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「古典派からのメッセージ・2007年〜2008年」目次へ戻る
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ふたりのフランス人の日本観察記(第二回)

 

 

 さて、現代フランス人のニルス・プラネルに続いて、もうひとり、日本に深い愛着を抱いたフランス人を紹介しよう。プラネルより百年以上前に生を承けたポール・クローデル(一八六八年〜一九五五年)である。クローデルは、二十世紀フランス文学を代表する詩人、劇作家であり、また、日本をはじめ世界各地に在勤した外交官でもある。姉のカミーユ・クローデルは、彫刻家ロダンの弟子にして愛人だが、後年狂人となり精神病院に収容される悲劇の生涯を過ごした。クローデルが日本に興味を持ったのは、姉カミーユの日本美術への傾倒の影響であると言われる。ポール・クローデルの文学作品には「黄金の頭」「繻子の鞄」「詩法」などがあり、「火刑台上のジャンヌ・ダルク」はオネゲルが曲を付けて歌劇になっている。僕が読んだのは、「朝日の中の黒い鳥」と「孤独な帝国−日本の一九二〇年代−」の二冊である。

 

まず、「朝日の中の黒い鳥」は、外交官として滞在した日本についての文明論であり、それは詩的な随筆のスタイルをとる。クローデルは、来日するずっと以前から姉カミーユの影響もあって日本文化に興味を持っていたが、外交官として日本に滞在した間に、日本各地を旅行し、幅広い層の日本人たちと親しく接触した。そして、会話や読書や美術鑑賞や演劇鑑賞などの機会から日本文化と日本人をつかみ取っていた。彼は心からの愛情とともに冷静な視線で日本文明を語っている。それは、文化人類学者・レヴィ=ストロースの著作などからも感じられる、日本文明の良き理解者としての鋭敏な感性を持ったフランス人の視線である。ちなみに題名の「朝日の中の」は「日出づる処」の日本を指し、「黒い鳥」はクローデルと発音が近いのでクローデル自身を指すという。「朝日の中の黒い鳥」とは、叙景の中にいわば「日本の中の私」といった意味を重ねているのであろうか。

 

 古代からの近代までの日本文学に対する彼の知識と感性は正確である。古事記や日本書紀について、

 

「雑多な要素が混じり合って出来た叙事詩です。民間信仰や伝説の集大成であり、素朴で混沌とした宇宙開闢論の中にたぶん幾らかの歴史的事実の断片が含まれている。これほど明瞭にオセアニア的なものは無いし、道徳的で衒学的なシナ人の精神と異質なものはありません。」[6]

 

と述べ、日本文明の混交性やシナ文明との違いを正確に捉えている。

 

 清少納言はクローデルのお気に入りだったらしく、「枕草子」から多くを引用・解説し、彼女をサッフォーやコレットと相並ぶにふさわしいと称賛している。鴨長明や吉田兼好に続けて、クローデルは「日本文学の中で最も魅力的で最もよく実践される」[7] 詩について、つまり短歌や俳句について述べる。彼は、美術や庭園と同様に、短歌や俳句の「余白」「余韻」がいかに重要な役割を果たしているかを的確に捉えていた。曰く:−

 

「われわれヨーロッパ人の観念とは、すべてを言うこと、すべてを表現することです。枠の中はいっぱいに満たされており、それを満たしている様々な事物の間に打ちたてられる秩序、線や色彩の構成から美というものが生まれます。これに対して、日本では書であれデッサンであれ、一枚の頁の中でもっとも重要な役割は常に余白の部分に委ねられています。あの描かれた小鳥、木の枝、魚などはある不在の場に挿絵を添え、この場の存在を示す役割しか果たしていません。想像力の働きがその場に喜びを見出すのです。…(中略)…(日本の詩は、)われわれヨーロッパの詩や小説がまるで店がはねる時刻の大都市のようにどっと吐き出す観念やイメージの流出とは、いささかも類似するところはありません。それは人影の無い池の水面に触れた時のように広大な同心円の波紋を次々に拡げてゆくものであり、感動の種子であり、音楽家が指でひとつの音を振動させる弦であり、このひとつの音が、少しずつ心の中、思念の中に浸透してゆくのです。」[8] 

