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「日本の経済・金融戦略」序説(第三回)

 

 

日本の適応異常

 

古来、日本は外来文化を巧みに取捨選択し「日本化」して使ってきたと言われる。しかし、一九九〇年代以降、アメリカの圧力によって雑然と流入してきた人事制度、会計制度、司法制度等のアメリカ型経済・社会諸モデルに対して、現代日本は適応異常を起こしており、未だ咀嚼、取捨選択ができていないように思われる。アメリカ型の経済・社会諸モデルは、歴史的条件が異なる日本でそのまま良く機能するわけではない。例えば、人事における「成果主義」には、勤労者の生活サイクルを顧慮した長期展望が欠けているため、多くの勤労者は信頼を寄せていない。企業価値判断における「株価至上主義ないし時価総額至上主義」も、長期保有株主より短期値ざや狙いの株主に焦点を当てているため、多くの企業経営者は疑念を抱いている。

 

M&Aを礼賛する金融資本主義的職業観は、コンサルタント業、会計事務所、弁護士、投資銀行に若者を向かわせるが、それらの職業は、本源的経済価値創造には貢献せず、情報やモノやカネやヒトを右から左へ仲介する仕事である。加えて、金融資本主義的職業観は、早期専門家化を促し若いうちにカネ持ちになることを人生の目標とする。しかし日本の強みである製造業の技術革新には、金融資本主義的職業観とは正反対の職業観が求められる。トヨタ自動車の奥田碩会長は、トヨタの役所的ローテーション、すなわち、三〇歳くらいまではいろいろな業務を経験させ、その後ゆるやかに専門化させてゆくやり方は製造業に向いているという。奥田氏にとっては、そうしたローテーションを経てフィリピン法人時代に比較的小さな会社の経営を任された経験が本物のジェネラリスト修行として後にトヨタのトップに立った時に最も役に立っていると述べている。

 

私たちに必要なのは、まず、アメリカの経済・社会の仕組みは、本来、ユニークな国柄であるアメリカのモデルを普遍価値化、イデオロギー化、世界標準化して、自国に有利な環境を形成するアメリカの戦略であることをよく認識し、アメリカ型モデルを相対化し、距離を置くことである。英国の社会学者、ロナルド・ドーアは、日本型モデル否定論が跋扈していた二〇〇二年時点で、それを擁護してこう述べている。

 

「日本のいわゆる『グローバルスタンダード』派が、日本がまねすべき米国の素晴らしい点としていつも挙げていたことのひとつは、シリコンバレーやベンチャービジネスのダイナミズム。もうひとつは、会計の透明性だった。前者はナスダックの暴落で、後者はエンロンなど一連のスキャンダルで、神話が崩れ去った。この際、じっくり日本の企業改革を考え直すべきだ。私は『生え抜き経営者』や実質的な『従業員主権』などの日本型ビジネスモデルを全て破壊する必要はないと考える。粉飾決算はエンロンも山一証券も同類だが、山一は企業を存続させるための窮余の一策、エンロンはトップが私腹を肥やすための策だった。(中略)日本の特徴のひとつ、終身雇用は崩れたというが、日本人は人員整理をするとなると、まず希望退職の形をとる。米国は、利益が上がっていてもさらに利益を増やそうとダウンサイジングを進める。」[6] 

 

また、在米一〇年以上の生活経験から、自分は決してアメリカ人にはなれないという誠実な自覚を持つに至ったハーバード大学医学部助教授の金木正夫は、次のように語る。

 

「米国の競争社会は建国の父、ピューリタンの宗教にまで遡る確固たる個人主義に裏打ちされている。私は、たとえこの先二〇年米国に暮らしても、この個人主義を自らの生き方にすることは無いと思う。確立した個人主義無しに競争原理だけが導入されれば、人間関係が希薄でバラバラな社会を生み出すであろう。」[7] アメリカの個人主義は、社会的中間物を介さずに個人が神と直接向き合うプロテスタントの倫理に支えられ、そうした倫理を前提に競争社会が築かれているのである。そうした宗教的、倫理的前提は日本には存在しない。

 

小泉首相と竹中平蔵大臣のコンビによってなされた「構造改革」や「改革」も、すべて米国発の米国戦略への順応策であり、国家の政策としてアメリカへの適応異常を起こしていたと言える。そもそも竹中平蔵は、アメリカに留学し、留学生の常として、南米やロシアからの留学生と同様、アメリカに憧れ、愛着を持ち、日本での社会的成功のために彼の地で人脈作りに励んだ人物である。竹中のような存在は、日本の経済・金融を統御する上で、アメリカの官民にとってはありがたい味方である。アメリカ新自由主義は竹中を取り込み、アメリカは労せずして自分の強力な支持者を日本の中に植え付けることが出来た。

