次の文章へ進む
前の文章へ戻る
「古典派からのメッセージ・2009年〜2010年」目次へ戻る
表紙へ戻る


未踏の領域を自ら切り開く時代−日本企業の課題を考える−

 

 

前回取り上げた宮崎智彦氏の「ガラパゴス化する日本の製造業」と同様の問題意識を持つ経営学者は多いようである。日本経済新聞の“やさしい経済学”に、二〇〇九年一月一五日から八回に亘って連載された、一橋大学の延岡健太郎教授の論文「技術経営の神髄と価値創造」も、同様の問題意識から書かれており、日本の製造業のあり方を考えるヒントを与えてくれる。

 

連載第一回では、技術経営には、@「ものづくり」をいかにうまくやるかと、A「ものづくり」をいかに「価値づくり」に結び付けるかという二つのテーマがあるとする。@が必ずしもAに結び付かないことが(つまり製造業の利益率が過去三〇年間に下降傾向が続いていることが)日本の製造業の弱みである。Aの「価値づくり」をうまくやっている企業として、消費財の任天堂、生産財のキーエンスを挙げることができ、それぞれの競合企業であるソニー、オムロンが「価値づくり」に失敗しているのと対照的である。

 

日本の製造業の経営者には、「ものづくり」さえうまくやれば自然に「価値づくり」はついて来ると信ずる誤りを犯している場合と、「価値づくり」ができないため「ものづくり」の手を抜く誤りを犯している場合とがある。日本の製造業には両方が必要なのである。

 

第二回では、モジュール化の弊害について触れる。良いものを開発しても(「ものづくり」に成功しても)結果的に価格競争になり「価値づくり」に結びつかないことが日本の製造業の問題であるが、モジュール化はこの悪循環に拍車をかける。モジュール化とは、製品構造や部品や部品の組み合わせ方を標準化すること。量産効果で劇的なコスト削減が可能になる。モジュール化によって、パソコンのように、部品やデバイスを購入して組み合わせるだけでそれなりの商品ができてしまえば、「ものづくり」での差別化は不可能になる。開発・製造能力が低い企業も参入して価格はさらに下がる。延岡教授も、宮崎氏と同様、米国の薄型テレビ市場で、新興企業のビジオ社が世界中から購入した標準部品を組み合わせて一昨年販売トップになった事例を紹介している。

 

デジタル機器でモジュール化は顕著になり、日本勢は苦戦している一方、自動車では容易に標準化は進まず、かつ日本勢が世界をリードしている。その差は何か。ひとつは、「ものづくり」に内在する差である。モジュール化では設計ルールの標準化が必要となり高度な設計はできない。例えば、デジタル機器でも、大型テレビの超薄型化は、標準部品の組み合わせではできない。そこでは部品間の摺り合わせが得意な日本企業に競争力がある。もうひとつは、「価値づくり」に固有の問題である。すなわち、基本機能を超えた「完璧な品質」、「便利な高機能」といった「ものづくり」に顧客が対価を払うかどうか、である。

 

第三回では、摺り合わせによる高度な「ものづくり」は「価値づくり」の「必要条件」であって、「十分条件」ではない、とする。優れたものづくりに能力に対して、顧客に充分な対価を払ってもらうことが「価値づくり」の十分条件なのである。日本の製造業は「商品の価値とは何か」をもっと理解する必要がある。

 

第四回、第五回では、「価値づくり」について分析し、「機能的価値」と「意味的価値」の違いを明らかにする。機能や仕様の客観的な評価基準決まる価値が「機能的価値」であり、それを超えて、顧客が主観的に意味づける価値が「意味的価値」である。消費財の「意味的価値」は「こだわり価値」と「自己表現価値」とに分けられる。「こだわり価値」は、単なる道具としては必要ない機能や品質でもこだわる顧客は評価する価値である。オーディオやカメラには、こだわり価値に対価を払う顧客が以前から存在した。一方、「自己表現価値」はブランド品や高級車の顧客が認めるような価値である。乗用車は「こだわり価値」も「自己表現価値」も高かった。任天堂のWiiは家族団欒という「意味的価値」をうまく造り込んでいる一方、「機能的価値」は十分高いにもかかわらずソニーのプレステ3は「意味的価値」を十分に創出できなかった。

