日本政治の歴史的、世界的な立ち位置を確認する書
―野中尚人著「自民党政治の終わり」を読む―
(第一回)
T.本書の概要
本書は、自民党政治ないし「自民党的な政治システム」がもはや機能しない必然を、歴史的、国際比較的視点から明らかにしようとしたものである。
第一章、第二章では、小沢一郎、小泉純一郎の政治家としての軌跡を描出する。この二人は期せずして自民党システムを「ぶっ壊」そうとしたことで共通する。彼らは何故自民党システムを破壊しようとしたのか。小沢、小泉が担った「改革」の過程を振り返ることを通じて、自民党システムの何が時代にそぐわなくなりつつあったのか、具体的に読者にイメージさせようとする。第一章、第二章は、いわば、本題に入るための序章である。
続く第三章では、自民党システムとは何か、その基本的な仕組みと特徴が明らかにされる。第一に、自民党は、党本部が様々な政策分野に対応可能な巨大で柔軟な組織である(自民党と対照的に、フランスの保守党である共和国連合では自民党本部が担う多様な役回りはほんの三〇名ほどの幹部政治家に委ねられているという)。一方、地方組織は脆弱で、国会議員は自らの個人後援会を通じて民意を吸収し選挙活動を行っている。個人後援会の活動は活発で、草の根の利害を広範に吸収し得た。
第二に、派閥が多様な機能を果たしていた。すなわち、@政治資金の調達と配分、Aポストの配分、B選挙候補者の発掘、C当選した新人議員の教育、育成、D政策や情報の互助機能等々である。また、派閥は人事権を通じた集権的な組織であり、非常に分権的な自民党が最後に統制力を発揮するための道具でもあった。
第三に、政策の審議や決定に際しては、派閥のメンバーとしてよりも「族議員」としての自民党議員が重要である。族議員は、省庁の担当部局、関連業界と一体となり「鉄の三角形」を形成して、共通の利害を守った(ただし「鉄の三角形」は日本に固有の仕組みではなく、この用語自体アメリカで発達したものである。圧力団体が介入して政治と行政を巻き込んだ形で政策決定過程が進行するという「族議員政治」は世界的に特殊ではない)。
第四に、他の日本の組織と同様に、ボトムアップとコンセンサスを重視する組織であることから、平等、民主的ではあったが、逆に総裁(=首相)のリーダーシップが常に大きく制約される組織であった。総裁の任期は概して短く権力は派閥間で分有されていた。しかも族議員のパワーと官僚によって首相の指導力は殺がれ、自民党政府は「まさに非統合的で求心力のない分断政府だった。」[1]
第五に、人事のあり方である。自民党の人事システムは、「戦後日本の多くの大企業や国の行政官僚制で採用されているものと極めて似ている。」[2] つまり、当選回数に基づく「年功序列」システムと「潜在的でゆっくりした競争選抜」である。そして、競争を勝ち抜いた最終局面である派閥の領袖のポストをめぐる闘争はきわめて熾烈である。自民党の人事システムは「政治エリートの育成と選抜という役割をそれなりに果たしていた」[3] のである。
第六に、政策決定プロセスが自民党と政府の二頭体制である。政府が法案を国会に提出する前に党の事前審査にかけられることに典型的に示されるように、議院内閣制が想定しているようには党と政府の意思決定が統合されていない。政府は党の合意をとることを重視する。なお、日本では政府が政党に対して弱いのは、イギリスやフランスと異なり、議事日程や議決の方式などの国会運営について政府が憲法上何の権限も与えられていないことにも起因する。「強すぎる国会」が、逆に、国会をできるだけ迂回して、事前審査や国対政治で実質的な政党側の了解をとりつけようと政府にさせる誘因になっているのではないか、と著者は述べる。これは、言い換えれば、第四章後半で述べられるように、執政中枢における首相への求心力の弱さであり、首相のリーダーシップが強く制約されているということになる。
総じて言えば、「自民党システムとは、巨大かつ柔軟な党本部組織と膨大な個人後援会組織を通じて社会の隅々までネットワークを築き、ボトムアップとコンセンサスを軸とする分権的色彩の強い政策決定システムと、年功に基づく平等な人事システムを組み込んだ組織原理を持ち、官僚機構との共生のメカニズムを通じて形成された巨大なインサイダー政治の体系である。」[4]
