日本政治の歴史的、世界的な立ち位置を確認する書
―野中尚人著「自民党政治の終わり」を読む―
(第三回)
V.感想など
1.歴史への公平な視線
評者にとっては、本書の第四章が抜群に面白かった。江戸と戦後の政治・社会の共通性を感知することは不自然ではなく、戦後体制を「新しい江戸」に喩えるのは的確なレトリックだと思われる。鎖国と身分制度に縛られた「暗黒時代」というのが、私たちが高校生の時に習った江戸時代の一般的なイメージだった。本書は、こうした「暗黒時代」イメージとは全く異なる「江戸時代の真実」が、近年の歴史研究の成果から汲み取られている。武家の秩序から独立した農村の自治世界が広がっていて、そこでは草の根の民主的仕組みが成立していたこと、窮乏する武士階級を尻目に農民が豊かになっていたこと、武士が土地から切り離された存在になり,実質的な土地の支配者たり得なかったこと(これはイギリスの大地主が後に議会を通じた政治リーダーになったことと対照的)など、目から鱗の事実が次々に紹介される。[17] こうした叙述から、評者は著者の歴史への公平な視線を感じる。
江戸期の見直しは近年顕著になってきたと思われるが、山本七平「日本資本主義の精神」は、江戸時代見直しを説いた先駆けというべき著作である。山本氏はこの中で、江戸時代をめぐる二つの誤解に冷静に反駁する。二つの誤解とは、江戸時代は「停滞の時代」であったという決め付けと、江戸期も日本人は「模倣の民」であったという偏見である。山本氏は、江戸時代の日本が停滞の世界でも模倣の世界でもないことを明らかにしつつ、明治から今日に至るまでの日本の資本主義が、その精神構造も社会構造も江戸時代に形成されていたことを、石田梅岩の心学や上杉鷹山など名君の伝統に象徴的に見出している。山本氏は、マックス・ウェーバーの提起した「資本主義発展のための宗教的契機」を、日本の資本主義にも見出し得ることを主張するのである。[18] また、近年の研究では、ロナルド・トビが、徳川幕府の朝鮮半島との「外交」を梃子に、江戸時代の「鎖国」は国を閉ざすという消極的な政策ではなく、外交相手を自ら選択する主体的なものだったと述べている。[19]
筆者は時の政権を何でも批判するメディアや知識人の自民党への偏見からも自由である。「草の根民主政治」としての自民党システムに対しても公平な視点を持っている。例えば、「自民党システムは、草の根からの競争に基づいて大きく組織化されてきたと言える。(中略)ある面で高度な民主性を達成していたと考えられる。社会の極めて広い範囲に亘る様々な業界、選挙区・後援会の関係者たちは、程度の差はあれ、自民党の政策過程で発言権を持った参加者になっていたのである。」[20] といった箇所である。また戦後自民党の「実績」についても率直に評価する。「戦争はとにかく避け、平和と繁栄を追求すること。できるだけ平等に、多くの人々の合意を大切にすること。これらが『戦後合意』の最も大切な価値であった。戦後日本においてほど、これらの目標が熱心に追求され、効果的に実現された国はそれほど多くない。」[21] といった箇所である。筆者は自民党の批判すべき点は批判するが、偏見からは自由であり、戦後日本における自民党の歴史的役割に対しても公平な視線が感じられる。
2.議会をめぐる制度設計
民主的なボトムアップ機能の担保と政策構想の国民への明快な説明を前提に、議会が選出したリーダーが求心力を持って先進国共通の諸課題に対処する仕組みが「欧州標準の議院内閣制」であった。「議会を回避する」のではなく「議会を中心に据える」「議会を有効に機能させる」ことが、「欧州標準の議院内閣制」を実現するポイントである。ところが、著者が第四章で分析しているように、日本政治は「議会」を据えかねてきた。日本は江戸期以来、行政官僚制や草の根民主的手続きはそれなりに具備して来ながら、欧州と大きく異なるのが「議会」を機能させ切れていない、むしろ議会を迂回して政策決定がなされてきたことである。
議会を中心とした欧州標準の議院内閣制への移行を、私たちはどのように進めるべきだろうか。その要件として著者が挙げたのは以下の五項目であった。
@ 政権交代を基本とすること
A 衆参二院間の差別化
B 党内民主主義により首相候補と政策体系を明確化した上で選挙を行うこと
C 議会との関係において政府に一定の主導権を認めること
D 政治リーダーの説明責任の明確化
このうち、A、Cは、議会をめぐる制度ないしゲームのルールの問題であり、@、B、Dは議会を形成する政党と選挙と政治的リーダー調達の問題である。
まず、A、Cの強すぎる議会、強すぎる参議院という制度問題について考えてみたい。議会制度の変更は公式には憲法改定を必要とするが、政党間合意で実質的にゲームのルールを変更することは可能であろう。だが一九九〇年代以降の議会改革や政治改革に於いては、参議院のあり方や議会運営における政府の主導性についてはほとんど国会で議論されなかった。むしろ、あるべき議会の姿(ゴールイメージ)が明確でないまま、欧米の諸制度の「いいとこ取り」「つまみ食い」しかしてこなかった。例えば、一九九〇年代の国会改革の中で、議員立法を増やす目的でアメリカに倣って導入された「政策担当秘書制度」と、本格的な政策議論を行う目的でイギリスに倣って導入された「党首討論制度」は、まさにアメリカやイギリスの「いいとこ取り」をしようとしたものだが、これらにより国会が大きく変わったとは言い難い。議会にはアメリカ的な変換型議会とイギリス的なアリーナ型議会のふたつの類型があると言われるが、[23] 日本の議会を変換型にしたいのかアリーナ型にしたいのかそれとも何か別のものにしたいのか、を明確にせずに(つまりゴールイメージを明確にせずに)制度の端々をいじってみても、議会のあり方を変化させることはできないだろう。イギリス、アメリカの議会のあり方は、それぞれの国の歴史的堆積物であり、諸制度は「一体として」機能しているため、歴史的に蓄積された他の条件が異なる日本にその一部を移植しても機能しない。あたかも蒸気機関車の蒸気機関だけ輸入して大八車に搭載しても鉄道事業が始まらないごときである。まずは、他国と自国の歴史的堆積を自覚的に比較吟味し、「何をどう改革したいのか」のゴールイメージを明確にして、その目的に応じた「改革メニュー」を策定・実行すべきである。その軸をぶらさず、かつ、上記@の政権交代が常態化する見通しさえあれば、AとCの問題を「運用」によって解決することはさほど困難ではないと思われる。
平成二〇(二〇〇八)年一二月二二日
(続く)