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「古典派からのメッセージ・2005年〜2006年」目次へ戻る
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R.ダール「統治するのは誰か」からの発想

 

 

T.本書の要旨

 

1.ダールの問題意識

 

民主主義の「万民平等」の理想にもかかわらず、実際の政治世界では、知識、富、社会的地位など、政治的影響力の源泉(政治的資源)は人々の間に不平等に配賦しており、実際に影響力を行使して統治しているのは誰なのかを問わざるを得ない。統治するのは誰か、そして、民主主義の平等の理想はどのように実現されているのか。これがダールの本書における問題意識である。

 

 統治するのは誰か―これに対する回答として、次のような諸説があるとされる。@投票を通じて政党が競合しながら統治しているという「政党モデル」、A政党や政治家に働きかける力を有する利益集団が競合しながら統治しているという「利益集団モデル」、Bひとかたまりの社会的、経済的エリートが統治しているという「エリートモデル」、C単なる代理人ではない独自の権力を持つ政治家が統治しているという「君主モデル」、D孤独な大衆からの人気をつかむことで這い上がった指導者が統治するという「大衆指導者モデル」。

 

 ダールは、これら諸説の適用可能性を考慮しつつ、コネティカット州ニューへブンという都市を題材に、歴史的資料や各種調査を通じて、上記の問題に実証的に答えようとするのである。

 

2.本書の要旨

 

 第一編では、貴族的な政教一致政治の時代から二十世紀半ばまでのニューヘブンの二世紀の歴史をたどり、政治的資源が貴族に独占されていた時代から、「社会的地位」と「教育」以外の「富」や「公的地位」といった資源が企業家の手に渡り、さらに都市プロレタリアートから発生した元平民が登場して、有権者に対する「人気」という重要な政治的資源を奪い取るに至るまでの経緯を明らかにする。ニューヘブンの政治的資源は独占的な不平等という状態から分散的な不平等という状態へと変化したのであり、ニューヘブンは寡頭支配体制から多元的支配体制へと変化を遂げたのである。

 

第二編では、ニューへブンにおける三つの政治的争点(公職候補者の指名、都市再開発、公立学校の運営)を取り上げて、政治的影響力の配分の実態を検証する。その際、ダールは、政治の当事者を、指導者、下位指導者、一般構成員という三つに区分し、相互に与えている影響力がいかなるものかを考察している。ここで立証されたことは三点に要約し得よう。第一に、直接的な影響力は少数の指導者に圧倒的に配分されていること。第二に、下位指導者や一般構成員も指導者に影響を与えており、その関係は相互的であること。下から上への影響力は直接には観察しにくいが、下位者の期待や不満を把握して政策を実現しようとする指導者の下位者への配慮によって検証できる。第三に、多数の一般市民で構成される市民委員会などが政策をオーソライズする「民主主義の儀礼」も、同様に指導者に間接的な影響力は持つこと、の三点である。

 

ついで第三編では、いくつかの政治的争点を通じて、ニューへブンにおける影響力の型と政策統合の実態を検証する。ニューへブンにおける影響力の型の特色は、指導者たちが影響力を行使できる争点領域が特定の領域に特化されていることである。唯一市長だけが市政の幅広い領域に大きな影響力を持つとされる。次にダールは、そうした特化された影響力を行使する指導者たちが、どのように一定の政策決定に至るのかを考察する。その政策統合の型として、ダールは、@経済的名望家による隠然たる統合、A影響力の領域ごとの独立王国、Bボスの連合、C首長中心の「連合の大連合」、D相争い競争する独立王国、という五つのモデルを提示する。彼によれば、ニューヘブンにおいてモデル@は立証し得ない。立証できるのは、リー市長の登場以前はモデルAが成り立つこと、それ以降はモデルBからCへと移行したこと、同時に、二大政党の活動についてはモデルDが成り立つことである。

 

第一編から第三編で、ニューヘブンにおける寡占体制から多元的体制への長期的変貌、影響力の配分と行使のされ方、統合の諸類型について実証してきたダールは、以降の編で、こうした多元的体制が「なぜ」機能しているかを考察する。すなわち、多元的体制が、偶然出来上がった一時的なものではなく、「必然的」であり、かつ、変動しつつも持続可能な体制であることを立証しようとする。言い換えれば、現代社会において、多元的体制がいかに普遍的であり得るかを立証しようと試みるのである。

