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日本政治の歴史的、世界的な立ち位置を確認する書

―野中尚人著「自民党政治の終わり」を読む―

(第四回)

 

 

V.感想など(続き)

 


3. 選挙のあり方

 

次に、@の「政権交代を基本とする」を実現するにはどうすべきかを考えたい。日本では二大政党制への移行を目指した小選挙区制が導入されたが、二大政党制ないし小選挙区制と@の政権交代は実はあまり関係がないと思われる。著者は欧州標準の議院内閣制の要件として「政権交代」すなわち「次の選挙までという時間を区切った上で、多数派に決定と行動の機会を与えるということ」[24] を挙げているが「二大政党制への移行」とは言っていないことに留意すべきである。政権交代の方法にもイギリス型の二大政党システムと大陸型の多党連立システムがある。それぞれの仕組みは、イギリス、大陸それぞれの社会的条件から生まれたもので、イギリス型代表制か大陸型代表制かは「必ずしも選択の問題ではなく、社会的状況の関数なのである。」[25] そうなると、欧州標準の議院内閣制にとっては、二大政党制を志向した小選挙区制への改革はあまり意味がなかった、ということになろう。現に、一九九三年の自民党政権から細川大連立政権への交代は中選挙区制下において実現したのである。

 

代表制ひいては政党の数が社会状況の関数であるとすると、日本の社会状況を正しく把握した上で政権交代の方法ひいては選挙のゲーム・ルールを設計しなければならない。「自民党一党優位」は、恐らく、高度成長期の「一億総中流化」という社会状況を反映した政治システムだったと考えられる。社会利害が単一的であることが事実上の一党支配をもたらしたと考えられるのである。しかし、今後、日本社会が従来よりも階層分化してゆくとすれば、下記A、B、Cの三つないしそれ以上の異なる社会利害の受け皿政党が必要になり、必ずしも小選挙区制による二大政党制が望ましいとは限らない。

 

政党

経済政策

外交政策

象徴的人物

A.伝統的保守主義政党

農業、中小企業重視の保護主義

愛国的な独立志向

平沼赳夫?

B.自由主義政党

大企業重視の自由主義

日米同盟中心主義

中川秀直?

C.「第三の道」政党

生活者、消費者志向の福祉主義

国際協調、国連中心主義

岡田克也?

 

また、特定の社会基盤を背景にした政党であれば、政策の違いが明確になり、政権交代も起こりやすくなるのではないか。少なくとも、現在の自民党、民主党というどちらも党内に異なる社会基盤の利害を抱えた「二大政党」よりは「政策本位」たり得るであろう。

 

4.政党のあり方

 

Bの「政党のあり方を変える(党内民主主義により首相候補と政策体系を明確化した上で選挙を行う)」のは、一層困難を伴うように思われる。政党の組織、人事のあり方は、著者も述べるように、日本の「民」や「官」も含む社会全体のあり方を色濃く反映したものだからだ。政党だけでなく、「民」や「官」においても、日本では縦割り組織によるボトムアップがその強みの源泉であった。しかしボトムアップは、環境が定常的で、その中に於いて部分最適の総和が全体最適と自動的に調和する世界では強みとなるが、「既存政策の廃止であるとか、方針転換、分野横断的な対策の必要性、トレードオフが避けられない政策選択などの課題に直面すると、機能不全が明確になる」[26] のである。そして、二十一世紀の世界環境はまさに「非」定常的なのである。「市場の動きに適合した迅速な対応、他国との政策協調、低成長時代の新たな社会・経済モデルの構築に向けたリーダーシップなど、先進諸国に共通の課題」[27] は、いずれも「変化」へのたゆみ無い対応を求められる。

 

自民党は典型的なボトムアップの組織体ではあるが、小泉時代最後期の「二〇〇六年骨太の方針」策定過程における内閣と党の協力体制(二元体制の克服)は自民党内のトップダウン実現によってもたらされた。この時の政府と党の関係は自民党内でトップダウンを実現する際の参考になる。経緯は以下の通りである。

 

郵政選挙での大勝後、二〇〇五年十月に発足した第三次小泉改造内閣において、小泉首相は、それまで経済財政政策を委ねた竹中平蔵を総務大臣にシフトし、経済財政担当大臣に与謝野馨を、自民党政務調査会長に中川秀直を据えた。小泉首相はこの内閣改造以降は、与謝野と中川を中心にした内閣・与党協調方式に政策決定の仕方を変えている。それ以前の竹中平蔵の主導した経済財政諮問会議は、与党も内閣も官僚組織も政策策定の初期段階から外し、私的に(おおむねその場限りで竹中を慕って)集まってきた「竹中チーム」で全てを切り回し、実質的にそのチームで「骨太の方針」も作り上げていた。与謝野は、これとは対照的に、「骨太の方針」の全体像や工程管理は諮問会議で押さえつつも、各論は党に発注し、政策策定の初期段階から党を絡ませた。竹中を司令塔に諮問会議で一気呵成に方針を打ち出し、しばしば自民党を置き去りにした「対決型」から、与謝野と中川を車の両輪に諮問会議と党政調会を一体にして進める「協調型」へと、小泉は、最後の一年で政策決定モデルを大きく変化させたのである。

