本化の換骨奪胎が機能する限り、積極的に行うべきであると述べている。また、懐古的、復古主義的スノビズムは不可とし、漫画やゲームなど現代に生きる日本文化にも伝統文化と共通の価値を見出すような気持ちの柔軟さを尊重する。このあたりの論点は、あくまで開明的、未来志向的であり、日下公人氏の言論と共通である。

 

小笠原さんの態度は、福田恆存の言う日本人に望まれる両義的生き方の萌芽とも思える。それは、国際ビジネスの場からこそ出た理性的な態度であり、日本人のアイデンティティを自覚的に観察し行動してこられた経験に裏打ちされた態度である。また、その冷静さは、ポスト団塊という位置を占める私たち世代の知的成熟によるかもしれない。いずれにせよ、こうした議論がさらに深められて、周辺文明・日本の持つ病弊である「適応異常の繰り返し」からの脱却が図られることを希わずにはいられない。

 

本書に疑問を呈するとすれば、それは二点ある。ひとつは、著者の意図が「『和』や『場』の重視といった現象的日本人論」や「無意識と自我の連続性や他者配慮的心性等の概念的日本人論」を超克することにある、とされているが、著者の言語学的、社会心理学的推論とそれら従来の日本人論がどう違うのか、いまひとつ不分明であること。また和辻哲郎や西田幾多郎の人間観などとの関係はどう理解すればいいのか? それらに関連して、小笠原氏が掲げる日本人の特性が、なぜ「不変」と言えるのか、といった諸点である。これは、僕が常々社会科学系の著作に対して感じる疑問である。心理学や社会学という学問が、自然科学と違って、確固とした「定説」を持ち得ず、学問としての体系性を欠いているため、論者が過去のいかなる学説に依拠して論じているのか、何がその論者のユニークな論点なのか、見取り図が不明なことが多いのである。特に日本人論は、対象も方法もおよそ体系建てられていないように思われる。私たち日本人にとって最も重要な「自己認識」の学が、しっかりした体系を持っていないのはどうしたことか?

 

 もうひとつの疑問は、本のタイトルである。このタイトルはひどすぎる。田中康夫の小説「なんとなく、クリスタル」をもじったのだろうが、ポピュリスト田中康夫に嫌悪感を感じる僕にとっては、せっかくの素晴らしい内容がこのタイトルで台無しにされている。タイトルをもっとオーソドックスなものに換えてほしい。

 

平成一八(二〇〇六)年七月二六日

 

(追記)

この本から、僕はさまざまな「考えるヒント」を得た。それは次のような諸問題である。

 

@    そもそもグローバル化とは何か?

A    小笠原さんは、日本人の自我を相対的自我ととらえているが、日本人と西洋人の自我意識について、「集団的自我(役割としての自我)」と「個人的自我(役割に還元できない自我)」というロレンスの知見をもとに分析した福田恆存の見解との関係はどうなるのか?

B    正しい「和魂洋才(米才)」とは何か? 日本史の中で繰り返された「適応異常」の問題を、周辺文明の宿命とも関連付けて整理したい。

C    日本国や日本企業が、「本質」を変える(ゆがめる)ことなく、しかし、環境変化に対して大胆に「制度」「形式」「器」を換えてゆくとはいかなることか?

D    「安定的な役割における任務の精緻化」を満たすための企業の人事や組織のあり方はいかにすべきか? 特に組織として若者のモチベーションを高めるにはどうすべきか?

E    日本的強みを発揮しにくい不確実性の高い環境での企業経営はいかにあるべきか?

F    従来の日本の社会システムは制度疲労し、それを破壊する必要を国民が感じて二〇〇五年の総選挙で小泉自民党が圧勝した。では、従来のシステムに代わる社会のグランド・デザインはどのようなものであるべきか? 人間は(特に日本人は)役割特化(組織帰属)を求めざるを得ない存在だとすれば、これからの日本で企業に代わる新たな帰属集団は何か?

 

これら七つの問題を、改めて、補論として論じてみたい。