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「古典派からのメッセージ・2007年〜2008年」目次へ戻る
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悲観論を排す

 

 

「日本経済新聞」六月一七日付の「一目均衡」欄において、西條都夫編集委員が日本産業の隠れた力をいくつか紹介している。@化学産業。例えば、クラレの「ポバール」という素材は液晶パネルの特殊フィルムに使われ、世界シェアの八割を占める。クラレだけではない。化学産業の「工業統計表」における付加価値額は十七兆円と、自動車や電機を上回る最大セクターである。化学産業にはトヨタ自動車やソニーのようなスタープレイヤーはおらず、株式の時価総額も大きいわけではないが、中規模の優良メーカーが手堅く利益を挙げている。A建機。コマツや日立建機が新興国のインフラ需要に支えられて好調だ。耐久性に優れた日本製の建機への需要は強い。B電池。全体的には冴えない電機分野でも、電池は期待できる。クルマの脱ガソリンが加速し二〇三〇年頃に電気自動車の時代が来れば、日本の電池の優れた性能がモノをいう。

 

日本の上場企業の今期の連結経常利益は全体では減益見通しだが、これは自動車と鉄鋼の落ち込みによるところが大きい。企業数で見れば、上場企業の六割程度が今期も増益を予想している。世界的なマクロ経済環境が悪くなれば、市場や社会の心理は、「すべてダメ」という悲観論やネガティブ・バイアスに陥りやすいが、日本企業の実態はそれほどヤワではない、と西條氏は結んでいる。

 

同日付の同紙市場面では、東京証券取引所の株価が他国株式市場と比較して堅調に推移している(下げ幅が小さい)ことが報道されている。その背景にあるのが、西條氏が紹介しているような企業業績の堅調さであり、物価上昇率の相対的な小ささである。世界的にインフレ懸念が広がる中、日本の消費者物価指数の伸び率は直近でも一%台と、三〜四%台の欧米と比べて小さい。これまでデフレ的だとして弱点と指摘されてきた物価上昇の低さが一転して日本経済の強みに転じている。製造業の高い生産性と技術力が強みである産業構造や低物価体質は、インフレとマネーの狂乱から最も遠い経済のあり方である。私たちは決して悲観することはない。

 

日本のデフレが悪であるとの「通説」に対しては、実は以前から様々な反論があった。例えば、榊原英資氏はこう述べる:−

 

“日本はデフレではない。物価が安定しているだけ。その理由は、まず、賃金が上がっていないこと。そして日本の製造業が厳しい競争状態に置かれ、価格低下を余儀なくされているからです。” [1]

 

 こうした最近の状況を踏まえ、我が国政府がとるべき政策は何か。次のような趣旨の示唆に富むコメントがある。

 

“今年の経済財政諮問会議の提出した「骨太の方針」では、「迎え入れる国際化」が必要であるとして、包括的な対外開放政策が盛り込まれている。しかし、米国のサブプライム問題に端を発した金融システム不安やドルの信認低下、世界的なマネーの流れの変化、資源や食糧価格の高騰など、急速に構造変化している世界経済の中で、米英の金融立国モデル(ウィンブルドン・モデル)を今だに珍重しているこの「骨太の方針」は、周回遅れではないか。

 

福田政権は既に「環境力」という素晴らしいキーワードを持っている。何故これを活かさないのか。資源を保たざる国として「環境立国」や「低炭素立国」を国民と世界に宣言し、この宣言を梃子に国内の構造改革を立て直し、資源配分を大胆に見直す。代替エネルギーや省エネ技術の開発を加速し、さらに世界に貢献してゆく方策も打ち出すことこそ日本に相応しく、日本にしかできない「二一世紀のグローバル戦略」である。” [2]

 

サブプライムローン問題に端を発した住宅バブル破裂の影響で、アメリカ経済の不調が長期化することが懸念されているが、これこそ製造業を捨てて金融立国に転じた国の危うさである。英米の金融立国モデルないしウィンブルドン・モデルの失敗からこそ私たちは学ばなければならない。技術力を駆使した「環境力」に徹すること、すなわち環境立国こそが日本の歩むべき道であると私も確信する。私たちは決して悲観することはない。

 

アメリカ経済不調の長期化によって、同国の消費市場に大きく依存している日本産業にも打撃が及ぶことを懸念して悲観的になる向きもある。そうした腹の据わらない臆病な方々には、金融現象がアブクであると喝破した下村治の腹の据わったコメントを味わっていただきたい。その主張の概要は以下の通り。

 

“下村氏は、最終的にはアメリカはモラトリアム(支払猶予、借金の棒引き)による解決を図るのではないか、と極めて冷徹に予想する。曰く「日本がアメリカに貸しているカネは返って来ない」「日本は大変な資本輸出国になったなどと言われるが、その資本たるや、蜃気楼に過ぎない」等々。これほど今日の日本の金融資産の危うさを端的に述べた言葉はないだろう。

 

こうした事態が現実化した時の日本経済への影響についても、氏は冷静に想定しておられる。そういう場合、金融機関が真っ先に大きな影響を受けるが、一般国民や企業には直接即刻の影響はそれほどない。「何しろ問題は、経済の実体ではなくてカネだけの話である。このアブクのようなものの流通が一時的に混乱するにすぎない。」[3]

 

日本の経済、産業の基本的な強みを維持・強化し、その裏側にある弱みを自覚し克服する努力を怠らない限り、アメリカ市場に依存しなくとも、日本の製品やサービスを購入してくれる市場はいくらでも拡大するだろう。私たちは決して悲観することはない。

 

平成二〇(二〇〇八)年七月三〇日

 



[1] 「選択」二〇〇八年一月号

[2] 「日本経済新聞」二〇〇八年七月一一日の「大機小機」欄における“追分”氏

[3]  拙論「下村治の慧眼」より