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「古典派からのメッセージ・2007年〜2008年」目次へ戻る
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「日本の経済・金融戦略」序説(第四回)

 

 

日本にふさわしい経済モデルの構築に向けて

 

アメリカは、個人も政府も膨大な借金をしながら、アラブ諸国から石油を買い、日本や中国から工業製品等を買って、消費を謳歌している。アメリカのGDPの構成要素の内、実に七割が消費である。アメリカが経済成長を望むなら消費を拡大し続けなければならない。そしてアメリカは、基軸通貨国としての信用を背景に、膨大な貿易赤字と財政赤字を日本、中国、アラブ諸国など諸外国からの資本流入(借入)によって賄っているばかりでなく、その「借金」で再び世界に投資すら行い、言わば「財テク」で国富を稼いでいる。こうした巨大な世界の貿易不均衡と国際金融資本が作り出す巨大な資金循環という枠組みの中で、各国は「経済競争力と相対的な経済優位の維持を欠かすことはできない」のであり、「各国政府は、国際的な力の関係を見据えたゲームプランの構想が求められる」[11] のである。現代は、官も民も世界的な規模で個性と影響力を競い合う時代になったのである。日本も、ハード、ソフト両面での自らの「強み」「弱み」をよく自覚吟味し、官民が戦略的に行動して、「日本国民にとって望ましい立ち位置」を確保しなければならない。「国家間の政策の相互作用が拡大する中で、先進各国は、他国に配慮しながらもいかに自国に有利な政策展開を行い、国際世論の支持を獲得するかといった、いわば、政策立案競争の時代に足を踏み入れている。世界経済のパイの拡大がそう見込めなくなってくれば、どの国がババを引くか、それはババ抜きゲームの様相さえ呈する」[12] のである。

 

民間企業の努力と外需によって景気回復を遂げた日本は、現在、世界を席巻する国際金融資本の影響下で、新しい経済のモデルを模索しているが、本来は、経済の前に、目標とする国家像をどう示すかを考えなければならない。価値観が多様化し、国内外の環境が激変する中で、ただひとつの「像」は結びにくい。しかし、「○○の国」「○○な社会」という目標を国民に示し、その是非を問うことは政治の大きな課題だ。一九九〇年代前半、自民党一党体制が終わりを告げた頃、新生党の小沢一郎は「普通の国」、新党さきがけの武村正義は「小さくともキラリと光る国」を掲げた。新保守主義かリベラルか。その対立軸は次の政界再編につながるのではないかと期待されたが、結果的にはともに羅針盤にはならなかった。一九九〇年代末、川勝平太は小渕首相に「富国有徳」という国家目標を発案したが、小渕内閣は当時の金融危機への対応に追われ国家像を議論する暇はなかった。川勝は言う「(その後の)小泉首相の構造改革を八割の国民が支持した。それは『国のかたち』を変えようという意思表示だった。」小泉は政府に頼らない自助努力の社会を掲げて戦後自民党の経済再配分システムの制度疲労を破壊しようとした。しかし小泉の主張には「壊す」ことに力点があっても、その先の「国家像」は浮かんでこない。[13] 小泉の後、国家像をめぐる議論(「ハイ・ポリティックス」)は後退し、年金や食品安全といった「ロー・ポリティックス」ばかりが政治の争点になってしまった。吉田ドクトリンを超えて世界に喧伝すべき国家像を樹立すること、日本の本来の強みを活かした二十一世紀にふさわしい政治・経済の制度・慣行を樹立すること、そしてそれらを含む国家戦略を構築することが何よりも必要である。

 

この小論では国家像を議論する余裕はない。ここでは、日本の固有性を世界環境の中でどう活かすかを考えてみたい。日本の歴史的条件を踏まえて経済システム設計をどうするかを考える上で、経営学者の伊丹敬之の

 

制度・慣行=環境×原理(固有性)

 

という方程式がヒントになる。この方程式の意味は、長期的な雇用慣行といったような「制度・慣行」は、「環境」と「原理」との掛け合わせで決まるというものだ。伊丹は、終身雇用・年功序列・企業別組合・系列といった「制度・慣行」は、日本的経営の本質ではなく、その奥にある「原理」を見失わないことが重要であると言う。その「原理」とはカネ(資本)よりもヒト(人本)をより重要視することであるといい、伊丹は、日本資本主義の本質を「人本主義」を名付けている。カネの力より人の力を重視する「人本主義」の「原理」を日本企業は変える必要は無い。むしろこれからの時代に「人本主義」はますます必要だ。環境変動に応じて、事業戦略、組織、人事といった「制度・慣行」を大きく改変すべきだ、とも説く。具体的には「デジタル人本主義」に変わるべきであるという。ここでの「デジタル」という言葉は二つの意味を持つ。一つは、情報技術装備を充実させ、人本主義の強みである柔軟な人的ネットワークをより活性化させるような仕組みを作ること。もう一つは、白黒はっきりさせた数字に厳しい経営スタンスという意味でのデジタルである。「曖昧な方針、どんぶり勘定、どっちつかずの判断、甘い業績評価、個人の個性を埋没させるぼんやりとした全体指向、こういった要素が少ない経営」である。[14] 逆説的だが、日本の「原理」たる人本主義を守るために、世界的な規模で個性と影響力を競い合う「環境」においては、競争社会にふさわしいデジタルな「制度・慣行」が必要なのである。革新をもたらす成功者に嫉妬するのではなく彼らを率直に礼賛する規範も必要だ。「長期的利益重視」といった人本主義の原理から派生する「制度・慣行」が、「今何もしないこと」「漫然とルーティンワークをこなすこと」に転じてはならない。安定の上にあぐらをかいて腐敗した官僚的害悪を生じないようにしなければならない。山本七平は「日本は倒産が必要な社会である」と喝破している。[15] 

 

小泉時代の最後の一年に、竹中平蔵に代わって与謝野馨が経済財政担当大臣になって作成された「骨太の方針二〇〇六」は、竹中の作った骨太二〇〇一〜二〇〇五と比較して、アメリカ的自由主義と日本の社会的条件の折り合いについて踏み込んだコメントをしている。例えば、長期的視点に立って研究開発・投資を行う『経営の論理』と短期的な収益回収を求める『資本の論理』の間で、『日本型の最適組み合わせ』が生まれつつある」[16] といった一節である。このような、日本の「原理」(本来の強み)を国際「環境」の中で生かす発想を、政治でも経済でもすべきなのである。

 

平成二〇(二〇〇八)年五月九日
(続く)

 

*本編は、季刊「日本主義」(白陽社)二〇〇八年夏号に寄稿した「米国流グローバル・スタンダードと日本の二十一世紀戦略」に加筆・修正したものです。一部、既掲載の文章も用いております。

 



[11] 佐々木毅「政治学講義」東京大学出版会(一九九九年)、p二五三〜p二五四

[12] 斎藤健「転落の歴史に何を見るか」ちくま新書(二〇〇二年)、p一一九

[13] 「朝日新聞」二〇〇三年一月一一日掲載の「もうひとつのニッポン」Dより

[14]  伊丹敬之「経営の未来を見誤るな」日本経済新聞社(二〇〇〇年)を参照。

[15]  山本七平「日本資本主義の精神」光文社(一九七九年)、p二二二

[16] 「骨太の方針二〇〇六」内閣府経済財政諮問会議ホームページより