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「古典派からのメッセージ・2007年〜2008年」目次へ戻る
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ふたりのフランス人の日本観察記(第三回)

 

 

もう一冊の「孤独な帝国−日本の一九二〇年代−」は、クローデルが駐日大使時代にフランス外務大臣に書き送った書簡集である。クローデルは、大正一〇(一九二一)年から昭和二(一九二七)年まで大使として日本に滞在した。前任者の二年半、その前の半年という在任期間と比べてはるかに長い在任期間であり、彼がこの後に駐米大使に抜擢されたことを考えれば、クローデルは駐日大使としてフランス本国から高く評価されたのだろう。

 

まずは、この時代(一九二〇年代)の年表を見てみよう。大正八(一九一九)年のパリ講和会議で第一次大戦が終結し、翌年、日本は国際連盟に常任理事国として加盟する。クローデルが大使として来日した大正一〇(一九二一)年にはワシントン軍縮会議開催、同年に、二〇年間に亘り日本外交の梃子の役割を果たした日英同盟が破棄された。大戦中の好景気の反動もあり、経済は恐慌状態にあったところ、大正一二(一九二三)年に関東大震災が起こり、日本は大きなダメージを蒙る。大正一五(一九二六)年に大正天皇崩御、昭和天皇即位。翌年三月から五月にかけて金融恐慌が発生。クローデルはこの年に離日している。金融恐慌から立ち直る間もなく、昭和四(一九二九)年にはアメリカに端を発した世界大恐慌に巻き込まれ、昭和六(一九三一)年の満州事変、昭和七(一九三二)年の五・一五事件と戦争の時代へ入ってゆく。クローデル在日の一九二〇年代、政治の世界では、原敬、高橋是清と二代の政友会内閣の後、非選挙の軍人または官僚の内閣が二年ほど続いたが、大正一三(一九二四)年の加藤高明内閣成立から昭和七(一九三二)年の犬養毅首相暗殺までは、衆議院の多数党が内閣を担う仕組みが機能し、戦前の民主政治の成熟期でもあった。

 

クローデルの外交書簡は、日本の政治・経済・外交の現状についての本国宛て報告である。彼はその際、極力、日本の歴史や慣習を説明し、フランスの日本理解を深める努力をしている。彼は外交官としての自らの使命をはっきり自覚して行動していた。それは、日本を米英やドイツから引き離し、フランスに結びつけることであった。日仏は第一次大戦ではドイツを共通の敵として戦った。その後の海軍軍縮交渉や中国問題においても両国の利害は一致し、また、ポーランド問題や戦債処理について公正な立場をとった日本に、一九二〇年代のフランスは全体として好意的であった。

 

彼は在日中に、日仏会館を開設し、両国間貿易とりわけ仏領インドシナと日本との貿易振興に意を用い、仏領インドシナのメルラン総督の来日を実現させている。また日仏の外交・軍事的な接近にも注力し、上原勇作元帥がジョッフル元帥に示した日仏協調策に基づき、フランスからの航空機輸出に力を入れている。彼は、日本国中いたるところでフランスを宣伝するために挨拶や講演に勤しみ、進んで炭坑に入りハンセン病の療養所を訪れてもいる。彼は詩人・文学者であると同時に、外交官として「行動家」であり、良き「指導者」でもあった。関東大震災の時にはフランス大使館の施設も瓦解した。彼は冷静な判断で窮地を逃れ、生き残った部下と共に横浜まで徒歩でたどり着き、船上から救援活動の指揮を執った。クローデルの外交書簡には、こうした多彩な事跡が生き生きと描かれている。

 

 しかし書簡集を読んで僕にとって最も印象的だったのは、彼の「日本観察」の鋭敏さ、的確さである。彼の日本に関する報告は、政治、外交、経済だけではなく様々な社会事象、文化、教育など多岐にわたっているが、今日の私たちにとっても切実な問題提起であり重要な教訓を含んでいる。そうしたクローデルの多岐の指摘を三つのカテゴリーにまとめて紹介、コメントしたい。第一に、クローデルは、近代日本が置かれた厳しい前提条件(資源が無いこと、貧しいこと、背伸びして近代化をしていること)について的確に観察している。