 

第四編、第五編では、@影響力の行使の主体である人間と、A影響力の源である各種資源の配分と使用のされ方が、現代社会の諸特性によって、必然的に多元的体制をもたらす性格を帯びていることを説明する。@の現代社会における人間について、ダールは、大多数の人間を「市民的人間」と性格付けし、自らの市民的生活に直接危害が及ぶような時以外は政治的資源を使おうとしない、基本的に非政治的存在であるとする。実際に一般市民の資源の使用状況について調査した結果も、「たいていの市民は自分の政治的資源をほとんど使っていない」(三四七ページ)とされる。その一方で、少数の「政治的人間」が存在している。彼らは、市民的人間たちと異なり、政治的資源を積極的に活用することで資源をどんどん累積することに長けた企業家の如き存在であるとされる。Aの各種資源の配分と使用のされ方について、ダールは、有意な資源を「社会的地位」「現金・信用・富」「合法性・人気・仕事の統制」「情報の統制」の四種類に整理し、そのどれも、最も多く保有している人たちが必ずしも最も多く使用できるわけではないことを、現代社会の特性から明らかにする。@、Aで明らかになったのは、政治的資源を保有していても(潜在的影響力)、実際に資源を使用する(実際の影響力)割合は主体によって大きく異なっていることである。このことが、多元的体制における影響力の配分や相互性、統合の型の諸相を規定しているのである。

 

第六編は、これまでの見解を基礎に、多元的体制の変動と安定をもたらす要因として、「職業的政治家」と「民主主義の信条」が果たす役割を考察する。多元的体制では、市民は政治的資源をほとんど活用しないため、いわば膨大な未使用資源が存在する。一方、職業的政治家の中核をなす人たちは、資源を有効に使い、政策決定に大きな影響を持っている。職業的政治家は多元的体制に大きな変動をもたらす存在である。しかし多元的体制には、職業的政治家を含めすべての参加者の影響力を抑制する機能が備わっている。すなわち膨大な未使用の政治的資源がそれであり、ひとつの勢力が強くなりすぎることに反対する勢力は誰でも、この未使用資源を活用して対抗することができる。こうした勢力の均衡が図られる調整弁が多元的体制には内在しているのである。また、民主主義の信条が果たす役割は限定的なものに過ぎないが、しかし、米国民に広範に行き渡ったその信条は、職業的政治家が民衆に訴える内容の性格や方向を制約しており、その意味で多元的体制を安定させる役割を果たしている。

 

 

U.本書およびR.ダールの政治学における位置づけ

 

 ダールは、一九六〇年代にアメリカで広まった、影響力分析を核とした実証的な政治学を担った中心人物の一人で、本書はその端緒とも言うべき古典である。本書における地方都市での政治の実証分析をふまえ、ダールは、多元的民主主義を政治モデルとして確立していった。彼は、階級支配としての政治モデルやパワーエリートによる支配としての政治モデルを否定し、アメリカの政治社会を多元的民主主義として説明した。ダールは、民主主義の「理念」ではなく、「競争的」「政治的資源制約的」等々の多元的民主主義の仕組みや機能を重視し、理念としてのデモクラシーと区別する意味で、自分の政治モデルをポリアーキーと称した。

 

ポリアーキーとは、次のような要件を満たす政治制度のことである。(一)政府の政策決定権は選出された公職者が持つことが憲法上保証されている。(二)公職者は頻繁に行われる公正で自由な選挙によって選出・任命または排除される。その過程で強制は全くないか非常に限定されている。(三)実質的に全ての成人が選挙での投票権を持つ。(四)ほぼ全ての成人が選挙で公職に立候補する権利を持つ。(五)市民は表現の自由の権利を持つ。それは現職の指導者や政権党への批判や異議申し立てを含み、司法・行政によって実質的に擁護されていなければならない。(六)市民は政府の情報へのアクセス権を持ち、それは実質的に擁護されていなければならない。情報は政府その他の単一組織に独占されてはならない。(七)市民は政党や利益団体などの政治集団を設立したり加入したりする権利を持つ。この権利は現実に擁護されていなければならない。

 