 

竹中方式の政策決定は、不良債権問題や郵政民営化のように、反対者が特定され、そこを一点突破すれば解決できるような「一点突破型」のテーマには適した仕組みである。が、一方で、持続可能な社会保障の仕組みづくりや将来世代のための歳出歳入一体改革のように、国民の幅広い利害に関するようなテーマの場合には、党や内閣との合意形成の場が欠けているため向いていない。そして議院内閣制の本来の趣旨からは、政策策定の初期段階で内閣と党が一体となって行動する与謝野方式のほうが普遍的な姿だとも言えよう。小泉が政策決定方式を変化させた理由は、後継者に安倍晋三を念頭に置いて、次の首相にとって使い勝手が良く、持続可能な政策決定モデルを用意することにあったと思われる。与謝野・中川を中心にした内閣・与党協調体制で策定した「骨太の方針二〇〇六」は二〇一一年度プライマリーバランス均衡を中期目標として、当初予想以上の歳出削減計画を盛り込んで上々の出来を示した。小泉は、竹中式の経済財政諮問会議主導モデルよりも内閣・与党協調体制の方が持続可能性の高いモデルだと判断し、これを次期首相に引き継ごうとしたのではないだろうか(しかし、小泉を継いだ安倍首相は、中途半端に官僚との対決型を演出するなど、小泉が用意した内閣・与党協調システムを活用できなかった)。

 

この「骨太の方針二〇〇六」策定過程で、自民党内で指導力を発揮したのが中川である。中川は政調会長として、党の「歳出改革に関するプロジェクトチーム」を取り仕切った。族議員中心の縦割りの部会から政調会や総務会へ政策がボトムアップで上がる仕組みだけでは大きな支出削減案は出てこないため、政調会長やそれを補佐するトップ層の権限を強くする「集権化」を実行し、また、政策を官僚任せにせず、党自身が調査・分析能力を持つために独自ルートでチェックする仕組みも用意した。官僚が基本的には部分最適しか考えない存在であることを前提に、全体最適を考えるべき政治家には、官僚への牽制の道具が必要なのである。

 

しかし、内閣と党の協調方式にも危うさがある。というのは、「骨太二〇〇六」の政策策定過程のように、諮問会議から与党へ歳出削減策を「丸投げ」すると、族議員が跋扈し、党の政調会を舞台に水面下で政策調整が進む「族議員主導」の政治に逆戻りしかねないからである。[28] 「骨太二〇〇六」の決定過程においても、参議院を拠点とする族議員たちの抵抗が強かった。地方への税源移譲では、小泉が文教族である森喜朗に配慮したため、義務教育費の地方移譲が中途半端なものになった。[29] 「小泉−中川ライン」は、党の調査会長、特別委員長の任期を二年に短縮して道路族を牛耳ってきた古賀誠を道路調査会長から退任させ、道路特定財源を一般財源化するという小泉が指示した方向に動き出した。しかしその後の福田康夫内閣、麻生太郎内閣になってからは、道路特定財源の一般財源化も党内で骨抜き化されているとの報道が多い。[30] 自民党にトップダウンをもたらすために自民党議員の「脱・族議員」化を図るには、地方分権を徹底し、公共事業は地方政府の事業であることを明確化し、国会議員が選挙区への公共事業誘致の見返りに票集めする余地を無くし、国会議員は外交政策、マクロ経済政策、福祉政策など国家レベルの政策に専念する仕組みを確立するしかないと思われる。そうなれば、派閥は、従来のような個別利害の調整や談合の場ではなく、主義主張や政策を競い指導者を選抜するための「鍛錬の場」となってゆくだろう。

 

平成二〇(二〇〇八)年一二月二二日

(続く)

 



[24] 野中尚人「自民党政治の終わり」(ちくま新書、二〇〇八年)、p二三七

[25] 飯尾潤「日本の統治構造」(中公新書、二〇〇七年)、p一七一

[26] 同上書、p一七八

[27] 野中尚人「自民党政治の終わり」(ちくま新書、二〇〇八年)、p二四一

[28] 清水真人「経済財政戦記」日本経済新聞社(二〇〇七年)、p三二九

[29] 「朝日新聞」二〇〇五年一二月一七日

[30] 「日本経済新聞」二〇〇七年一〇月三一日など