 

「日本は、人口過剰で、経済活動が活発で、物質文明が発達した国ではありますが、必要な原料がすべて欠けている国なのです。日本には羊毛も綿も鉄も無く、充分な量の石炭もありません。」(一九二一年一月二八日付書簡より)[12]

 

「(神戸の鐘淵紡績の綿紡績工場で若い女性たちが寄宿舎に寝泊まりして昼夜二交代で働いている姿を見学して)日本における生産コストとヨーロッパにおける生産コストの差は、今でさえ小さいのに、夜間労働をやめればその差はほとんど無くなってしまいますから、資源の無いこの国が極東の市場で競合相手の国々に対抗して戦ってゆくことができるだろうかと人々は自問自答しています。(中略)産業の分野であれ、教育の分野であれ、日本は一所懸命やっているのですが、うまくいっていません。恐ろしいほどの犠牲を払い、自らの血肉を削って、かろうじて西欧との僅差を保つことができているのです。夏の猛烈に暑い夜を徹して、年端もゆかない娘たちがまるで夢遊病者のようにミュール精紡機の動きに合わせ、休むことなく前に行ったり後ろに戻ったりして体を動かすのを見たフランス人の私は、深い同情を禁じ得ませんでした。」(一九二三年一二月一七日付書簡より)[13]

 

「日本においては、士官、下士官は過剰気味ですが、一方、装備の点では実に遅れています(一例を挙げれば、日本の軍隊は防毒マスクを保有しておらず、毒ガス研究には着手してさえいません)。(中略)見かけに反し『情けない』とは言わないまでも、かなり劣っているこの国の軍備の現状を我々が正しく認識するならば、日本が野心的意図を抱いているといった懸念は雲散霧消するでしょう。一方、日本の財政状態、政治情勢は、権威もなければ将来の展望も影響力も持たない人々からなる内閣が絶えず替わることからもわかりますが、あまり芳しいものではありません。」(一九二四年九月二九日付書簡より)[14]

 

第二に、彼は、次第に孤立化してゆかざるを得なかった日本を取り巻く厳しい国際環境について、折に触れて本国に報告している。日英同盟廃棄以来、アジアでは極東に英米ブロックが形成され、日本はそこから排除されつつあった。また、何とか権益を確保し管理し折り合おうとしていた中国からも、欧米列国に対しては見られないような排除の圧力を日本は受けていた。さらに、アメリカにおける反日感情が高まり、一九二四年に排日移民法が成立するなど、対米関係も困難を増していた。

 

「日本の愛国者たちにとってもう一つの不満の種は、シンガポールにイギリス海軍の大規模な軍港が作られるという計画です。イギリス議会において継続中の議論から、この措置は日本に対抗してとられるものだということははっきりしており、極東で戦争が起こった場合、勝敗の行方が不透明なフィリピン防衛において、アメリカを支援することを目的としているのです。」(一九二三年六月二一日付書簡より)[15]

 

「外国嫌いの中国の愛国主義者たちが、中国在住の外国人の中で、最も憎み、暴力沙汰を起こしている相手は日本人なのです。彼らは、イギリスが九龍や威海衛において我が物とした土地については沈黙しています。一貫して日本に、そして日本が遼東半島に留まっていることに対して、彼らは激しい怒りを燃やしています。」(一九二三年六月二一日付書簡より)[16]

<コメント>中国人の日本と欧米への態度の使い分けは現在でも同じある。対中外交を考える場合、中国への過度な期待を抱かないように、戦前・戦後を通じて変わらないこの事実をよく認識することが必要である。

 