自民党システムは、戦後の経済成長と世界秩序の安定を前提に「草の根民主政治」を具現してきたが、その限界、問題点としては、@利害による民意吸収の裏腹として利権による腐敗を生じやすく、公共財や政治理念から遠くなりがちであること、A世界秩序の変動や低成長経済や社会の高齢化による分配の困難化といった大きな環境変動に対処するには、自民党システムにおけるリーダーシップの欠如が致命的であること、が挙げられる。
次の第四章は、自民党システムが歴史的にいかに形成され、他の先進民主国と比べどのような個性があるかを明らかにする。日本政治の歴史的背景として、特に著者は、江戸期の重要性に着目する。曰く:
「日本の場合、江戸期の特殊性が多くのことを物語る。戦争と本格的な外交の無かった江戸期には、分権的な幕藩体制ができたのみならず、近代的な行政官僚制の原型が形成され始めていた。一方、村方役職者に一種の投票(入れ札)が用いられたほどの『民主化』が起こっていたにもかかわらず、近代議会の萌芽はどこにも無かった。議会の前身が封建制から出発したことに鑑みれば、また、中世日本には西ヨーロッパと極めて類似した封建制が成立していたことを前提に考えれば、この事実は大変重要なことを物語っている。ヨーロッパが、内戦と戦争に明け暮れる、いわば血みどろの近世を通じて近代議会を形成し発展させてきたことと好対照を成すからである。近世江戸期の日本は、残念ながら議会を生み出せなかったのではなく、その必要性を生まないほどに平和で充足した社会を生み出すことに成功したと考えられるのである。」[5]
明治から昭和戦前の日本は、こうした江戸期の蓄積の上に、ドイツの制度を模した官僚制を中心に据えた統治システムを構築した。戦後の体制もこうした戦前からの官僚主導体制として連続していると見る見方もある(C・ジョンソンの発展指向型国家論や野口悠紀雄の一九四〇年体制論など)。現在においても、英仏等と比べれば、日本の政策決定はトップレベルにおいてさえ「行政的」である、と著者は述べる。
しかし戦後の新憲法は国民主権の原則を打ち立て、議会は「国権の最高機関」となった。そうした制度変化を梃子に、議会とその多数派である自民党は、一九六〇年代を通じて次第に官僚主導の政策決定を蚕食し、政府と自民党の二元体制が確立された。その象徴的仕組みが、党による法案の事前審査制であり、大蔵省によって統御される一般会計予算とは別に存在する、自民党の「分捕りゲーム」の場たる特別会計である。第三章で挙げられた自民党システムの諸特性も、概ねこの時代に確立されたのである。
さて、著者は、西欧各国と比して、日本の政治システムが「議会」を機能させ得ていないことに注目する。同じ封建体制を経て、相当に「民主的」な政治の仕組みを運営していた江戸期の日本が、西欧流の「議会」を必要としなかったことは、現在にいたるまでの日本政治の性格を強く規定している。
西欧における「議会」とは何か。それは国家の戦争等への「国民の動員と合意を調達する場」であると同時に、国家統治の主体的な機関としての「意思決定を引き受ける機能」でもあった。議会が「動員と合意を調達する場」であることに留まらず、「国家の意思決定を引き受ける機能」を発達させ得たのは近代イギリスにおいてであった。一六世紀頃までイングランドの議会は、戦争と内乱に明け暮れた欧州で勝ち抜くために国王から動員されその要請に合意を与える「協賛機関」であった。しかし一八世紀には国王と議会が緊張を孕みつつも共同で統治する経験を経て、国家運営の主導権が次第に議会下院へ移っていった。そして一九世紀には国王は「君臨すれども統治せず」という存在となり、議会下院こそが主権的機関となる。著者は言う:−
「この過程で注目されることは、議会自身が戦争を遂行する為に重税政策を容認し、しかも自分たち自身の土地収益にさえ相当な課税を厭わなかった点である。つまり議会は、自分自身が国家運営の主体として、国王に代わってリーダーシップを担うようになったのである。私は、リベラリズムの牙城である議会が持つに至ったこのスタイルのリーダーシップを『リベラル・リーターシップ』と呼んでいる。こうして、合議制の機関でありながら、その指導者が国王に代わるリーダーシップを発揮する仕組み(=議院内閣制:評者注)が作られたのである。」[6]
「イギリス議会は、単に受け身で抵抗をする段階を超え、統治のための積極的な役割を担い、難しい決定の為のコストを負担し、要するに統治の主体的な責任機関に脱皮したのである。」[7]
