「日本の経済・金融戦略」序説(第二回)
アメリカによる経済・金融の日本統御
製造業で日本に押しまくられたアメリカ政府の矛先は、一九八〇年代半ば以降、自動車など個別分野から為替調整、マクロ政策、構造問題へと、日本社会の深奥へ向かった。[3] その歴史を振り返ってみよう。
レーガン政権(一九八一年〜一九八九年)下、高い失業率とインフレに喘ぐ米国は、自動車や家電を輸出しまくる日本への反発を強めた。個別分野でのアメリカの強硬な姿勢を受けて日本は自動車や鉄鋼の輸出自主規制を行った。一九八五年の「プラザ合意」以降の為替調整で急速に円高ドル安が進んだが、日本の貿易競争力は衰えなかったため、レーガン政権は、日本に内需拡大を迫った。時の中曽根政権は、「前川レポート」を発表、「構造改善」によって貯蓄を抑制し消費を拡大すると約束、これが日本にバブルを生んだ。
次の父ブッシュ政権(一九八九年〜一九九三年)は、日米構造協議を開催させて日本固有の流通制度の改革や規制緩和を求めた。日本のバブルに陰りが見えても内需拡大要請が引き続き強硬に行われた。一九九〇年二月、霞ヶ関で開かれた日米構造協議の第三回会合で、ダラーラ財務次官補は「過剰貯蓄の日本では、国内で投資や消費に使われない分が貿易黒字になっている。公共投資の額をGDP比の一〇%にするという目標を、多年度で設定してほしい」と要求。海部政権のもとで、日本は、一〇年で四三〇兆円の「公共投資基本計画」を策定する。しかし、主権国家に公共投資の額を約束させると言う荒業は、常に公共投資に飢えている日本国内の利益誘導政治、政官民の「共振」無しには実現しなかったのも事実である。
続くクリントン政権(一九九三年〜二〇〇一年)は、日本市場での米国企業の一定のシェアを求めるなど、「結果重視」を打ち出し、経済制裁をちらつかせながら日本に強硬に譲歩を迫った。クリントン政権からは「減税」も要求され続けた。一九九四年一〇月に自社さ連立の村山政権は「三年間の減税先行、一九九七年四月の消費税増税」を決めた。さらに、小渕政権は増収策を欠いたまま大型減税に踏み切り、歳入構造の穴として残った。
このように主体性の無いアメリカ追随は、バブルとその崩壊による経済疲弊と巨額の財政赤字を日本に残す結果となった。日本は、製造業の躍進によって一九八〇年代末期に円のパワーを獲得した。しかし、為政者たちは、その実像を見つめることも、そのパワーを維持することもできず、それ以降の日本の国力は長期低落を始めた。あきれるくらい何の戦略的な判断もなかった。[4] 高度成長時代から一九八〇年代前半までの日本経済の成功要因は、バブルの形成と崩壊、その後の停滞の要因に転じた。日本は、ケント・カルダーの言う「戦略的資本主義」の成功ゆえ、そのパターンから抜け出せず、奢り高ぶってバブルを招来しアメリカの不動産を買い漁った。この「戦略なき侵略」はアメリカの強い恨みを買った。同時期のアメリカは、競争力をなくした製造業をあきらめ、産業構造を金融や情報中心に移した。日本の製造業が稼いだ黒字は米国債に回って米経済を支えた。国益を世界標準に仕立て上げる戦略(=グローバリゼーション)で国内経済も立て直し、レーガン時代に発生した「双子の赤字」の内、財政は二〇〇一年に黒字化した(その後、ブッシュ(子)政権時代に戦争などで再び財政も赤字になったが)。アメリカは、強いドル政策の下で貿易赤字を放置し、低コストの円借入で資金調達して高収益で運用する自国中心の国際投資循環を定着させた。「日本の超低金利は相変わらずで、製造業が稼いだ外貨を国外で運用するメカニズムも不変」[5] なのである。アメリカによる日本の経済・金融の統御とも言うべき状況はこうして作られたのである。バブルの崩壊とその後の停滞が「金融敗戦」とも言われるのは、円パワーを活かす戦略が欠如したため、新たな経済・金融戦略を構築して逆襲してきたアメリカ勢を中心とする国際金融資本に世界における主導権を握られたばかりでなく、日本国内の金融・資本市場での彼らの影響力が格段に増大したためである。
