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民主政治における人材登用について

−齋藤健氏の「転落の歴史に何をみるか」に学ぶ

 

 

この本の著者、齋藤健(たけし)氏は、僕より三年ほど若い、元通産官僚である。日米通商交渉などに携わった後、通産省を退官し、政治家に転身せんと、二〇〇六年四月、衆議院千葉七区補欠選挙に自民党公認候補として立候補したが、民主党公認の太田和美候補に敗れた。ちょうど郵政解散後の衆議院総選挙で小泉首相が「刺客」を立てたりして自民党が大勝利を収めた半年後の選挙であり、国民には総選挙で自民党に勝たせすぎたという反省があったのだろう、自民党公認で出馬した齋藤氏の敗北は不運だった。

 

 この本は、それより四年ほど前に書かれた。日露戦争後わずか三〇年で軍部の独走を許すような事態に「転落」していった戦前の日本の歴史から謙虚に学ぼうという趣旨の本である。しかし齋藤氏は単に歴史を回顧しているのではない。彼の頭には現代日本への熱い危機感が燃えさかっている。その熱い思いが、全体が見えるジェネラリストの消滅や組織の自己改革力の喪失といった戦前の軍部の問題点を浮き上がらせ、現代の政治や行政をも照射しているのである。少し文体が生真面目過ぎる気はするが、さわやかな読後感の残る好著である。ぜひ一読をお勧めする。

 

 僕がとりわけ勉強になったのは、齋藤氏が民主政治におけるリーダー選抜の工夫やノブリス・オブリージュのあり方について他国の例を引きながら考察しているくだりである。曰く、

 

「例えばイギリスでは、公共事業は地方政府の事業ということになっており、中央の議員が、選挙区への公共事業誘致などの利益誘導の見返りに票集めを依頼する、というような余地はない。代わりに、国会議員は外交政策、経済政策、福祉政策など国家レベルの政策に集中する仕組みになっている。日本のように、与野党問わず公共事業の箇所付けに奔走するという姿はない。

 

 したがってイギリスの国会議員は、国レベルの政策についてのアイディアの善し悪し、その実現能力などで評価されることになる。また実際の選挙においても、情実が入り込む余地をなるべく排除し、人物本位、政策本位の候補者選定プロセスとなるように、例えば、生まれ故郷からの立候補を禁じるなどの知恵が絞られている。

 

 政党サイドとしても、有為な人材を当選させるため、確実に当選できる選挙区を与えるということさえ行う。その結果、選挙区を何回も変えるということが現実にある。選挙資金も、きわめて限られた額でまかなえるようになっており、優秀でやる気さえあれば、誰にでも政治家への道が開かれる。

 

 隣のフランスでも、同趣旨の工夫がなされている。フランスでは、政党がしばしば、ENA(国立行政学院)出身の若手の官僚や学者の中から、特に将来が嘱望される人材に目を付ける。そして、絶対当選できる選挙区を割り当てて三十代で当選させ、四十代で閣僚にし、五十代では大統領や首相をねらえる人材に育て上げるシステムが機能している。

 

 この間、例えば官僚の場合には、当選すれば出向という形で議員になることができ、落選すれば公務員に戻れる。日本と同じ代議制民主主義とはいえ、その実態面の違いは相当大きい。フランスの場合も、イギリスと同様、制度的工夫と社会の意思が働かされており、ドゴール、ミッテランといった傑出したリーダーの輩出は、その必然的な成果である。

 

 現大統領のジャック・シラク氏も、ENA出身で、三十歳で当時のポンピドー大統領の目にとまり、三十五歳で初当選、四十二歳でジスカール・デスタン大統領の下で首相に就任している。四十四歳の時、自ら政党を創設して総裁になり、大統領には苦節三回目の挑戦で就任している。そのとき六十三歳だった。

(中略)

 最後にアメリカである。周知のように、アメリカ大統領選は、予備選も含めて一年間に亘る長期戦である。この間、候補者は多くのスキャンダル攻撃を受け、ありとあらゆる厳しい政策論争に耐えねばならない。その結果、一見ポピュリズムに見えるような候補者が当選することになっても、このような一年間の全米規模での激烈な戦いに耐えて勝利を獲得できる者は、最低限のリーダーとしての資格は備えていると考えられよう。

 

 民主主義よりも優れた政治制度は存在しない。しかし、以上の例でわかるように、欧米諸国では、民主主義には限界があることを明確に意識した上で、それをうまく補完するように、したたかに対応している。彼らが政治のリーダーシップという場合には、それにふさわしい人間が政治に登場する仕組みとセットになっているのがよくわかる。決して選挙で選ばれさえすればそれですべてよしというような、軽い発想には立っていない。

(中略)

 問題の設定は、日本ではどのような形で民主主義を補完するのが一番いいのか、というものであるべきである。その文脈の中で、政治はこう改革すべきだし、官僚制はこう改革すべきだというのが理性的な議論の展開方法である。」(以上は本書のP114〜P119)

 

僕は、このような政治的リーダー選出のための欧米の知恵についてまとめた研究があれば、欧米の文献も含めてぜひ調べてみたいと思った次第である。また曰く、

 

「アジア経済危機や我が国の金融危機を通じてスクリーンに浮かび上がってきたものは、国家間の政策の相互作用が拡大する中で、先進各国は、他国に配慮しながらもいかに自国に有利な政策展開を行い、国際世論の支持を獲得するかといった、いわば、政策立案競争の時代に足を踏み入れているという現実である。世界経済のパイの拡大がそう見込めなくなってくれば、どの国がババを引くか、それはババ抜きゲームの様相さえ呈する。

 

 つまり、政策を生み出す土壌である。「政」と「官」を合わせた日本の政策立案機構の国際競争力が、厳しく問われる時代を迎えているということである。こういう時代認識に立った場合、逆に最も憂慮すべき事態は、そういった議論が一切無いまま、ただ、政治主導の「紋所」のもとで、「官」の棲息領域を狭め活力を失わせることが良いことなのだといった、単純な議論が社会全体を支配することである。

(中略)

 エリートというものは、公のためには自らを犠牲にしてでもという強固な精神と、その精神を無事開花させるための冷静なリアリズムとの双方を有すべきである…(中略)…いかなる国、いかなる時代においても、指導的立場にある人々が、「公のために最後のところで踏みとどまる強固な自律の精神」を持っていなくてどうするのか、ということである。これは政治家や官僚のみに求められるのではなく、経済人、医者、教育者、そして、ジャーナリズムにも同じように求められる。」(以上は本書のP119〜P137)

 

僕は、このようなノブリス・オブリージュを確立するに当たって、特に現代日本に欠けている徳目はなんだろうか、と考えた。アリストテレスも新渡戸稲造も共通に掲げているリーダーに必要な諸徳目で、現代日本に最も欠けているのは何だろうか。徳目ごとに、まずまず満たされているものとそうでないものとを区別すると、おそらく「勇」と「義」とが現代日本には最も欠如しているのではないかと思う。

 

平成一九(二〇〇七)年六月一五日

 

<参照した文献>

齋藤健 「転落の歴史に何を見るか」 ちくま新書(二〇〇二年)