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合理主義を貫く−栗林中将の硫黄島戦に学ぶ−

 

 

梯久美子著「散るぞ悲しき−硫黄島総指揮官・栗林忠道−」を読む。著者の梯久美子さんは、昭和三六(一九六一)年熊本県生まれ。北海道大学文学部卒業後、編集・広告プロダクションを起業。その後、フリーライターとして、新聞、週刊誌などでインタビューや取材記事を手がける。本書「散るぞ悲しき」で第三七回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞している。

 

陸軍中将・栗林忠道を描く本書は「東京を、日本を、空襲から守るために、玉砕を拒んだ総指揮官がいた。軍人として父として命の一滴まで戦い、智謀を尽くした戦略で『米国を最も怖れさせた男』の姿を、家族への手紙とともに描く人物伝」(本書の帯の謳い文句)である。

 

太平洋戦争末期、米軍は太平洋の日本軍を次々に撃破し、日本固有の領土である小笠原諸島に迫った。小笠原諸島の最南端にある硫黄島を占領すれば、そこから米軍は燃料の補給無しで日本へ空爆できるようになる。硫黄島を奪われることは自由に本土を空襲させることであり、何としても固有領土を守り本土爆撃を避けなければならない。その硫黄島守備の任務を委ねられた総指揮官が栗林中将だった。彼我の戦力の差は歴然としていた。硫黄島の日本守備軍には飛行機も戦艦もほとんど無く、海上・航空戦力はゼロに等しかった。陸上戦力に於いても日本軍約二万に対し、上陸して来た米軍は約六万、しかも後方には一〇万もの支援部隊がいた。米軍は航空機と戦艦からの猛爆撃に援護されて、大量の戦車を伴って圧倒的な兵力で上陸して来た(先のイラク戦争を想起せよ)。

 

絶望的な状況の中、栗林が選んだ戦術は、ゲリラ戦だった。ゲリラ戦はそれまでの陸軍の伝統に全く反する戦術だった。彼は、日本軍が太平洋諸島で敗北を続けた水際戦術を無意味だと見抜いた。そして、水際作戦を捨て、硫黄島に地下通路を張り巡らせ、島を徹底的に「ゲリラ基地」に仕立てて、アメリカ軍に激しく抵抗を続けた。そして、敵将スミス中将が「七日程度で攻略できる」と見込んだのを、一ヶ月も激闘を強いた。本書から引用すれば、「硫黄島は、太平洋戦争に於いてアメリカが攻勢に転じて後、米軍の損害が日本軍の損害を上回った唯一の戦場である。最終的には敗北する防御側が、攻撃側にここまで大きなダメージを与えたのは稀有なことであり、アメリカ海兵隊は史上最大の苦戦を強いられた」[1] のである。

 

栗林は米国通の軍人だった。彼は、若い頃、軍事研究のためにアメリカに留学し、また、駐在武官としてカナダに滞在したこともあった。アメリカの物量と精神力の強靱さを知悉していた栗林は、陸軍幹部として、常々、アメリカとの戦争には異を唱えていた。しかし、一旦戦うとなった時に、知米派栗林は、アメリカという「敵」を知った上で、ゲリラ戦を選択したのである。「世論の国」アメリカは強みも弱みもその「世論」にある。僕がかつてトクヴィルの名著「アメリカの民主政治」について書いた拙文に、次のような一節がある(「アメリカ合衆国を考える(U)」参照)。

 

 “さて、世論の支配する国アメリカの弱点はその世論にある。トクヴィルも、アメリカは貴族が統導する国家と異なり、一時的な愛国心は熱狂的だが、より冷静さと熟慮を要する長期の戦争には耐えられないと述べている。アメリカに戦争や論争で勝つには、アメリカ国内の世論を自国に有利になるように巧みに操作することが何よりも重要である。反戦運動が盛んになり、厭戦気分が充溢してしまったヴェトナム戦争がアメリカの敗北に終わったことは、我々の貴重な教訓になろう。”

 

本書に言う:−

「確かに当時の米国では、硫黄島の戦況を固唾を呑んで見守っていた。その報道の量とスピードは、当時の日本からは想像もつかないものだった。上陸作戦が始まった一九四五年二月から三月にかけて、ニューヨーク・タイムズ紙は硫黄島に関する記事を六〇回以上掲載している。特派員が戦場から送った記事は二四時間後にはもう新聞社の輪転機にかけられていた。(中略)硫黄島の戦場写真はその質に於いても量に於いても、第二次世界大戦の他のどんな戦場をも凌駕していた。放送局のスタッフも戦場にやって来ていた。硫黄島沖の戦艦の上や米軍が上陸した浜辺から、ラジオのレポーターが生中継を行ったのである。