 

竹中の経済政策がいかに日本の歴史的条件を考慮しなかったか。ひとつの例は不良債権処理促進策である。強硬な不良債権処理は、「非効率」なゼネコンや小売業とともに、まっとうな中小企業の数々を消滅させた。日本では、一九八九年以降、倒産や廃業で消える企業の割合が、新たに開業した企業の割合を上回り続けているが、それは、小泉時代を通じても改善されなかった。期待された情報・通信産業でも開業率を廃業率が上回った。サービス業の新規雇用創出は過去一〇年間とっても三九〇万人に過ぎず(以上は「中小企業白書二〇〇七年版」による)、小泉政権初年度の「骨太の政策二〇〇一」で試算されていた「新規分野を含むサービス分野においては五年間で五三〇万人の雇用機会の創出」は、絵に描いた餅に終わった。経済学者の竹森俊平が当時懸念したとおり、不況下での不良債権処理促進は「創造無き破壊」に終わったのである。[8] アメリカのように産業や労働の流動性が高い国であれば、清算主義が産業の新陳代謝を促して「創造的破壊」になるのだろう。しかし日本にそうした社会的条件が整っているわけではない。経済政策は、その背景となる社会的条件を考慮に入れながら慎重に執り行われるべきである。アメリカ型の経済・社会を理想として目指すのであれば、ヴェンチャー企業が次々に輩出するように人生観の教育をはじめとした社会環境を整備し、労働の標準化による流動性高い労働市場を整備し、直接金融の基盤である資本市場の監督強化のためにアメリカ並みの市場監視要員を用意しつつ、ゆっくり時間をかけて負の効果も検証しながら進めなければならないだろう。

 

小泉時代初期まで続いていた不況とデフレを内発的に政策によって克服するには、一九九〇年代を通して効果の乏しかった財政出動に頼らずに、国民が自信回復できるような、単なる数字予測ではない大きな長期的なビジョンを示して国民を奮い立たせ、民間主導の景気回復に力を与えるしかなかっただろう。小泉・竹中が財政出動に頼らなかったのは正しかった。しかし日本人が腹の底から共鳴できるような日本に適合した自由主義の思想は小泉・竹中からは出なかった。民間企業は、小泉・竹中が日本経済のモデルをどのようにしたいのか不明のまま、暗闇の中でひたすら自己防衛のためのリストラに励み外需に光を見いだしてようやく立ち直ったのである。アメリカ・モデルの表層しか見えない小泉・竹中には、まさに「歴史もなければ過去もない」[9] のである。歴史を踏まえた社会基盤の洞察が欠如した自由主義的経済政策には、大きな長期的なビジョンは内在しない。過去が無ければ未来を描けるはずもない。竹中は、小泉首相の経済政策の代理人として、「抵抗勢力」をねじ伏せる卓抜な執行力を示したが、決して「知恵の出し手」ではなかったのである。

 

アメリカで流行っていることの表層だけを追いかけるようなアメリカ資本主義への適応異常の経済政策から脱するべきだ。堂目卓生大阪大学教授は次のように述べる。

 

「経済問題に取り組む時、私たちは、できる限り精密で現実妥当性の高い理論を必要とする。しかし、いかに優れた理論であっても、私たちはそれだけで現実に立ち向かうことはできない。」[10] 

 

そのとおりである。社会科学は自然科学と異なり、「実験」できることが極めて限られている。マクロ経済政策や金融政策は特に実験が難しい。実験による理論の検証が難しい限り、私たちは、現実の経済政策を進めるにあたって、理論に加えて、歴史から経験的に学び、規範的に考察することを欠かせない。為政者の思想・経験の深浅が問われる所以である。小泉首相と竹中平蔵大臣のコンビは、為政者としての知恵に欠け、その思想は浅いものだったように思われる。彼らによってなされた「構造改革」や「改革」は、すべてアメリカの日本統御戦略への順応に過ぎなかったのである。

 

 

平成二〇(二〇〇八)年五月九日
(続く)

 

*本編は、季刊「日本主義」(白陽社)二〇〇八年夏号に寄稿した「米国流グローバル・スタンダードと日本の二十一世紀戦略」に加筆・修正したものです。一部、既掲載の文章も用いております。

 



[6] 「朝日新聞」二〇〇二年一〇月二二日

[7] 「朝日新聞」二〇〇五年九月一日

[8]  竹森俊平「経済論争は甦る」東洋経済新報社(二〇〇二年)、p一八七

[9]  御厨貴「ニヒリズムの宰相 小泉純一郎論」PHP新書(二〇〇六年)、p二〇八

[10] 「日本経済新聞」二〇〇七年八月一四日の「経済教室」