日本政治の歴史的、世界的な立ち位置を確認する書
―野中尚人著「自民党政治の終わり」を読む―
(第二回)
U.近年の政治学における本書の位置づけ
本書は、自民党システムの終焉と欧州標準の議院内閣制のへの移行を展望するに当たって、一九七〇年代以降の主要な日本政治論の成果を総合している。巻末に掲げられている参考文献には、自民党や日本の政官関係に関する古典的な著作(佐藤誠三郎・松崎哲久「自民党政権」、K・カルダー「自民党長期政権の研究」、C・ジョンソン「通産省と日本の奇跡」、村松岐夫「戦後日本の官僚制」、牧原出「内閣政治と『大蔵省支配』」等)および一九九〇年代以降小泉時代に至る過程で議論されてきた議院内閣制と首相の権力に関する代表的な著作(御厨貴「ニヒリズムの宰相 小泉純一郎論」、竹中治堅「首相支配」、飯尾潤「日本の統治構造」、大嶽秀夫「小泉純一郎 ポピュリズムの研究」等)が含まれている。著者の立場はオーソドックスなものであり、政党内デモクラシーが確保された上での集権的な議院内閣制を希求する本書の結論は、飯尾潤「日本の統治構造」における「官僚内閣制から議院内閣制へ」や、竹中治堅「首相支配」における「五五年体制から二〇〇一年体制へ」といったヴィジョンと軌を一にしており、「日本のあるべき政治モデル」に関する現在の「通説」と言っていいだろう。著者は「首相支配」という言い方を批判しているが、それは「集権的改革」は未だ不十分であるとの批判であり、政治の向かう方向については同方向を見ているものと思われる。
本書の特色をふたつ挙げるならば、まず第一に、日本の政治学で必ずしも活発に論じられてこなかった政治リーダー調達論に踏み込んでいることである。 著者の問題意識は正統で的を射ていると思われる。曰く:−
「政治の世界に有効でレベルの高い競争の仕組みがあり、そこから信頼に足るリーダーが生まれるようになればよい。全ての社会制度と同様に、最後はヒトが大切である。議院内閣制が、質の高い本当に国民のための政治を行うためには、議会に最も優秀な人材が集められ、彼らが絶えず切磋琢磨するしかないのである。」[11]
しかし実際の日本社会においては、欧州と比べて、政治の世界への参入障壁はきわめて高い。第一に、公職選挙法によって、国政選挙に立候補するためには例えば県会議員や市長の職を辞さなければならない。日本とは逆に、フランスでは市長と国会議員等、複数の公選職を兼任することができるという。第二に、公務員法によって、公務員が国政選挙に立候補するには公務員を辞職しなければならない。しかしフランスでは公務員の身分を維持したまま選挙に出ることができ、もし落選してもまたは国会議員の任期を終えても、また公務員として復職する権利を持つという。第三に、日本では社会全体の労働市場に流動性が乏しく、企業勤めの人間にとって「ちょっと選挙に出てみる」などという冒険は生活上のリスクが高すぎる。企業でも国政経験者を中途採用するインセンティブはあまり無いように思われる。著者は言う:−
「結局、日本では選挙を通じた政界への人材の供給は極めて制限されている。弁護士や著述家といった一部の自由業の人を除けば、『堅気の人』が選挙に出るのは殆ど不可能に近い。この結果が二世議員の増加である。特に自民党の場合、二世議員に比重は他の先進国と比較しても突出している。(中略)要するに、選挙という民主政治の土台とも言うべき局面で競争が充分に行われず、寡占状態になっている。選挙は一種の市場であるが、候補者という供給側のメカニズムが殆ど機能していないのである。」[12]
日本では、選挙という「市場」における需要サイド(投票行動)の分析はかなり行われているが、供給サイドについての分析(候補者のリクルートをいかにすべきか、立候補者プロフィールの動態分析等)はあまり見当たらないように思われる。著者が論じているような政治リーダー調達の比較政治論は、さらに深堀りしてゆく意味があると思われる。経済的起業家すらなかなか出にくい日本社会で、政治的起業家をどのように調達するか。政治への参入機会(インセンティブの付与或いは生活リスクの軽減)をよほど大胆に増やす必要があるのではないか。既に選挙の当選マニュアル本まで出ている現実に対して、「政治がそこまで軽くなってよいのかという批判を生み、他方で、政治家と他の職業との互換可能性が高まれば、新しい人材が常に政治に動員される契機となり得るという評価にもつながる」[13] のである。現状の参入障壁をまずは思い切って低くして、供給サイドを活性化すべきだと思われる。刑事裁判への参加を一般国民に強いるよりも、官公庁や民間企業に立候補休職制度を用意させるインセンティブを付与すべきであろう。
