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「古典派からのメッセージ・2007年〜2008年」目次へ戻る
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秋の能を楽しむ

 

 

 昨日、水道橋の宝生能楽堂で催された宝生流若手シテ方による定例能会「五雲会」へ出かけました。この日は、冒頭の「岩船」以外は、「経政」「三井寺」「紅葉狩」と、秋にちなんだ演目が並べられていました。

 

 最初の「岩船」も解説本によっては秋の曲とありますが、曲中はっきり季節を明示する詩句はないようです。間狂言の「解説」によれば、垂仁天皇の頃、摂津の国(現在の大阪府)住吉の浜に新しく市(いち)を立て、高麗や唐土と貿易を始めて、海外の宝物を買い取るべしとの宣旨がくだります。臣下(ワキ)が勅を奉じて住吉に下ると、沖から岩船がやって来て、海中から龍神(シテ)が現れて八大龍王たちとともに、岩船を引け寄せ、その中から数万の宝物を運び出して君に捧げ、御代を言祝ぎます。岩船というのは、巨大な神の船で、天空をも自由に駆けめぐることができるスーパーカーです。この曲は、龍神が八大龍王たちと共に纜(ともづな)を引いて、岩船を住吉の浦に引き寄せる勇壮な所作が見所で、典型的な祝言曲です。

 

こうした脇能(神を主人公とし、神社の縁起や神威を説き、国の繁栄を祝う曲)は、意外に舞台で演じられることは少ないように思います。たしかに、脇能には、源氏物語を下敷きにした美しい女性の恋の懊悩とか、親子の再会に至る劇的な展開といった心理的或いはストーリー的な面白さは無く、一種の「儀式」のようなものです。でも僕は脇能のシンプルで明朗な味わいが大好きです。脇能は、能の起源のひとつが神事であったことを感じさせ、古代からの人々の営みに自分が連なる感覚を覚醒させてくれるからです。

 

 その中でも「岩船」は、現代風に言えば、市場経済と国際貿易による国家繁栄を言祝ぐ曲で、次のような詞章にそれがよく表れています:−

 

「かかる時しも生まれ来て 民ゆたかなる楽しみを何に例へん秋津洲や 高麗(こま)唐土(もろこし)も隔て無き 寶の市に出でうよ 寶の市に出でうよ

(=たまたまこの御代に生まれ来て、豊かな暮らしを楽しめるのを何に例えればよいのだろう。日本ばかりか朝鮮や支那の宝も集まる宝の市場に出かけよう)」

 

まるで現代日本の私たちにも「開明と進取の精神で二一世紀を生きよ」と神々が促しているかのようです。この日のシテ(龍神)を演じた辰巳大二郎さんは、若々しく力強い舞姿を見せてくれましたが、やや力みがあったようにも感じられました。力強さの中にも柔らかさと余裕がほしいところです。

 

 さて、あと三曲で秋の叙情を味わってみましょう。まず、平家物語を題材にした修羅能「経政」です。琵琶の名手だった若武者・平経政は、平家都落ちの際、仁和寺の門跡(法親王)から下賜されていた青山という琵琶の名器を返納するために、甲冑姿も凛々しく仁和寺へ立ち寄り、法親王と別れを惜しんだ後、都を落ちてゆきます。経政は一ノ谷の合戦で討ち死にを遂げます。能「経政」は、悲報を聞いた法親王が、行慶僧都(ワキ)に命じて、青山を仏前に据えて管弦講を以って経政を弔う場面を描きます。行慶が青山を掻き鳴らしていると、そこに経政の亡霊(シテ)が幽かな幻影のような姿で現れ、切々とした琵琶の響きに惹かれて、浮き立つように舞い遊びます。経政はかつての夜遊の舞楽を追懐して、白楽天の白氏文集を踏まえたこんな美しい詞章を謡います:−

 

「第一、第二のは 索々として秋の風 松をって疎韻落つ 第三、第四の紘は 冷々として夜の鶴の 子を思って籠の中に鳴く 鶏も心して 夜遊の別れとどめよ

(=『第一、第二の弦は、松に吹く秋風のように、調子の低い絶え入るような音を立て、第三、第四の弦は、例えば籠の中の鶴が夜中に我が子を思って鳴くような、もの寂しい音を出す』という詩句そのままの風情だ。鶏よ、どうかあまり早く鳴かないで、この夜遊を終わらせないでおくれ)」

 

しかし経政はやはり戦で亡くなった修羅道の亡者です。やがてその身の内に修羅の苦患が沸き起こり、また暗黒の霊界へ消えてゆくのでした。「経政」は修羅能ではありますが、おどろおどろしたところは少なく、叙情的な小品として、若手や女流の能楽師がよく演じる演目です。この日は、金沢で江戸時代以来続く宝生流能楽師の家柄である佐野家の若手、佐野弘宣さんがシテを務めました。初々しい謡や所作がいかにも経政にふさわしいのですが、まだ演じることに心をとられて詞章の意味が体に染み渡っていない感じでした。