もっとも貿易黒字を主体的に活用する模索が日本に無かったわけではない。一九八四年版の経済白書と通商白書は、そろって「資本輸出国論」を展開した。「そもそも財政による黒字減らしには限界がある。無理して公共投資を増やせば、不要な事業が次々と認められてしまう。成熟した債権国に移るには、地球規模の戦略が必要だと考えた」(通商白書を書いた元通産官僚の根津利三郎氏)。だが、黒字有用論は「閉鎖市場の開き直り」とアメリカなどから叩かれ、激しさを増す貿易摩擦の中で吹き飛んだ。「最大の軍隊と最大の債務を抱える国(アメリカ)の覇権を、最大の債権国(日本)が補完するだけの関係ではまずいと思った。マネーの力を経済外交と将来の国づくりにどうつなげるのか、という戦略を欠いた」(元財務官の大場智満氏)と気づいたときには既に遅かったのである。
ブッシュ(子)政権と重なる小泉政権時代にも、アメリカ勢を中心とする国際金融資本の世界的影響力は一層強まり、日本の国内政治にも影響を与え続けた。この時代、アメリカは日本の不良債権問題と郵政民営化問題に大きな関心を寄せ、様々なかたちで日本の政治に関与しようとした。アメリカの官民はこぞって小泉首相と竹中平蔵経済財政担当大臣のコンビが掲げる「構造改革」に支持を表明し続けた。そしてそれが小泉・竹中の国内で政治的影響力を行使するための資源(リソース)になっていた。小泉・竹中は、不良債権処理や郵政民営化という国内的目的を達成するためにアメリカからの外圧を利用し、一方、北朝鮮問題はじめ外交の懸案に対応するのに必要な良好な日米関係を維持するために、アメリカの経済的要求に応えて不良債権処理や郵政民営化という国内問題を利用した。
まず、不良債権問題について、アメリカ政府は終始、不良債権のオフバランス化、市場への売却を主張した。これは、市場売却が最も透明性が高く最終的な処理手段として有効であるという合理主義からの助言であると同時に、アメリカの投資銀行、会計事務所、弁護士など、不良債権売買を商売にする米国内業者からの「内圧」に応じた活動でもある。資産査定を厳しくして銀行が引当を厚く積んでも、銀行が貸出資産を抱えたままでは彼らの商売にならない。銀行から直接間接に不良債権を買い取ってこそ彼らの商売になる。アメリカが口を酸っぱくして不良債権のオフバランス化を主張したのはそのためである。
また、強力な政治力を持つアメリカの生命保険会社と、その「内圧」によって動くアメリカ政府は、小泉・竹中の郵政民営化も支持した。アメリカ側の一貫した要求は「イコール・フッティング(競争条件の同一化)」であった。アメリカ側の狙いが「簡保買収」であったという証拠は見あたらない。だが「イコール・フッティング」の中には、「完全民営化」すなわち資本関係を政府から完全に分離することなどが含まれており、小泉・竹中の策定した郵政民営化法によってこれが実現されたのである。郵貯と簡保は二〇〇七年一〇月に政府出資の持ち株会社の下で出発し、持ち株会社と共に二〇一〇年に株式上場することを目指すこととされた。さらに、郵貯と簡保は、二〇一七年までにその株式を持ち株会社から市場に完全に売却され、「公」の頸木から解き放たれる。その時は、純粋な民間金融機関たる郵貯、簡保の株主と経営者は、他の金融機関を買うことも決断できるし、他の金融機関から買われることを決断することもあり得る。アメリカの生命保険会社は長期的見地から簡保を手に入れようと小泉・竹中の郵政民営化を支援したと推察することもできる。
小泉時代を振り返ると、軍事面での関係緊密化にしろ、国際金融資本の構造的圧力にしろ、日本には一貫した戦略が欠如したまま、場当たり的にアメリカの軍事面、経済面の「垂直統合」圧力に応じてきたという印象を拭えない。国家戦略の欠如は戦後日本の病弊である。
平成二〇(二〇〇八)年五月九日
(続く)
*本編は、季刊「日本主義」(白陽社)二〇〇八年夏号に寄稿した「米国流グローバル・スタンダードと日本の二十一世紀戦略」に加筆・修正したものです。一部、既掲載の文章も用いております。