「古い日英同盟がイギリス側から廃棄されたこと、極東で英米ブロックが構築されていること、これについてはシンガポール軍港化計画が提案されたことで様相がはっきりしたのですが、こうしたことが日本を大いに困惑させ、大きな不安に陥らせています。(中略)日本は、恐ろしく孤立し、或いは仲間はずれになってしまい、立場を失うと感じています。現在の世界情勢は東半球全体に影響を及ぼしており、その中にあって日本は追放され、いわばロビンソン・クルーソーと化しているのです。日本を取り巻く英米の世界が疑惑を深め、中国は出来る限り小さな分け前しか日本に渡すまいと決めているだけに、日本の孤立は一層危険なものとなっています。」(一九二三年一〇月二五日付書簡より)[17]

<コメント>日本にとって「腹を分かち合える友人」が世界中に存在しない現実は、現在でも同じである。これは極東の独自文明たる日本の宿命と観じるべきなのだろう。しかし、だからこそ、分野分野で「親友」「親密国」を作る努力が重要になる。

 

「日本人は大挙してカリフォルニアに移住しました。やがて彼らはアメリカ経済にとって重要な地位を占めるに至り、それがかの地の政治家たちの憂慮するところとなりました。中国人が街なかでちょっとした小商いに従事していたのに対し、日本人は農業に専念しました。サクラメント市近郊或いはインペリアル・ヴァレーに居住し、カリフォルニアを米の生産地に作りかえました(昨年カリフォルニアは日本に米を八万トン輸出しています)。果物や野菜の生産でも多大な貢献をしました。日本人の中には財を成した者も現れ、その一人は『ジャガイモ王』というニックネームまで冠されたようです。(中略)白色人種が絶対的な優越感を持ち、根強い特権意識を持っているアメリカのような国においては、妬みの感情を抱く日本人の敵が、自分の言い分に耳を傾けさせ、これに従わせ、議員をも支配するのに、さほど時間はかからないでしょう。【筆者注:日本人の移民活動は、紳士協定に基づいた日本の自主規制と州レベルでの排斥活動の間で微妙なバランスを保ちつつ行われていたが、一九二四年には実質的に日本人移民を全面禁止する内容のいわゆる排日移民法が米国連邦議会で成立した。】日本に対してアメリカ人が感じる友好的な感情は、軽蔑の混ざった寛容さなのであり、これとは全く逆に、すべてのアングロサクソンの心の中に、機会さえあれば爆発しかねない激しい感情があるとすれば、それは皮膚の色に対する偏見なのです。」(一九二四年四月二三日付書簡より)[18]

<コメント>今日の私たちも「アメリカの善意」を無邪気に信じてはいけないのはもちろんだが、逆にその偽善性を嫌う余り、反米に凝り固まるのも大人げない。かつてのソ連、現在の中国の自由なき全体主義との比較では、アメリカの国柄ははるかにましである。冷戦真っ盛りに、「ソ連をとるのか米国をとるのかと問われたら迷い無く米国をとる」と言い切った福田恆存の「政治的大人の選択」を想起すべきだろう。

 

「忘れてはならないことは、日本にとってアメリカは主要輸出国である(日本の全輸出量の四六%を占めています)と同時に、日本の輸入の主な供給国であること(一九二二年における輸入の三二%を占めています)、アメリカは日本の絹の全量を輸入し、大量の綿と加工鉄鋼を日本に供給しているのです。私がはっきりと感じた驚くべき事実、最も印象的な事実があります。それは、日本に対するアメリカの経済的、文化的支配の深化です。日本はますます『新世界の大きな共和国』の配下となりつつあります。今やそれ以外の世界との均衡は崩れています。国が買わねばならない主要な消費物資、売らねばならない主要な消費物資について、ある国がこれほどまでに一つの国に依存するとき、その国が政治的な独立を保つのは困難であり、また精神的自主性を持ち続けることもできません。日本には、アメリカの広告が、宗教、習慣、教育、建築が、またアメリカ式の生き方が、徐々に侵入してきています。日本の都市はますます極西の都市に似てきています。そして若者たちは、典型的なヤンキーの生き方を外聞もなく真似ています。」(一九二四年四月二三日付書簡より)[19]

