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「古典派からのメッセージ・2007年〜2008年」目次へ戻る
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ドラマティックな「松風」

 

 

石川県立能楽堂で催された「藪俊彦能の会」で、能「松風」を拝見しました。「松風」は、その主題(二人の姉妹の失った恋への追慕)からすると、何となく可憐な曲という印象があったのですが、実は長大な曲で、演能時間は二時間弱かかります。僕はこれまで三回ほどこの曲を拝見していますが、いずれも相当な時間、爆睡またはうたた寝してしまっていたので、この曲の長大さには気づきませんでした。きちんと最初から最後までこの曲を見通したのは、実は、今回が初めてなのです(^^; 能「松風」のあらすじや背景は次の通りです。

 

 須磨の浦を訪ねた旅の僧は、いわくありげな一本の松をみつけます。所の者にいわれを問うと、松風・村雨というふたりの海女の旧跡だとのことです。僧が読経して弔っているとやがて日も暮れ、月夜の浜辺にふたりの海女が潮汲車を引いて現れます。ふたりは松風・村雨姉妹の幽霊でした。

かつて歌人・在原行平が須磨に左遷されていたとき、ふたりは彼に深く愛されたのです。行平は三年須磨に蟄居した後都へ帰りますが、程なく亡くなってしまい、ふたりは二度と行平に会えない運命となったのです。僧は、ふたりから、行平との恋の物語妄執の苦しみを聞きます三年間の恋の想いが断ち切れず、行平も松風も村雨も死んだ今でも、松風・村雨の魂は行平を待ち続け、その執心ゆえに成仏できず須磨に浮遊しているのです。やがて松風は、行平の形見の烏帽子・狩衣を身につけると、妄執にとらわれ、松を行平に見立ててそれに寄り添い、恋慕の舞を舞います。やがてふたりは僧に回向を頼み夜明けとともに消えてゆきます。

 

在原行平[弘仁九(八一八)年〜寛平五(八九三)年]は平安時代初期の公卿で歌人。伊勢物語の主人公とされる在原業平の兄にあたります。一時須磨に左遷された理由は不明ですが、因幡国守などを歴任し中納言にまで昇進しています。また、藤原氏の勧学院に対抗して在原氏一族の子弟教育機関として奨学院を創設しました。歌人としても古今和歌集ほかに入集しています。百人一首には、

 

立ち別れ いなばの山の 嶺におふる まつとしきかば 今かへりこむ

(=私は別れて因幡の国へ行きますが、あなたが待っていると聞いたならすぐにでも帰ってきます)

 

が収められ、この歌は能「松風」でも象徴的に引用されています。

 

 行平に愛された松風・村雨姉妹の性格は見事に描き分けられています。村雨は冷静で、松を行平と思いこもうとする姉を「あれは松にてこそ候へ」と制止します。それに対して松風の情念はもっと自由に飛翔します。彼女は、「ほとばしる恋情に身を任せて、心は、内から溢れ出る想いに押されるように、外へ外へと向かってゆく。自分の感情に素直な人」[1] なのです。その情念は狂乱に至るほど激しく発散します。

 

 さて、この能には型の見せ所が何か所かあります。まず、姉妹が汐汲み車を引くところです。姉妹の登場から、源氏物語・須磨の巻を踏まえた格調高い詞章が連ねられています。月、波の音、潮風…その美しくも寂しい風景やふたりの汐汲みの辛い境涯を、シテ松風とツレ村雨が連吟し地謡がそれを補いつつ、詩的オブラートに包んで表現します。ふたりは、月明かりの須磨の浜辺で、各々の水桶に夜汐を汲みます。すると水桶の水面には月影が映じています。姉妹は各々の水桶に月が映じているのを喜びます。
 
地謡「さし来る汐を汲み分けて 見れば月こそ桶にあれ」
シテ「これにも月の入りたるや」
地謡「嬉しやこれも月あり」
シテ「月はひとつ」
地謡「影は」
シテ「ふたつ」
地謡「みつ汐の夜の車に月を乗せて 憂しとも思わぬ汐路かなや」
 