 

デジタル化は製造が容易になるばかりでなく、消費財の「意味的価値」を減殺する。例えばオーディオはデジタル化とともにかつてのような「こだわり価値」に対価を払う顧客が少なくなった。薄型テレビも同じような危機に瀕している。トヨタなど自動車産業は社会的ステータスや趣味性などの「意味的価値」をうまく付与してきたし、キャノンなどデジタルカメラもデジタル化の中で「意味的価値」を造って高い利益率を維持している。「ものづくり」で尊敬されているトヨタやキャノンは実は「意味的価値」の創出にも長けているのだ。

 

一方、産業財の「意味的価値」は、単純な機能やスペックを超えた「使いやすさ」や「かゆい所に手が届く」価値である。センサーや顕微鏡の分野でキーエンスが高い利益率を挙げ得ているのは、強大なコンサルティング営業部隊が、顧客の現場を顧客以上に知り、顧客自身が気づかない潜在ニーズを掘り起こして提案することにその要因がある。

 

第六回では、「ものづくり」における持続的な差異化を図るには、組織能力が必要だとする。組織能力とは「企業が固有に持つ有形無形の資源とそれを活用する組織ルーティン」である。それは、長年の組織学習の末に蓄積されるものであり、暗黙知、経験知を含むため、短期間で模倣することはできず、ここにこそ、持続的な「ものづくり」の差異化の源泉が存在する、とされる。独自の強みをいかに構築するかが技術経営の中心課題である。

 

第七回では「コア技術戦略」の重要性を説く。液晶技術のシャープ、セラミック技術の村田製作所や京セラ、油脂・界面技術の花王、接着技術や不織布のスリーエムなどは、特定の技術分野で模倣困難な組織能力を構築し、その技術を多種多様な商品の頻繁な開発に使い展開する。このような技術を「コア技術」と称する。技術は特定のものだが、応用範囲を広く展開するので集中リスクは回避される。シャープは、一九七三年に初めて液晶を電卓で商品化して以来、数百にも及ぶ商品を開発し続けた。長期間の試行錯誤から学習した技術者の数も莫大で、結果的に過去十年間の営業利益率は電機業界の中で最高水準だった。このような経営を実現するためには、他社のヒット商品や顧客の潜在ニーズに振り回されない戦略が求められる。

 

この延岡教授の所論と関連して、柴田友厚香川大学教授が平成二〇(二〇〇八)年一〇月九日付「日本経済新聞」の「経済教室」で、日本製造業が得意としている「摺り合わせ能力」を過信するなかれ、と警告している。製造の設計思想として、構成要素間に緊密で複雑な相互依存関係が形成されている(「摺り合わせ」の一般名詞である)「インテグラル型」(典型は乗用車)と、構成要素間の依存関係がルール化され独立性が高い「モジュール型」(典型はパソコン)とがあり、両者は循環的に発展すると述べておられる。乗用車においてもインテグラル型の設計思想が永遠に有利であるとは限らないのだ。

 

実は、こうした日本の製造業のあり方を問う議論は、最近急に始まったわけではない。例えば、バブル崩壊後の不況からようやく脱しつつあった二〇〇四年に、藤本隆宏東京大学教授(当時)と中沢孝夫姫路工業大学教授(当時)は、「『失われた十年』は誤りだ」と題して、以下の趣旨の対談をしている。[i] 

 

“九〇年代は製造業にとっては実り多い時代だった。二〇〇〇年代前半に花開いたプラズマの液晶もテレビも九七年ころに現場で試作が行われていた。競争を続けてきた自動車等では、日々蓄積が進んでいた。

 

中国進出も、(生産性が高く競争力持ち)自信のある企業は生産拠点の棲み分けを考えて国内に残すものは残した上で実行している。そうでない企業は、国内で生産性が低いのに、低賃金の誘因だけで荷物をまとめて出て行き、向こうでも失敗した。日本に残せる分野は「摺り合わせ型」技術で作られる製品。「組み合わせ型」製品は海外移転する。

 