<コメント>米英に対して独自性を発揮してきたフランスらしい「安全保障の基本」を述べている。日本の対米依存は今日さらに「深化」している。「それ以外の世界との均衡」を少しでも取り戻すべく、私たちは長期的、計画的に、我慢強く努力しなければならない。日本にとって重要な教訓を含んだ一節である。

 

さて、第三に、クローデルは、世界の激動に対処するには日本の政治機構や意思決定過程があまりにも脆弱であると見ていた。

 

「今日、日本にやってきた人間がひどく驚くことは、国全体を動かしている主要なメカニズムがどこで機能しているのか、そして(中略)精力的に一貫して日本を導いている中心人物がどこにいるのか、そして何を考えているのかを探ろうとしても、さっぱりなにも見えてこないことです。(中略)国会は伝統も権威も見識も計画も持たず、国民の深層の声もしっかりした意思も反映されていません。政府は通常は国会の意思を反映するのですが、この国の政府は国会に対して何らかの責任を担っているとは感じていません。(中略)故原敬首相は、初めてヨーロッパ風の議会制度の確立のために働き、ある程度の成功を収めた人ですが、この人の逝去以来、この国の政府はまるで天と地の間で宙ぶらりんになったマホメットの棺のようなものです。或いは、立派な装飾の衝立に仕切られていて、訪問客の目には主要な役者の行き来が見えない客間のようなものだとも言えます。」(一九二二年二月二八日付書簡より)[20] 

<コメント>首相の指導力が発揮しにくい政治構造は現代にも残る。冷戦後の戦略を立案し実践しなければならない現在、「大正デモクラシー以来の伝統」(ジェラルド・カーティス氏)である多頭的政治システムに指導力の確保という一本の筋を通さなければならない。

 

「日本の新聞はすべて、いかなる政府であれ、政府に対しては原則的かつ不変的に敵意を持ち、これまでも敵意を持ってきたということです。国民の好み(=反権力的新聞)と実際の行動(=保守的投票態度)がこれほどかけ離れている例は、日本以外のいかなる国にも見られません。(中略)他の国では議会に任されている役割を日本で果たしているのは、つまるところ、この種の話し合い、畳の上で、或いは茶室で交わされるこの長談義なのです。日本の体制は、議会が無駄に時間を過ごす場でしかない立法機関であると言うことができます。(中略)現象の一つは、近代日本を支えてきた伝統的かつ官僚的な古い枠組みが全く疲弊していることです。明治維新を実行した精力的で知的で無私無欲の小さなグループのメンバー、伊藤博文、井上馨、大久保利通、山県有朋のような人々は没し、彼らに代わった清浦奎吾や平田東助のような後継者は自身が老いぼれてしまい、生涯端役に甘んじてきたため、その役割を保つことができませんでした。田中義一将軍を除けば、陸軍も海軍も新たな力を示してはいません。現象の第二は、国民全般に見られる苦悩と不満です。物価は次第に高騰し、生活は厳しくなっています。農民は狭い土地にますますひしめき合い、自分たちの生活費のみならず有産階級の生活費まで捻出するのが難しくなっています。さらに、これはアジアの奇癖とは言わないまでも、文学や教育の部門が常に増設され、大学や専門学校では、毎年社会に大量の落ちこぼれや革命家を放出しています。」(一九二四年二月一〇日付書簡より)[21]

<コメント>反権力のポーズという新聞の性格も現代と同じだったのだ。また、戦前の知識階級のあり方については、西尾幹二氏が「知識人の社会的関心は、日本の現状をいつも皮肉に批判することであり、自らが国家を担おうとする昂然たる気概、責任感を持っていなかった」と厳しく批判している(詳細は、拙文福田恆存歿後十年記念講演会にて」をご覧ください)。そうした知識人のあり方が許されたことに、クローデルも違和感を感じていたのである。戦前の知識人の反体制的な資質は、戦後の左翼・進歩派知識人に引き継がれることになる。

 