本書の特色の第二として、実のある比較政治論が展開されていることが挙げられる。著者は、日本政治の淵源を江戸時代まで遡って探求しているが、それを以て日本の「特異性」を強調しているのではない。比較政治の観点をも取り込むことにより、各国の歴史的堆積としての政治制度を冷静に比較しているのである。曰く:−
「日本に限らず、あらゆる国は特殊である。ドイツもフランスもアメリカも特殊である。イギリスに至っては恐らく最も特殊であり、奇跡的な偶然の産物と言うべき近代化の経路をたどった。先進民主主義国の代表とみなされることの多いイギリスとフランスを比較しても、議会の歴史的役割や基本的性格は驚くほど異なっている。」[14]
本書は実のある比較政治論が展開されているが、私たちは、ペンペルが比較政治学のジレンマについて述べた次の一節は念頭に置くべきである。
「理論的関心に染められ突き動かされていった場合には、一見多様な各国の経験を明確なカテゴリーやパターンに分類することはさほど苦ではなくなる。しかしこうしたジェネラリストによるカテゴリー化を一国研究者たちが見れば、しばしば頭をかきむしることになる。というのも、『様式化された事実』(stylized facts)なるものには、その国の複雑さ―無視できない重要な複雑さ―との有意味な連関が全く欠けているからである。」[15]
実際の政治制度を設計しようとする場合にも、両極端の態度を想像し得る。ひとつは、カテゴリー化された政治制度を信頼し、日本の政治制度は「標準形」と比べて「逸脱」があるから、イギリスの何々制度を採り入れるべきだ、フランスの然々システムを導入するべきだ、と、各国の制度の「いいとこ取り」によって、まるで白地に絵を描くように日本の政治制度を「改革」しようとする態度。その対極は、比較政治によって日本の固有性を強く認識し、外来のものを闇雲に入れることは決して政治を良くするものではないとして、あらゆる「改革」を拒む態度である。
筆者は、各国の経験を「様式化された事実」化しパターン化することには充分警戒的である。例えば、日本の「無視できない重要な複雑さ」のひとつとして、筆者は、自民党の組織構造が日本の他の官民組織のあり方と共通であることを浮き彫りにしている。政治セクターも寧ろ日本の他の社会セクターとの相似性が顕著であるという問題意識は、著者の別の著作の中で次のように明快に示されている。
「比較経済制度分析から導かれる日本の経済制度の特徴の中には、企業内での分権的な意思決定の仕組み、外部労働市場の未発達、長期競争と遅い昇進を特徴とする内部での能力平等主義原則などが含まれる。そしてこうした諸特徴は、実は自民党を中心とする政治エリートの世界の特徴と酷似している。(中略)政治システムの内部での制度化の態様は何も異常特殊ではなく、むしろ日本社会の他のセクターとの相似性は顕著なのであり、社会経済システムとの間の相互作用という視角をはっきりと念頭に置く必要がある。」[16]
こうした人事システムは、日本の官界の特徴でもあることは、稲継裕昭が「日本の官僚人事システム」(東洋経済新報社、一九九六年)で明らかにしている。日本では「官」の組織・人事のあり方を「民」や「政」が模倣したのではないだろうか。著者が言うように、日本の「官」の淵源は江戸時代にまで遡ることができるのであり、「民」や「政」よりもずっと古くから存在しているのである。
しかし、著者は、政治の固有性を自覚するあまり、あらゆる「改革」を拒否するような態度は取っていない。むしろ、歴史的役割を終えた自民党システムに代わる望ましい政治システムは何かを積極的に考究している。著者のメッセージは、「私たちは、欧州の政治は欧州の歴史の堆積物であり、従って欧州社会全体のシステムが反映されたものであること、そして日本政治もまた同様であることを念頭に置かなければならない。従って、大きな『政治改革』を成すには相当の覚悟が必要だ」といったものであり、評者も大いに首肯するところである。
平成二〇(二〇〇八)年一二月二二日
(続く)