ダールの定義したこのポリアーキーの諸要件を用いることによって、ある国がそれらをどれくらい満たしているか、いわば民主主義の程度を測定することが可能になり、そのことが、世界各国の政治体制の比較を可能にしたのである。

 

 一方、日本の政治学では、「遅れた日本」「戦前からの官僚支配の日本」「特殊な日本」といった規範的な政治批判が主流であったが、一九七〇年代末から、日本の政治、社会もダール流のポリアーキーで説明しうるとの主張がされ始め、現在では政治学界で一定の地位を占めているものと思われる。しかし、日本では、経験的な実証分析の蓄積や、日本の政治の国際的な比較考察がまだ不足しているようである。

 

 

V.ダールからの発想

 

1.ポリアーキー・モデルと政治的リーダーについて

 

ダールのポリアーキー・モデルは、民主主義の政治、社会の実際を説明するモデルとして強い説得力を持っている。彼は、政治家が選挙民の忠実な代理人であるといった民主主義への単純な楽観論や、政治家が少数の支配エリート(経済的名望家)の代理人にすぎないといった民主主義への単純な悲観論を、いずれも立証し得ないとして否定し、民主主義社会の影響力の配分と影響力が行使される態様を事実に即して解明している。ダールのポリアーキー・モデルの説得力は、こうした実証の確かさによってもたらされているが、同時に、数学的な論理力というよりはデータの意味を正しく解釈する社会観察眼、人間観察眼も大きく貢献しているように思われる。第二編で、都市再開発をめぐって、リー市長の人間像の描写にかなりのスペースが割かれているが、ダールは政治学が論理で完結するものではなく、最終的には人間学でなければならないことをよくわかっている。論理のための論理に陥らない、生きた政治の観察者だからこそ、説得力のあるモデルを構築できたのであろう。

 

ダールは、都市再開発をめぐるリー市長の政治家としての素養を高く評価する。構想力、指導力、政治的駆け引きの巧みさ、人をひきつけ敵を作らない人間的魅力等々。しかし特にここで強調されているのは、リー市長のマーケティング力である。つまり、下位指導者や一般構成員が何を欲しているのか、どうすれば彼らを満足させることができるのか、といったニーズを汲み取る「マーケター」としてのリー市長の力量をダールは特に高く評価しているように思われる。確かに地方自治体における平時の諸問題では、指導者のマーケティング力は重要な素養であり、指導者があまり強いリーダーシップを発揮せずともマーケティングを誤らなければ、「影響力の領域ごとの独立王国」や「ボスの連合」の型で収まるべきところへ収まることが多いと思われる。

 

しかし、国政レベルでの争点、とりわけ外交、防衛、マクロ経済運営といった分野の重大な問題に的確に対処するには、商人的な国民ニーズ汲み取り能力とは別な資質が要求されるだろう。それは、長期的な視野に立った判断力、冷徹な構想力、国民の反発にも耐えて目的を遂行する強い意志の力といった資質であり、ここではマキアヴェリが理想とするような優れた君主に近い政治家が求められるのではないだろうか。そして政策統合の型は「首長中心の大連合」の型にならざるを得ないのではないだろうか。多元的体制においては、指導者を制約する要因が多いため、それにふさわしい資質が求められると同時に、地方政治と国政、平時と有事等、場面に応じて必要とされる指導者の資質は異なるのではないだろうか。

 

都市再開発をめぐるリー市長の素養について述べた箇所以外では、「政治における技量とは、同じ資源を使いながら他者より大きな影響力を得る能力のことである。政治では、なぜある人は他の人より技量が優れているのか、多くの考察を要する問題で、知見はほとんど無い」(三八三ページ)と、政治家の個人的資質やそれが多元的政治過程の中で果たす役割について、ダールは慎重な見解しか示していない。

 

ところで、ダールが観察したアメリカの一九五〇年代は、富の絶対額がどんどん増えた時代であり、右肩上がりゆえに経済的配分も相応になし得た時代だった。ダールの観察した多元的民主主義は、経済発展期ないしは一定以上の豊かさという前提の下で成り立つと理解すべきであろう。真柄秀子・井戸正伸「(改訂版)比較政治学」によれば、民主主義国を経済危機が襲った時に、経済的に豊かな国は民主制を維持できるが、経済的に貧しい国は民主制を崩壊させる割合が高いことが実証されている。

 