「私には、この国の利害関係とか派閥というものはよく見えるのですが、熟慮の上で決定した政策をもとに結成された政党というものが見えてきません。」(一九二四年六月一七日付書簡より)[22]

<コメント>現代の自民・民主の疑似二大政党も政策が軸になっていない。これもカーティス氏の指摘どおり、「大正デモクラシー以来の伝統」だったのだ。

 

「大半の壮士が我が身を捧げているのが政治です。国内政治において、いずれの政党も壮士をカネで雇っています。(中略)壮士たちが巧みに大衆を利用していることは否定できません。彼らは大衆の無知につけいり、大衆の保守性や信仰心を煽り、大衆の主張を支持します。壮士たちがあらゆる公の集会に顔を出し、しばしばそれを指揮しているのが見られるのです。すべての政党がこの半ばもぐりの力を利用していると言っても過言ではありません。政党活動全体が、彼らに牛耳られ、彼らがテロを起こすのではないかという恐怖、或いは彼らが政治家の私生活について流す真実のまたは虚偽の情報によって、ゆがめられているのです。政治家の私生活は彼らに握られています。(中略)警察は、彼らの行為を黙認し情報提供者として利用しつつ、何者にも尊敬の念を払わず、自身は誰からも攻撃されないと信じていた、この『名の無い闇の力』を是認していたのです。」(一九二六年三月一五日付書簡より)[23]

<コメント>この後の時代にテロが露骨に政治を傾けたことの予兆は、既に一九二〇年代の政治体制に胚胎していたのだ。反社会的勢力への視線はようやく今日厳しさを増すようになった。

 

「日本軍の規律とあれほど密接に結びついていた英雄主義や犠牲的精神、栄光を求める気持ちがかなり低下しているように思われるのです。(中略)元武士階級の伝統が弱まるにつれ、国民の間でも、かつては高かった軍の人気が衰え、それと同時に兵士の募集も難しくなってきました。ヨーロッパ人の考え方とは逆に、兵役は国民の上層部には人気があったためしがありません。貴族出身の将校はごくまれです。そしてインテリ層や市民階級に属する若者は、武器を持つ義務を何とか逃れようとしています。」(一九二三年六月一六日付書簡より)[24] 

<コメント>第一次大戦後の軍縮の流れの中で、陸海軍の将校や下士官の数が過剰になっているとクローデルは指摘しており、そうしたことを背景に、国民全体に平和気分が漲り、たるみが来ていたのだ。戦前のインテリの反体制的資質については先に述べた。

 

こうして、クローデルの冷徹な観察の数々を振り返ると、大正時代の日本は、歴史の曲がり角に立っていたことがよくわかる。当時の日本の国際的な地位の危うさ、国力の脆弱さ、人々の貧しさ、景気変動の激しさ、議会や民主政治の未熟さといった状況を踏まえた上で、それでも必死に健気に立ち振る舞い、状況と奮闘した先人の苦悩を想像し、かつ、その後の日本の敗戦という悲劇的運命を思うとき、僕は深い悲しみを禁じ得ないのである。

 

福田恆存が引用する斎藤茂吉の歌(短歌集「あらたま」より)

 

吾(あ)が母の 吾(あ)を生ましけむ

         うら若き かなしき力 思はざらめや

 

は、近代日本の運命への慟哭である。

 

平成二〇(二〇〇八)年八月一五日

 



[12] ポール・クローデル(奈良道子訳)「孤独な帝国−日本の一九二〇年代−」(草思社、一九九九年)、p二六

[13] 同上書、p二〇九〜二一〇。ただし( )内は筆者補

[14] 同上書、p二八七〜二八八

[15] 同上書、p一六一

[16] 同上書、p一六〇

[17] 同上書、p一八二〜一八三

[18] 同上書、p二三六〜二四〇

[19] 同上書、p二四一

[20] 同上書、p六六〜六七

[21] 同上書、p二二八〜二三一。ただし( )内は筆者補

[22] 同上書、p二七一

[23] 同上書、p三四二~三四三

[24] 同上書、p一五四〜一五六