 

クローデルは「朝日の中の黒い鳥」で、能楽について大きなスペースを割いている。彼は、能や歌舞伎や文楽を熱心に鑑賞したが、とりわけ能は最も彼の興味を惹いたジャンルだった。本著の中でも「翁」「羽衣」「道成寺」「楊貴妃」「隅田川」「芦刈」といった曲目が言及されている。鑑賞しただけではなく、彼は、能から霊感を得て、「女とその影」という舞踊演劇作品を創作してもいる。彼は日本語をほとんど解さなかったが、能に関する考察はなかなか鋭く、特に、リアリズムを放棄した能の象徴的表現に鋭敏に反応している。良い意味のフランス的饒舌で語られる次のような考察からは、能の象徴的な表現方法がいかにクローデルの心に鮮烈なイメージを喚起し、深遠な感興を呼び起こしたかが伺える。

 

「日本の絵画や詩が風景とか生き物或いは感情などの本質のみを示そうとするのと同様に、能もドラマというよりはひとつの劇的情況(シチュアシオン・ドラマティク)であり、一種の半ば不動の記念碑として建立され、観客の瞑想に委ねられ、合唱隊によって注釈を付けられるものなのです。それぞれの型、声の抑揚は、最も厳密に定められた祭式に則って取り決められています。それは、人間の感情の一種の儀式的な表現であり、また、注意力の訓練、身体の動きの鍛錬の場でもあります。その動きの一つ一つが完全なる意味を展開するために、スローモーションとして我々に提示されるのです。」[9]

 

「あらゆる型は一種の催眠術的な取り決めによって定められている。それは、彼方にある音楽、我々の苦悩であり、ときおり突き上げてくる感情に中断されながら尽きることなく続く上げ潮とも言うべきあの音楽、或いは、我々の記憶であるあの合唱と調和しているものである。演者は大地の上に支えを持ってはいない。その足の歩みは重力に抗する努力である。彼は光り輝く床の表面を滑る。持ち上げられては再び降ろされる足の指のみが、彼の歩みの一つ一つを明らかにする。それぞれの型は、壮大なる装束の重みと襞によって、死を乗り越えなければならないかのようであり、それは死者の情念を永遠の中でゆっくり写し取るかのようである。それは亡霊たちの国から連れ戻されて、瞑想のまなざしの中で我々に描き出される人生そのものなのである。我々は己れの欲望や苦悩、狂気のこの苦い記念物の中で、我々自身の前に立たされることになる。」[10]

 

 「朝日の中の黒い鳥」では、大政奉還や明治天皇の京都の桃山陵墓や大正天皇の葬儀を通じて、日本において天皇が果たしてきた文化的役割について考察したくだりも印象的である。彼は、天皇が政治的権力の担い手としてではなく、日本における宗教生活上の司祭であり、文化の継承者として存続してきたことに深い関心を抱いていたようである。

 

クローデルが駐日大使の任を終えて帰国した後、日本は中国大陸での戦争の拡大から太平洋戦争へと進む。彼は日本が敗戦でがれきの山と化したことに深い悲しみを覚え、日本の将来を案じていた。本著の最後に、彼は、「私がかつて長く暮らし強く愛したあの古い日本に向かって」[11] 惜別の言葉を述べている。クローデルはその後日本が経済成長に向かう直前まで生きていたが、その時代の日本について記してはいない。

 

 

平成二〇(二〇〇八)年八月一五日
(続く)

 



[6] ポール・クローデル(内藤高訳)「朝日の中の黒い鳥」(講談社学術文庫、一九八八年)、p八七

[7] 同上書、p九七

[8] 同上書、p九九〜一〇〇

[9] 同上書、p一〇五〜一〇六

[10] 同上書、p一二四〜一二五

[11] 同上書、p二二八