ふたりのフランス人の日本観察記(第一回)
ふたりのフランス人の日本観察記三編を興味深く読んだ。ひとつは、ニルス・プラネルの「僕が猪瀬事務所で見たニッポン大転換」。著者のプラネルは一九八一年生まれの若いフランス人。フランス国立東洋言語文化院およびパリ政治学院を卒業。二〇〇五年から二〇〇七年まで来日し猪瀬直樹事務所に勤務した。その後フランスへ帰り、フリーのジャーナリストとしてフランスのメディアに論説や記事を発表。二〇〇七年一二月から世界銀行に勤務しているという。
この本は、猪瀬直樹事務所スタッフとして働いた経験をネタに、猪瀬氏が直接携わった道路公団改革をはじめとする小泉改革に揺れる日本社会の状況を描いたレポートである。さすがフランスの秀才だけあって、日本政治について知るべき情報、見るべきポイントは押さえている。猪瀬氏や竹中平蔵一派の影響を受けて、小泉「改革」をやや過大評価しているきらいはあるが、単なる「改革」礼賛ではなく、政治の権力的側面にも目は行き届いている。フランスの早熟な秀才の抜け目ない「日本レポート」であり、政治学専攻の学生の宿題としては「優」を与えていい出来栄えだ。
彼はフランス人らしい視点から日本に厳しい見方もする。ドゴールを生んだ国の民である彼は、日本がアメリカに従属し国際社会で積極的な役割を果たそうとしないことに軽侮の念を隠さない。曰く:−
「単独で日本を占領したアメリカは、半ば奇跡と恐怖が入り交じったような統治政策を展開し、そのおかげで日本はのち経済大国となったが、同時にアイデンティティの無い、国際社会の舞台で責任ある態度の取れない国になってしまった。外交の不在、軍隊の不在、そして自己喪失。経済はアジアを基盤としながら、防衛はアメリカの傘の中――そんな私はいったい誰?日本はこうして国の運命も記憶も奪われた状態に置かれ、アメリカ、つまり文化に対する繊細な感覚を持たない国とへその緒でつながったまま、これを切るすべを知らずにここまで来た。ワシントンのおかげで、或いはそのせいで、日本はいわば世界から隔離された状態で生きてきたのだ。」[1]
フランスは、昔から、日本の伝統文化や現代文化に深い愛着をもつ知識人を生んできたが、プラネル君もそうしたフランス知識人の感性を共有している。彼は日本の伝統文化に敬意を抱くと同時に、日本の現代文化にも世界的な可能性を感じている。彼は、映画監督の中野裕之やアイヌ・ミュージシャンのOKIや奄美の島歌歌いの朝崎郁恵やDJの藤原ヒロシや三味線奏者の上妻宏光といった日本国内ではあまり知られていない名前を挙げながら、多くのデザイナー、ダンサー、音楽家らが、職人であることに一身を捧げ、人知れず「書き、彫り、裁断し、描き、撮影し、踊り、着想を練っている」[2] ことに現代日本の文化的可能性を感じている。プラネル君は、それにもかかわらず、日本人一般の関心があまりに「経済」に偏しており、自国の文化の素晴らしさに気づいていない、と、次のように厳しく批判する。
「日本は商業の場となり、この島のどこにも、ほんの一平方メートルたりとも利益と無関係の場所など無く、(中略)地下鉄の中でサラリーマンが読んでいるのは経済マニュアルかアメリカ仕込みの『一分で金持ちになるには』『理想の上司になるには』といった駄本ばかり。」[3]
「そんな状態だから、若者たちもこの国で何が起きているのかよくわかっていない。そもそも自分の国の歴史や豊かな伝統を知らない。当然のことながら、広い世界の中で日本の置かれた状況もわかっていないし、今わずかに残っている文化もやがて経済の波に呑まれてしまい、日本の社会から機知に富んだ人がいなくなってしまうかもしれないといった危機感とも縁が無い。」[4]
「この五〇年間で、日本は――日本だけとは言えないが――スーパーマーケット、ディズニーランド、ポストモダニズムの殿堂と化してしまった。多様性を画一性が押しつぶしてゆく恐ろしい戦いが繰り広げられてきた。」[5]
私たち日本人は、確かに、政治的にも文化的にもあまりにアメリカにばかり影響され続けてきた。フランス人(或いはもう少し広げてヨーロッパの人々)が抱いている、世界の文化の多様性が失われることへの危機意識を共有し、日欧の戦略的コミュニケーションをもっと密にしてゆくべきだ。若いフランス人の「説教」は、日本人にとってなかなか耳の痛い、しかし、ありがたいメッセージであった。
平成二〇(二〇〇八)年八月一五日
(続く)