 

次に演じられた能「三井寺」は、行方が知れなくなった我が子を尋ねて近江の三井寺(園城寺)に出向く母の話ですが、その日がまさに旧暦八月十五日、仲秋の名月の日なのです。まさに秋を代表する曲のひとつです。子を失った悲しみで「もの狂い」の状態になった母(シテ)は、舞い謡う中で、琵琶湖の美しい景色を愛で、名月に親しみ、三井寺の鐘の音が響くのを聞き、自身も鐘楼に登って鐘をつきます。そこに漢詩を踏まえたこんな美しい詞章が出てきます:−

 

「月落ち、鳥鳴いて 霜天に満ちてすさまじく 江村の漁火もほのかに半夜の鐘の響きは 客の船にや 通ふらん蓬窓雨滴りて 馴れし路の楫枕 うき寝ぞかはるこの海は 浪風も靜かにて 秋の夜すがら月澄む 三井寺の鐘ぞさやけき

(=『月は西に傾き、鳥は鳴いて霜が一面に降り、漁り火もほのかに夜半の鐘の音は客船に響いて来る』という詩のように、苫を覆った船窓に落ちる雨の雫は馴れた者にも船旅をはかなくさせるという。しかし琵琶湖は浪も穏やかで、秋の夜中、月は澄み渡り、三井寺の鐘の音は冴え渡っている)」

 

 「三井寺」では、この詞章もそうですが、舞台に出されるミニチュアの鐘楼など、鐘をモチーフにしています。曲の最後に、三井寺に預けられていた少年が、「もの狂い」の女を自分の母だと気づいて、母子は再会します。少年が母に気づく場面で、この日、まだ小学校低学年と思しき男の子が、「自分が人商人にさらわれて失踪し、今たまたまこの三井寺にいたところを、母上が自分を尋ねてこのような『もの狂い』の体(てい)になってしまわれたとは…」というような意味の子方の詞章を、一所懸命に節付けをしながら謡う姿には、健気さと無垢の哀しさがあふれかえり、見所(客席)がしんと静まり、緊張が走るのが感じられました。僕も目に涙があふれそうになりました。シテの母を演じられた今井泰行さんも、感情が高揚して思わず言葉に詰まってしまう場面もありました。母の「もの狂い」の舞が延々と続いた後だけに(この間、見所は、美しい詞章と舞による秋の歌舞の世界に引き込まれています)、少年の無垢の謡によって、引き裂かれた母子の悲しみと再会の喜びに転じる急展開を突きつけられ、見所は衝撃を受けるのでしょう。よくできた曲だと思います。

 

さて、この日の最後に演じられた「紅葉狩」は、上臈の紅葉狩りを装った鬼女(シテ)たちに、一時はたぶらかされて酒に酔って眠ってしまった平維茂(これもち)(ワキ)が、八幡(やわた)八幡宮の神の助けでついに鬼女を征伐すると言うお話です。能としては演劇性の強い、良質の娯楽作品で、こういう曲を能会の最後に持ってくることによって、私たちは爽快な気分で能楽堂を後にすることができるというわけです。「紅葉狩」にも、和歌や漢詩を踏まえた美しい詞章が随所に出てきますが、冒頭の上臈の女性たち(実は鬼女たち)が謡う謡を味わってみましょう:−

 

「げにや長らへて憂き世に住むと今ははや 誰白雲の八重葎(やえむぐら) 茂れる宿の寂しきに 人こそ見えね秋の来て 庭の白菊うつろふ色も 憂き身の類と哀れなり

(=生き長らえてこの世に住んでいるものの、今は私のことなど誰一人として知る者もなく、雑草が生い茂った寂しい家に訪ねてくる人もいない。いつの間にか秋が来て、庭の白菊が色あせてゆくのも、辛い境遇の我が身に似て哀れである)」 

 

この一節には、

 

「八重葎 茂れる宿の 寂しきに 人こそ見えね 秋は来にけり」(拾遺集、恵慶法師)

 

「月ならで 移ろふ色も 見えぬかな 霜より先の庭の白菊」(続後拾遺、藤原為子)

 

というふたつの和歌が踏まえられています。錦秋に悲哀を感じる鬼女のはかない境遇を巧みに描いています。前半は、こうしたしっとりした情感が漂いますが、後半は一転して、本来の姿を現した鬼女と平維茂との格闘の場面となります。シテは美女と鬼女とを演じ分けなければなりません。この日のシテ、野月聡さんは、なかなか安定感があり、うまく両者を演じていたように思います。しかしツレの一人が脚がもつれて舞台で転倒したのはいただけません。プロならしっかりと修養してほしいものです。

 

平成二十(二〇〇八)年九月二一日