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「古典派からのメッセージ・2007年〜2008年」目次へ戻る
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ロバート・ダール「統治するのは誰か」をめぐる補論

 

T

 

 ダールは、地方政治の様々な争点を事例として取り上げて、政治的なパワー・エリートの存在を否定しているが、国政レベルの諸問題、とりわけ外交、防衛、マクロ経済運営等に関る争点でも同様の論証ができるのだろうか。アメリカを裏で支配するのはロックフェラー財閥であるとか、ロスチャイルドとロックフェラーの争いがアメリカの政治を動かしているといった、国際的名望家の支配を唱える「俗論」(例えば副島隆彦氏の主張)は、本当に否定し得るのだろうか。外交や防衛といったハイ・ポリティックスを地方政治の権益争いといった争点と同様だとは言えないだろう。

 

U

 

それにしても、影響力が上から下へと一方的に行使されるのではなく、影響力が上下双方向に直接・間接に行使される民主主義は非効率な仕組みであり、政策統合のための時間と労力のコストは莫大なものである。独立の維持と近代化に国の目的を絞って上から一方的に統治した明治時代の日本の成功や、資本主義体制との競争に国の資源を集中して独裁統治したソ連の初期の成功を思うと、民主主義がいかにコストのかかる仕組みであるかがわかる。しかし、日本は先の大戦に敗れ、ソ連は冷戦に敗北した。一定以上の経済力を持つ国の体制としては、独立した個人が政治的な影響力を行使し得ることを担保した民主主義という仕組みが結局は最も強固なのであろうか。

比較政治学では開発型独裁の是非が議論される。直感的には、民主主義の膨大な意思決定コストを考えると、発展途上国に民主主義が定着するには一定以上の経済水準が必要なのではないかと思われる。僕は開発型独裁を(すべてではないが)容認する。アメリカ政府のイラク統治設計者は、占領したイラクにあまり性急に理想的な民主主義を求めるべきではあるまい。彼(または彼女)がイラクと戦後日本とを「同じようなもの」と理解しているとしたらとんでもない歴史知らずである。戦前の日本は既に当時の先進各国相応の経済力を身につけた時期を経験しており、議会制民主主義の経験も積んでいる。そういう経済的・政治的蓄積があったからこそ、戦後のアメリカ統治も円滑にできたのである。フセインまでの近代イラクにその蓄積があるのか、歴史から学ぶべきである。

 

V

 

政治に対する単なる興味や床屋談義は、自己満足を惹起することによって、かえって市民の政治参加を妨げる(352ページ)とのダールの指摘は、どの程度社会心理学的な実証に基づいているのか不明だが、たいへん鋭い見解だと感じる。

 

W

 

アメリカにおける市民の政治との関係についてのトクヴィルとダールの見解の相違を整理しておきたい。トクヴィルはアメリカ市民の政治参加が活発であると述べ、ダールは少ないと述べる。どちらが正しいのだろうか? アメリカ市民の政治参加の量を、トクヴィルはフランス市民と比較して「多い」と言っており、ダールはアメリカの政治的指導層と比較して「少ない」と述べている。両者の比較の対象の違いが見解に相違を生んでいると思われる。

また、トクヴィルは、アメリカでは政府に頼らない自発性と自治が行き渡っていること(積極的な政治参加)を指摘すると同時に、アメリカで民主主義が機能しているのはアメリカ人の「習慣」すなわち「民衆の全体的な道徳的かつ知的な条件」によるもの(民主主義的エトスの共有)であるとも述べ、両者(=積極的な政治参加と民主主義的エトスの共有)をアメリカの民主主義の特徴として併記するにとどまっている。一方ダールは、市民が積極的に政治参加すること(政治的資源の実際の使用)と、市民が民主主義的エトスを広範に共有すること(政治的資源の蓄積)とを明確に区別し、多元的民主主義体制を安定的に機能させているのは前者ではなく後者であると述べている。政治資源の「蓄積」と「実際の使用」とを区別し前者の重要性を強調するダールの分析はおおいに首肯できる。

 

X

 

アメリカの他の都市において、しばしば準独裁制に陥った事例がある(389ページ)とのことだが、そうした事例とダールが事例研究したニューヘブン市とを比較すれば、民主主義が持続するための諸条件を抽出できるのではないだろうか。

 

Y

 

多元的体制には独裁や専制に至りにくい調整弁が内在しているというのは、言い換えると、各政治主体間に競争が常にあって、市民が選択肢を持ち得るということであり、いわば経済の市場原理(自由主義)を政治に適用した考え方とも理解できるのではないだろうか。経済の自由主義体制と政治の多元的民主主義体制との関係については、その親和性を指摘する文章が381ページにわずかに出てくるに過ぎないが、多元的民主主義の前提である「市民的人間(ホモ・シビカス)」と自由主義経済の前提となる「経済的人間(ホモ・エコノミカス)」は、倫理的契機を欠いた功利主義的人間観という点では共通していると思われる。

そもそも経済の自由主義(資本主義)は勤勉と節倹とが神の意志であったとされるところから発し、政治の民主主義は神の前の平等の観念から発している。経済の自由主義(資本主義)と政治の民主主義とは西欧キリスト教が生んだ双生児である。現代においても、経済の自由主義(資本主義)と政治の民主主義は相補うものないしはお互いに不可欠なものであろう。自由主義が経済格差を拡大させる性質を持つのに対し、民主主義は平等の理念を内包することから、両者は矛盾する性格を持ちつつ調整し合う関係である(例えば経済的自由主義がもたらす極端な貧富差を政治的民主主義の累進課税制度で緩和する)。政治的民主主義を欠いたまま経済的自由主義だけを発展させようとする共産党独裁の中国は安定的に発展できるのだろうか。それとも、中国共産党は発展初期の開発型独裁であって、一定の経済水準に達すれば政治的民主主義があの国にもたらされ、経済的自由と政治的民主主義が両立するのだろうか。

 

 

<参照した文献>

@R.ダール(河村望・高橋和宏監訳)「統治するのは誰か」(行人社)一九八八年(原著一九六一年)

A小室直樹「痛快!憲法学」(集英社インターナショナル)二〇〇一年