 ひとつの月に、ふたつの月影…これは明らかに、行平という一人の男と松風・村雨二人の姉妹とを表象しています。それにしても「夜の車に月を乗せて」とは何と意味深な表現でしょうか。浜辺の夜の詩的な幻想ともとれますが、この男女三人の愛の表象ともとれる表現ではないでしょうか。この場でシテの藪先生の所作は、さりげない仕草ではなく、「ここが汐汲みの場のクライマックスだ」と、思いっきり型を決めた感じで、ただ何気なく場が過ぎてゆくのではなく、そこにドラマとしての盛り上がりが造形されていました。こうした型もやり過ぎると嫌みになりますが、藪先生の所作は降り注ぐ月光を浴びた松風の姿を浮かび上がらせ、見る者に「はっ」と息を呑ませる一瞬を演出していました。

 

松風が舞の中で松を行平と思いこんで抱きしめ、その周りを巡る場面も重要な見せ所です。地謡が上記の行平の歌の冒頭を「立ァち別れ〜」と高音の絶叫とも言うべきトーンで謡って「中ノ舞」に入り、そのあとシテが「因幡の山の…」と続けます。歌の句の間に舞が挿入されているのは、「感情の高まりがそのまま舞という表現になった」[2] からです。そして情念は頂点に達し、「いざ立ち寄りて磯馴(そなれ)松の なつかしや」と松に走り寄り抱きしめるのです。

シテの藪先生は、右、左と袖を返して両袖で松をかき抱きます。その所作はそれまでの「中ノ舞」の優美さとは対照的に激しいもので、見る者に衝撃を与えます。ここでも、ドラマとしての起伏、松風の情念の激しさがはっきりと表現されていました。

 

能「松風」では、いずれの場面でも謡が重要な役割を果たします。この日の演能を拝見して、謡の意味・内容を感得しないとこの曲の本当の良さは味わえないな、と感じ、後で謡本を読みながらこの文章を書いている次第です。謡と言えば、この曲では、姉・松風と妹・村雨が一緒に謡う場面が多いのです。藪先生父子の唱和は親子ゆえ声の質がそろっていて美しく、秋の悲哀を漂わせた謡の名文句が高い調子の声の唱和に乗って見所(観客席)に運ばれてきます。藪先生の謡は見所まで言葉の端々がよく聞こえてきます。その明晰な謡は最後まで衰えることはありません。しかし息子の克徳さんの謡は後の方になるとややくぐもって聞きづらくなっていました。そこにやはり藪先生の一日以上の長があるのでしょう。宝生流の名手・近藤乾之助さん率いる地謡は、緩急を付けたドラマティックなものでした。お囃子陣も、大鼓の亀井広忠さんの激しさ、小鼓の住駒幸英さんの優美さ、笛の杉市和さんのむせぶような独特の調子と、それぞれ個性的で見ていて聞いていて飽きませんでした。

 

その他、僕がこの日とりわけ注意を引かれたのは、松風の面(おもて)です。松風の面は、妹・村雨のそれが若い女の清潔な表情なのとは対照的に、内にこもったようなやや陰りのある表情に見えました。それは行平を忘れることが出来ない鬱屈、過去へのこだわりを示しているかのようでした。しかし、やがて行平への思慕が頂点に達し、舞い狂い、松をかき抱き、松の周りをぐるりと巡った瞬間、面は、情念を噴出させ激しく高ぶった表情を見せたのです。さらに、僧に回向を頼んで去ってゆく最後の場面では、情念を噴出させることで浄化され癒された穏やかな表情に変じていました。力量ある演者の巧みな技に応じて変幻自在に表情を変える面の不思議な力に改めて驚愕した次第です。

 

平成二〇(二〇〇八)年五月二八日

 



[1]  三宅晶子「世阿弥は天才である」草思社(一九九五年)、八四頁

[2]  同上書、八三頁