日本を映す鏡としてのイスラム世界(第二回)
一九九〇年代とは何か
池内恵(さとし)氏の近著「イスラーム世界の論じ方」を読んで私が考えさせられた第四は、「世界の国々そして日本にとって一九九〇年代とは何だったか」である。池内氏は、中東にとって一九九一年の湾岸戦争から二〇〇一年の九.一一事件までの一〇余年は「失われた一〇年」だったとする。クウェートに侵攻し多国籍軍の武力攻撃で退却した後も周辺諸国とアメリカへの敵対姿勢と独裁体制を維持したフセイン政権のイラク、レバノンへの軍隊駐留と属国化を続けたアサド政権のシリア、湾岸戦争へのアラブ諸国参戦の音頭をとった見返りに政治的自由や人権状況についての批判に手心を加えられたムバラク政権のエジプト…。「九〇年代を通じて世界各地で進行した民主化の流れから、気がつけば中東は取り残されていた。」[i] 各国の抑圧的政権は安定したが、政治の活力が失われ、指導者の高齢化と世襲化が進んだ。それを固有の文明だと主張するイデオロギーが宣伝され、内心に積もってゆく民衆の不満はイスラエルやアメリカへの敵対と憎悪の感情に転化し、破局願望や来世への期待に訴える終末思想が渦巻いたという。
確かに、九〇年代は、ソ連圏の崩壊とともに、世界各国が自身の「国柄」を誇らしく表明したり、政治の民主化に取り組んだりした時代だった。ヨーロッパは共通通貨ユーロを実現し、解放された旧東欧と一体化を図った。台湾では、李登輝の時に初めて総統が直接選挙で選出され、陳水扁、馬英九と続き、議会でも与野党の政権交代が起こるなど、民主的政治手続きが定着した。韓国でも、盧泰愚が大統領に選ばれた時から直接選挙による再選無き任期五年の大統領制が始まり、金泳三、金大中、盧武鉉、李明博と、民主的手続きによる政治指導者選出が定着している。
日本はどうだったか。現象だけをとらえれば、バブルが崩壊しその経済的後遺症に苦しみ、政治も細切れの政権交代や無信条な連立政権が続いて首尾一貫した外交・経済政策が打てなかった。中東と同様、日本の九〇年代も「失われた一〇年」ないし「失われた一五年」と呼ばれる。しかし、さほど単純に割り切るのはどうだろうか。この間に日本は失うばかりで何も得なかったのだろうか? 何も学ばなかったのだろうか? 二一世紀の最初の十年が終わろうとし、アメリカの金融危機が世界景気に甚大な影響を及ぼしつつある今日、もう一度九〇年代の世界と日本を振り返り、日本の「国柄」の表明がいかにあるべきかを考える材料にしたい気がする。
自由のアポリア
第五に、イスラム世界は、「自由とは何か」という人類にとってのアポリア(哲学的難題)を改めて西洋世界に突き付ける。池内氏は、ドイツの作家・ミヒャエル・エンデの短編集「自由の牢獄」に収められている寓話を紹介し、宿命と絶対の世界を生きようと決意するイスラム教徒・インシアッラー(アラビア語で「アッラーの御意志のままに」の意)と、人間の自由な意思と思考とで不確実な世界を放浪しようと決意する近代西洋人の表象たるマックス・ムト(ドイツ語で「勇気」という語に由来する)の生き方を対比させる。「アッラーの御意志のままに」生きて「絶対的な正しさ」に到達するインシアッラーは、世界の大多数のイスラム教徒が共感する人物類型である。[ii] それに対して、ムトは、自由な意思と思考に価値を置く。彼はその代償として、絶対的な真理を手にしたと確信することは永遠にできず、不安の中をさ迷う。これは近代につきまとってきた「不安」であり、「神を失った」西洋近代に対して懐疑や批判が投げかけられてきた所以である。福田恆存は、西洋近代が、神に代えて自己(自意識)を絶対化したことを近代人の不幸の源だとみている。イスラム教の主張は、改めて、西洋近代の「自由」を、そしてそれをやや安直な理解の仕方で受け入れている日本人の生き方を問うているのである。
アーカイバル・ヘゲモニー
第六に、アーカイバル・ヘゲモニーについて。池内氏は、外交史の川島真氏が提唱している「アーカイバル・ヘゲモニー」という概念を示唆に富むものとして紹介している。川島氏は、日本の戦中・戦後の行政文書の保存と公開が不十分であることを憂え、文書がしっかりと保存・公開(=アーカイブが充実)され、将来に歴史事象を説明できるようにすることで、いわば、歴史解釈の「覇権(ヘゲモニー)」を確保できるのだとする。孫引きになるが引用すると「情報公開法と個人情報保護法によって硬く閉じられ、文書廃棄が進む日本が、自らの行動を将来に亘って説明する手段を喪失しつつあるのに対し、アメリカ、イギリスなどではそれを熱心に行う」がゆえに、「東アジア国際政治史なども結局は欧米の視点で語られ」てしまう。日本はこの点で東アジアでも立ち遅れてしまっているという。[iii] 世界に向けて日本についての情報を発信することは重要である。しかしそれは、自分に都合のいい情報を一方的に流すだけでは足りない。都合のいい部分も悪い部分も、文脈や経緯を含めてあらゆる資料と情報とを公開して広く世界の識者に利用させることによって、正確で公平な日本理解が生まれるのだ。私たちは、世界各国がアーカイバル・ヘゲモニーを競っていることを自覚し、行政文書の保存・公開に意を払うべきである。
独自の中東政策?
第七に、「独自の中東政策」なる虚構。日本は欧米と異なり、中東諸国を植民地支配したことがない。かの国々の対日感情も概して良い。これを活かして「独自の中東政策」を持つべきだとの主張がある。しかし実際には「独自の中東政策」なるものは、考案されたこともなく、実施に移されたこともない。それは中東の複雑さへの日本の知識や対応能力が及ばないだけではなく、そもそも本当はその意思すらない、と池内氏は断じる。[iv] 「独自の中東政策」を主張する論者は、日本が置かれている対米従属と中国や韓国の日本敵視という圧迫感から脱したいという希望を想像上の同盟者たる中東に託しているだけなのである。確かに日本は、中東諸国に対して、欧米には立てない独自の位置に立つことが可能であろう。しかし、そのためには、まず、アメリカから独り立ちするという強い国家意思を持たなければならない。私たちはどうありたいのか、中東は日本に問いを発し続けているのである。
若い世代の知的成熟
この本の著者の池内恵(さとし)氏は一九七三年生まれだから、今年三六歳である。若いながら、この著書からは、単にイスラム世界の専門家というにとどまらない幅広い知識と優れた政治的思考力を感じる。その政治的思考は、単純な善悪二元論や幼稚な正義感を振りかざさない。かといって独善的な保守思想に陥ってもおらず、問題意識が明確で論理的である。同じことは、国際政治学者の中西寛氏の「国際政治とは何か」(中公新書)を読んだ時にも感じた。福田恆存が生存していたら、池内氏や中西氏のような日本の若い世代の知識人の知的成熟と複眼思考をきっと喜ぶだろう。
平成二一(二〇〇九)年二月三日