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「古典派からのメッセージ・2009年〜2010年」目次へ戻る
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党高政低の禍

 

 

 一月九日付「日本経済新聞」の「大機小機」欄で「与次郎」氏は、現在の民主党政権について掲題の問題提起をしている。小澤一郎幹事長のかねてからの主張を取り入れ、民主党政権では、イギリスに倣って与党と政府の一体化を図ろうとしている。党税調を廃して政府税調に一本化するなどが既に実行されている。自民党時代は、与党と政府とが二元体制であったため、調整に手間取り、責任が不明確になり、族議員の跋扈を許し、かつ、首相の指導力も発揮しにくかったとの反省に基づく。この民主党政権の「議院内閣制における執政頂点の一元化」という考え方自体は評価すべきだと私は思う。

 

 だが、「与次郎」氏が問題視しているように、与党と政府とは完全には一致し得ず、その均衡を取るのは容易ではない。なぜなら、両者の目的が異なるからである。与党の目的は(責任ある政党はすべてそうだが)選挙に勝って政権を維持(または獲得)することである。一方、政府の目的は「国家百年の計を指針として政策を立案・実行し、政策の集大成とも言うべき予算編成を行う」(「与次郎」氏)ことである。選挙で問われるべき「民意」と政府の論理であるべき「国家百年の計」は必ずしも一致せず、民主政治は「衆愚政治」の影を引く。十九世紀後半のイギリスの著名なジャーナリスト、ウォルター・バジェットが健全な世論を形成する上で政府の「教育的機能」を重視した所以である。

 

 「与次郎」氏は、次のように民主党政権における「党高政低」の現実を厳しく批判する:−

 

“さて、現在の日本。選挙に勝つという「党の論理」と国家百年の計という「政府の論理」のバランスは、無惨なまでに失われている。そもそも三党連立の合理的理由はどこにあるのか。基本的な考え方が違う政党の連立は、米軍基地移転問題の迷走を通して外交・安全保障を座礁させた。民主党はマニフェストでも「国民の生活が第一」と謳ったが、安全保障は国民の生活を守る一丁目一番地のはずである。

 九十二兆円を超えた来年度予算も「党の論理」満載だ。税収三十七兆円、国債発行四十四兆円という現実を前にして、消費税は四年間上げないと言うこと自体、国家百年の計に適うものではないのは今や誰の目にも明らかだ。歳出の効率化を目指すなら、農家への戸別所得補償制度は真っ先にメスを入れる対象だが、選挙を前に五千六百億円がすんなり計上された。

 選挙を意識して近視眼的人気取りに陥りがちな与党との緊張に耐え、政府は長期的な視野に立って政策を立案、実行すべきだ。そこで必要なのは「政高党低」であり、首相の指導力だ。”

 

 ではなぜ民主党政権は極端な「党高政低」に陥ったのか。その答は小澤氏の一九九三年の著書「日本改造計画」にある。この本には私も首肯できる部分がある。例えば九〇ページ以下の、中央政府の役割をまずは各種「危機管理」としているのは地に足の着いた議論で、共感を覚えた。しかし、小澤氏の年来の主張である与党と政府の一体化論を論じた一節で、「おやっ」と目に留まったところがある。五九ページに曰く:−

 

“…日本でも、法案について内閣が責任を充分負えるよう、与党側の議会運営の最高責任者、例えば幹事長を閣僚にする。それによって、内閣と与党が頂点で一つになり、責任を持って政治を運営できる。”

 

現在、小澤氏は幹事長だが、何の閣僚にもなっていない。明らかな「有言不実行」だ。民主党で最も大きな影響力を持つ小澤氏自身が「党」の側にのみ身を置き、「近視眼的人気取りに陥りがちな与党との緊張に耐え」るべき「政府」において責任ある立場にないのはなぜか? 小澤氏のこの「有言不実行」こそが「無惨なまでの党高政低」を招いているのではないか。

 

平成二二(二〇一〇)年一月一一日