 米国民は、こうしたニュースの洪水の中、硫黄島上陸から四日間の戦闘が、ガダルカナルでの五ヶ月に亘るジャングル戦を上回る死傷者を出したと知って茫然とする。あまりにも大きな犠牲に世論が沸騰し、新聞には『アメリカの若者をこれ以上殺させるな』『最高指揮官を更迭せよ』という投書が載った。こうした事態を事前に見越していたからこそ、栗林は華々しく戦って散るよりも、持久戦に持ち込んで米軍の人的被害を少しでも多くすることを選んだというのがブラッドリーの説である。」[2] 

 

 アメリカの世論は、硫黄島戦の犠牲の大きさに驚愕していた。戦闘が長期化すればするほど、世論はますます動揺し、まさしくトクヴィルが言うとおり「より冷静さと熟慮を要する長期の戦争には耐えられない」状態に陥っただろう。日本との戦争を中止せよとの意見すら出てくるかも知れない。ゲリラ基地に立てこもる持久戦の狙いはここにあった。

 

ゲリラ戦は、その後、ヴェトナム戦争やイラク戦争で見られるように、アメリカが最も苦戦を強いられる戦争パターンである。ヴェトナム軍やイラク軍の幹部たちは、硫黄島戦を詳細に研究したのではないだろうか。栗林はアメリカに抵抗するための最も理に叶った戦いを貫徹した先駆者であった。本書はこう言う:−

「(敵将の)スミス中将が、その不気味なまでのしたたかさをウジ虫に例えた硫黄島の地下陣地。それは、名誉に逃げず、美学を生きず、最後まで現実の中にとどまって戦った栗林の強烈な意志を確かに具現していた。」[3] 

 

 しかし、戦力の差はいかんともし難く、日本軍は全滅し、栗林は壮絶な最期を遂げる。敵将の見事な戦いぶりに心から敬意を抱いたスミス中将は、栗林の遺体を捜させたがそれはついに見つからなかった。

 

栗林は、それまでの日本軍が「負けるべくして負ける」戦を「潔さ」の名で美化することを嫌った。彼は勝つための「理」を徹底的に追求した。硫黄島の前線から大本営への戦況報告電報の中で、栗林は、大本営を率直に批判している。大本営が後退配置での持久戦という方針に徹せず、水際作戦にも未練を残したこと、硫黄島を守備する日本軍には飛行機などもうほとんど無いにもかかわらず、米軍の上陸直前まで飛行場の拡張工事を行わせたこと…。これらの無駄な労力を地下陣地の拡張・整備に使えたら…栗林の無念は察して余りある。こうした後退配備の不徹底と飛行場への固執は、いずれも海軍が従来示した方針に拘泥したことによって生じた。栗林は陸軍中将だが、硫黄島では総指揮官として海軍もその指揮下に置いていた。しかし海軍には海軍のやり方があり、栗林の方針を徹底できない憾みがあった。その原因は、中央の陸軍と海軍が対立しており、そのため硫黄島の防衛方針が一体化されなかったことにあるとし、栗林は電報の中で「…陸海軍の縄張り的主義を一掃し、両者を一元的ならしむるを根本問題とす」と指摘している。[4] 日本軍は敗戦に至るまで陸海軍の一元化を実現できなかった。

 

 本書は次のように述べる:−

「実質を伴わぬ弥縫策を繰り返し、行き詰まってにっちもさっちも行かなくなったら『見込み無し』として守備線を放棄する大本営。その結果、見捨てられた戦場では、効果が少ないと知りながらバンザイ突撃で兵士たちが死んでゆく。将軍は腹を切る。アッツでもタラワでもサイパンでもグアムでもそうだった。その死を玉砕(玉と砕ける)という美しい名で呼び、見通しの誤りと作戦の無謀を『美学』で覆い隠す欺瞞を、栗林は許せなかったのではないか。

 合理主義者であり、また誰よりも兵士たちを愛した栗林は、生きて帰れぬ戦場ならば、せめて彼らに、少しでも米軍による日本本土への攻撃までの時間を稼ぎ、日本を空襲から守るという“甲斐ある死”を与えたかったに違いない。だから、バンザイ突撃はさせないという方針を最後まで貫いたのであろう。

栗林は、美学ではなく戦いの実質に殉ずる軍人であった。硫黄島という極限の戦場で栗林がとった行動、そして死に方の選択は、日本の軍部が標榜していた美学の空疎さを期せずしてあぶり出したと言える。」[5] 

 

 敵であるアメリカについての研究不足、縦割りの官僚的な軍の体制の不合理、陸海軍を力強く一つにまとめる指導力の欠如…。そうした日本軍の弱さをすべて克服し、勝つための「理」を尽くした栗林中将から、現代の私たちも学ぶべきことは多い。

 

平成二〇(二〇〇八)年九月二二日

 



[1] 梯久美子「散るぞ悲しき−硫黄島総指揮官・栗林忠道−」(新潮文庫、二〇〇八年)、p四〇

[2] 同上書、p八八〜八九

[3] 同上書、p一五〇

[4] 同上書、p二四三〜二四五

[5] 同上書、p二七三〜二七四