 そうした経済条件も含め、現代日本は多元的モデルで政治を説明できる世界だと思われる。村松岐夫・伊藤光利・辻中豊「日本の政治(第二版)」によれば、日本の多元体制は、アメリカの競争的モデルがそのまま適応できるのではなく、パターン化された多元体制という特色を持っているという。そして、一九九〇年代は、その負の側面が現れた、いわば「日本型多元体制の停滞」の時期ととらえられている。では、その後の小泉政権下での日本的多元モデルはどのような変容を遂げたのであろうか。選挙や政党のあり方はどう変わったか、内閣における首相の役割はどうなったか、官僚の役割、地方自治のあり方はどう変化したか。小泉時代は大変興味深い政治学の素材を私たちに提供してくれたのではないだろうか。小泉政権の五年間は、一九九〇年代の停滞を従来にないトップダウンの政治スタイルで何とか打ち破ろうとした五年間ではなかっただろうか。この小泉首相のリーダーシップを中心に、日本的多元体制の変化を実証的に分析することで、多元主義の政治、社会における政治的リーダーシップのあり方、政治指導者の倫理やノブリス・オブリージュを考察したい。また、場面に応じた優れた指導者の育成は多元的民主主義社会の大きな課題であるが、指導者に多様性が求められることを考えると、民主主義社会における指導者育成は、フランスのENAのように政府によって一元的に行われるよりも、主に民間において多様な機会と多様な機関で行われる方が望ましいとも思われるが、そうした政治指導者育成のあり方も考えてみたい。

 

2.多元的体制と民主主義の信条(エトス)について

 

ダールも言うように、アメリカでは「たたきあげ」であることが誇らしいことであり、また、トクヴィルが驚嘆して述べているように、アメリカでは人々が自ら進んでコミュニティの運営に参画しようとする自治意識が高い。多元的体制が成立した背景には、こうしたアメリカという国の起こりから根付いている民主主義のエトスが存在することを見落としてはならない。ダールは、民主主義の「理念」ではなく、「競争的」「政治的資源制約的」等々、機能としての多元的民主主義を重視したが、彼も本書の最終章で、「安全弁」としての民主主義教育やエトスに言及しているのである。

 

ところで、日本も多元的民主主義の体制であることは確かであると思われるが、日本における「民主主義の信条」は行き渡っているのだろうか。民主主義のエトスが日本で果たしている役割はいかなるものだろうか。大方の日本人は、経済的豊かさと平和を実現している今の多元的体制の機能を信頼していると思われる。しかし、規範性のない「多元的体制の機能」は「信条」たり得ない。私たちは機能としてのポリアーキーに忠誠心を持つことは出来ない。アメリカ人は、神の前の平等を標榜するキリスト教から発し専制体制を打破した英雄的な規範としての民主主義を信じているのである。歴史的に形成された、日本人の「参加」より「帰属」を好む心性は、アメリカ的な民主主義のエトスとは相容れないものがあるのだろうか。日本の歴史を踏まえた民主主義への信頼形成はできないものだろうか。たとえば、日本における民主主義の起源として、十七条憲法、律令国家の理想、貞永式目、平和的循環社会としての江戸時代、戦前のデモクラシーなどをよりどころに、日本人の納得できる「民主主義教育」はできないものだろうか。おりから憲法改正が話題に上るようになったが、改憲して自らの手で作る憲法には、民主主義への信頼と忠誠心を吹き込まなければならない。それは西洋史のエピソードを借りるだけで成り立つのだろうか。日本における民主主義のエトスの可能性について考察してみたい。

 

平成一八(二〇〇六)年八月七日

 

 

<参照した文献>

R.ダール(河村望・高橋和宏監訳)「統治するのは誰か」(行人社)一九八八年(原著一九六一年)

R.ダール(高畠通敏訳)「現代政治分析」(岩波書店)一九九九年(原著第五版一九九一年)

真柄秀子・井戸正伸「(改訂版)比較政治学」(放送大学教育振興会)二〇〇四年

真渕勝「現代行政分析」(放送大学教育振興会)二〇〇四年

北山俊哉・真渕勝・久米郁男「初めて出会う政治学−フリーライダーを超えて(新版)」(有斐閣アルマ)二〇〇三年

村松岐夫・伊藤光利・辻中豊「日本の政治(第二版)」(有斐閣)二〇〇一年