「系列」は特殊か?
「日本経済新聞」二〇〇九年一月三〇日の“やさしい経済学―経営学のフロンティア”において、武石彰京都大学教授は、企業間分業の諸類型について論じている。アダム・スミス以来、分業こそ経済の効率化に貢献した重要な仕組みであるとされてきた。企業間分業の方法としては、伝統的に、「市場」と「組織内」とがあるとされてきた。企業の分業は、「市場」を通じて外部との間で行われるか、または、企業の組織内で行われるかのどちらかであるとされてきた。一九八〇年代になって、日本企業の成功の一因として「系列システム」が世界的に注目され、それは「市場」と「組織内」の中間的な存在として位置づけられてきた。
「系列」同様の中間的分業システムは世界に普遍的に見られる、というのがこの論文の主旨である。トヨタ自動車の「系列」とシリコンバレーの「人的ネットワーク」は、ともに市場と組織内の中間的システムとされる。トヨタ自動車は過去二〇年間ほぼ一貫して系列の部品メーカーから調達量の六割強を調達している。一方、シリコンバレーも、同地の技術者、企業家、研究者の人的ネットワークを基盤とした「市場」と「組織内」の中間的な分業システムであり続けている、と武石教授は位置づける。
武石教授の整理は、一九八〇年代に日本の経済発展の一因としてもてはやされ、一九九〇年代にはその失敗の一因として否定的にとらえられた「ケイレツ」を、世界的視野で比較考究して普遍的なシステムと位置づけるものである。「ケイレツ」は日本だけの特異な分業方法ではなく、「中間的分業システム」として世界に普遍的に見られる「分業のヴァリエーション」であり、そうした「中間的分業システム」の一例が日本企業の成功と失敗を通じて発見されたということである。「系列」は、「市場」と「組織内」の両方の「いいとこ取り」にもなり得るし「悪いとこ取り」にもなり得る。武石教授は「どの分業システムであれ、選択すれば後はおのずとうまくいくというものではない」と述べる。
このように、日本の経験を世界的視野で位置づけて普遍化する、或いはモデル化するという学問の営みは、極めて重要であると私は考える。日本の近代化の経験や政治・経済・社会の仕組みを、単に文化的ユニークネスで説明しようとすると、極端な自画自賛やその逆の自虐的否定を生む。「系列」に対する評価がまさにそうであった。日本を「進んでいるか遅れているか」という縦に位置づけるのではなく、近代諸社会を横に並べて比較し日本の経験の中から普遍的な要素を抽出するという態度が生産的であり、今まさに近代化しつつある国々にとって有用な示唆を示すことになろう。
さらに、武石教授の所論を踏まえて、私が感じたのは、企業間分業の方法として、市場型か組織内型か系列を含む中間型かは、おそらく「選択の問題ではなく、その企業の歴史や社会的条件を反映して決定される」のではないか、ということである。これは、飯尾潤政策研究大学院大学教授が、「日本の統治構造」において、政権選択の方法として英米の二大政党型か欧州大陸の多党連立型かについて論じたことと同じ推定ができるのではないか、という私の直感的仮説である。
平成二一(二〇〇九)年三月六日