製造業のネックは国内非製造部門の生産性の低さに起因する「一般管販費」の高さだ。総雇用者の一割しか占めない輸出型製造業が残り九割のサービス業などの生産性低い産業を牽引する「一対九構造」は変わっていない。中小企業やサービス業であっても、行政に頼らず補助金を頼まず自分で頑張って成功している事例はある。保護してうまくいったことは無いし、応援団の多い産業はだめになる。競争が無ければ技術革新も起きず企業は強くならない。

 

売り方の工夫も必要だ。「良い品を安く」では競争力があってもいつまでも儲からない(例えば機械産業)。良いものを高く売る、つまりブランド化をもっと進めてもよい。

 

 一時は米国型経営がすべてという雰囲気だったが、今では長期雇用を維持しつつ新しい日本型経営モデルを模索する企業も生まれている。新たな日本型経営を構想する場合、一つの事業の成功者が自分の経験だけで引っぱってゆく会社はダメになりやすい。本社のトップの仕事は戦略を考えること。ジェネラリストでなければならない。日本企業はこういう意識が育ちにくい仕組みになっている。取締役になったら、生産技術をやっていた人に購買部門を担当させ、全社的な最大利益を考えるようにする人材配置を工夫すべき。”

 

 製造業だけではない。こうした課題は日本の産業全般に共通である。平成二〇(二〇〇八)年一〇月七日付「日本経済新聞」の「経済教室」で、黒田昌裕東北公益文科大学長は、日本には優れたものづくり技術やユニークなソフト、ファッションなどのサービスコンテンツがあるのに、それが必ずしも「国富」に結びついていない、と問題提起する。曰く:−

 

“特許登録件数で見ると、日本は米国を超えて世界一の特許大国である。しかし、特許が利益を生んでいるかどうかという観点から大学の特許料収入をみると、米国のトップ大学と日本のそれとでは二桁の差がある。

 

 また、中国で売られている女性向けファッション誌の上位四誌は日本発の翻訳版が占めており、裏原宿発のモードが中国の若者に浸透している。しかし、こうした雑誌に掲載される日本発のブランドは、ほとんど中国には輸出されず中国では売られていない。アパレルの輸入額を一〇〇としたときの輸出額の比率をみると、フランスは四七、イタリアは一五三であるのに対し、日本はわずかに二であるという統計もある。

 

 このように、日本の優れた技術やコンテンツが欧米のようなグローバルなトレンドの発信につながっていないことが、日本経済の成長力の低下や大企業と中小企業の格差(二極化)の一因となっている。”

 

 以上の諸論を見てきても、前回の「ガラパゴス化」に関して指摘したように、日本企業は、短期的収益性をどう確保するかに頭を巡らさざるを得ないとともに、持続可能性のない高利益率よりも、低利益率でも永続的、安定的であることを企業経営の望ましいあり方だとする思想を世界に喧伝する義務がある、と言える。これは日本企業にとって未踏の領域である。

 

藤本氏と中沢氏の対談「『失われた十年』は誤りだ」でも述べられているように、サブプライム・バブル破裂以降、米国型経営の否定的側面も数多く見てきた私たちは、長期雇用を維持しつつ新たな日本型経営を構想しなければならない。そのためには本社のトップが戦略発想力を持つジェネラリストでなければならない。トヨタの奥田碩元会長は、比較的若い頃にフィリピン現地法人のトップとしてジェネラリスト体験したのがその後トヨタ本体の経営者を任された際に有益だった、と述べている。米国型のビジネススクール的プロ経営者ではなく、日本型で戦略思考のできる経営者を如何に調達・育成するか、これまた日本企業にとって未踏かつ重要な課題である。

 

また、延岡教授の論文「技術経営の神髄と価値創造」でコア技術の重要性が説かれ、他社のヒット商品や顧客の潜在ニーズに振り回されない戦略が求められているが、これとて絶対的な「教え」ではあり得ない。ひとつの技術に執着するあまり、時代に立ち後れて衰退することもあり得る。経営の成功に「十分条件」は存在しないのだ。

 

平成二一(二〇〇九)年三月一日

 



[i] 「朝日新聞」平成一六(二〇〇四)年一月一六日