このように議会下院の指導者による「リベラル・リーダーシップ」が確立していたため、一九世紀半ば以降の選挙権拡大による急激な「民主化」の波がイギリスを襲ったときにも、統治が不安定に陥ることはなく、リーダーシップ機能とボトムアップの民主機能とを巧みに両立させ得た。
しかし、著者は、議会が協賛機関としてのみならず統治機関として機能し、かつ、議会から発した責任あるリベラル・リーダーシップが急激な民主化と両立したイギリスは、欧州でも「全く稀有な例」であるとし、他国と比べイギリスが特異な国であることに注意を促す。例えばフランスは、「全国三部会」と呼ばれた近世の議会は王権と対立を続け、統治システムに組み込まれないまま一八世紀末のフランス大革命を迎えた。リベラル・リーダーシップが確立されなかったフランスでは、その後、民主化要求に極端な比重を置いたがために不安定で実効性を持たない議会中心の統治体制とその反動の権威主義的で非民主的な体制が交互に現れては倒れるという混乱がつい最近まで続いた。ドイツでは遅れた国家形成を挽回すべく、典型的な軍事官僚システムを作り上げた。ここでも議会は統治システムの中核とはならず、協賛機関に留まったため、リベラル・リーダーシップは確立されなかった。第一次大戦で敗れたドイツでは急激な民主化が起こり、それは適応異常をきたして悲惨なナチス体制へと暗転した。
こうした西欧各国の歴史との比較の視点で日本の政治体制を見ると、そもそも戦争無き江戸期の日本は、「国民の動員と合意の調達」を必要としなかったため、議会は発達しなかった。また、イギリスにおいては、所領の直接支配によって社会的にも経済的にも大きな影響力を持った大土地所有貴族が存在し、彼らが議会の担い手となったのに対し、武士は城下町に集住させられたため、土地から切り離され、経済的には幕府から扶持米を支給される困窮した存在となった。武士階級は、イギリス貴族階級と異なり、社会的リーダーとして議会を担い得る地位と実力を持ち得ず、「国家の意思決定を引き受ける機能」の担い手たり得なかったのである。このように、江戸期日本は、行政官僚制や民主化の萌芽が見られたにもかかわらず、イギリスのような議会の二つの機能(「国民の動員と合意の調達」と「国家の意思決定を引き受ける機能」)を備える契機を欠いていたのである。
こうして、議会が「国民の動員と合意の調達」と「国家の意思決定を引き受ける機能」とを兼ね備える契機を欠いたまま明治維新を迎えた日本は、ドイツ型の統治システムを模倣し、議会は「国民の動員と合意の調達」のみを担う協賛機関に留まった。リベラル・リーダーシップが確立しないまま、戦後日本は急速に民主化し、議会は「国権の最高機関」になるが、強大な権限を持て余して統治の責任機関になり得ず、国家の実質的な意思決定は議会を回避して行われた。統治の中心機能は、自民党内の隠されたリーダーシップ(派閥の集権性と支配派閥の存在)を大蔵省中心に官僚機構が補佐する形で担われたのである。
著者は、欧州の歴史も踏まえて、戦後日本が議会を有効に機能させ得なかった理由を、「民主化の不足」によるのではなく、民主的なボトムアップとコンセンサスが多すぎたためだと主張する。欧州においてもイギリスだけが巧みに実現し得た議会の責任統治機能(リベラル・リーダーシップ)を欠いていたことこそが、戦後日本の議会政治の問題点なのである。曰く:−
「すべての人々が政治に参加し、平等な意思決定の権限を行使するという単純な民主的ルールだけでは物事は決められないし実行できない。(中略)実際にはリーダーシップが必要となる。リーダーシップとは、一定の理念や政策のプログラム、または人間的信頼や権威に基づいて、国民から大きなレベルで委任を取り付け実行することと言えるだろう。(中略)イギリスやフランスなどでは、リーダーシップの必要性が自然に受け入れられており、深刻な懐疑は殆ど存在しないと見てよい。ところが日本では、エリートに対して懐疑と怨念に近い感覚がある。」[8]
第五章は、前章までの歴史的、比較政治学的知見から、自民党システムが終焉を迎えることの必然を結論として述べる。曰く:−
「歴史的に見れば、『新しい江戸』とも言える戦後の国際環境に適応してきた自民党システムが、冷戦の終結とグローバル化、そして少子高齢化社会の到来という全く新しい状況の中でそれへの対応に右往左往し、結局失敗してしまった。
また、国際的な比較で見れば、透明性と説明責任を伴った機動力ある政治指導という方向への世界共通の大きな流れに対して、派閥の論理の延長線上にあった自民党型リーダーシップのスタイルが明らかな限界に達したということでもある。」[9]
もちろん自民党も何もしなかったわけではない。新しい環境への対応として、九〇年代には様々な政治・行政の改革が実施された。九四年の小選挙区制への選挙制度の変更を始めとする政治改革、九七年の省庁再編を伴う「橋本行政改革」、九九年の国会改革や副大臣制などがそれである。これらは、首相と官邸の機能を強化し、行政官僚に対して政治主導を強め、執政中枢における求心力を強化しようとする試みであった。小泉政治はこうした改革の成果を十分利用して一定の成果を収めた。しかし、それら改革は「まだ極めて不十分なだけでなく、自民党システムを支えた様々な層が依然として根強い抵抗を試みている。」[10] 自民党システムを支えてきた勢力は、従来のシステムを維持しようとする“現状維持派”と「小さな政府」的な政策とトップダウン型の政治手法の実現を目指す“新自由主義派”とに分裂しつつある。かくして自民党システムは終焉を迎えつつある。
自民党システム終焉後の政治システムは、市場の動きに適合した迅速な対応、他国との政策協調、低成長時代の新たな社会・経済モデルの構築に向けたリーダーシップなど、先進諸国に共通の課題に対応できる政治体制でなければならない。著者は、それを可能ならしめる政治システムとして、「欧州標準の議院内閣制」を希求する。「欧州標準の議院内閣制」とは、リベラル・リーダーシップと民主的なボトムアップ機能とが適切なバランスで組み合わされた政治体制であり、執政中枢が求心力と決断力・実行力を持ち、その政策構想が明快に国民に説明される仕組みが備わっていることを要件とする(もちろんそこにはポピュリズムという政治的リーダーをめぐる古くて新しい問題が潜んではいるが)。
「欧州標準の議院内閣制」の具体的な要件を筆者は次のようにまとめている。第一に、政権交代を基本とすること。第二に、衆参二院間の差別化。第三に、党内民主主義により首相候補と政策体系を明確化した上で選挙を行うこと。第四に、議会との関係において政府に一定の主導権を認めること、第五に、政治リーダーの説明責任の明確化。
欧州標準の議院内閣制に至るには様々な課題がある。まず、上記要件の第二、第四に関わる課題、すなわち、国会の極端な自律性と二院制のバランスの問題である。権力を分権化しリーダーシップを抑止する古典的民主主義の立場に立つ現行憲法においては、政府と国会の関係では国会の自律性が極限まで強調され、衆議院と参議院の関係では参議院に大きな権能が付与されているため、政府の実質的な権限は二重に制約されている。しかし、王権からの独立のために議会主権を確立した欧州諸国では、二〇世紀後半には、政府と議会との関係を政府主導に再編成してきた。その結果、政府には、議案の提出、議事日程、審議の基本的なパターン、修正の扱い、議決方式等の議会内プロセスについて様々な権限が与えられた。変化の激しい国際環境、経済環境に対応して、政府が機動的に政策を決定し推進できるような体制へと移行させてきたのである。日本の一九四七年憲法は、リーダーシップと機動的な意思決定よりも権力の暴走を抑止することに重点が置かれており、それは戦後一度たりとも改定されていない。日本においては、政治の効率性は、強すぎる国会を迂回する様々な仕組み(自民党の長期に亘る多数派維持、与党の事前審査制、与野党の国対政治等)によって担保されてきたのである。
次に、上記要件の第一、第三に関わる課題、すなわち、政権交代を可能にする政党内の組織運営や意志決定をどのようにすべきかという問題である。イギリス流の、政策についての党内議論、党内民主主義を担保した上で、選抜したリーダーの裁量と指導力に委ねるあり方が、これと全く異なる内部体制(派閥ごと、個別利害ごとに分権し、リーダー権限が弱体の体制)を保持してきた日本の政党で実現できるのか。さらに、政官関係をどのように再構築し、近年バッシングの対象となり果てている日本の官僚の持つ本来の組織力をどう活かすかも重要な課題である。
平成二〇(二〇〇八)年一二月七日
(続く)