世論応答と専門知の相克―鳩山政権の金融行政をめぐって(第三回)
第1章 政策事案T.「中小企業金融円滑化法」の制定(承前)
第4節 小括
中小企業金融円滑化法の制定過程から、以下のようなことが観察される。
1.「政治主導」「脱官僚」の建前、形式は保たれていた。
国会答弁および記者会見などの対外アナウンスは、金融庁長官以下の官僚ではなく、殆どすべて政務三役が行った。政権交代後、長官の記者会見は行われていない。政策形成プロセスも、政務三役が庁としての原案を作成し、与党政策会議を経て、閣僚委員会、閣議へと上げてゆく「政治主導」の形がとられた。
2.亀井大臣主導の案件であった。
亀井は、大臣就任前から中小企業の資金繰り対応を喫緊の課題とし、「モラトリアム」という強い言葉で世論を刺激し、金融界の反発を顧みなかった。大塚副大臣も国会答弁で端的に、「この法案作成に当たっては、大臣の強い御指導の下、(中略)昼夜を惜しまずの努力の結果、こうした形になっております」[1] (傍点は報告者)と述べている。
亀井の狙いはどこにあったのか。ひとつは、小泉・竹中「改革」の否定という彼の政治目的を果たすことである。彼は記者会見などで、小泉・竹中「改革」が日本の金融機関の融資態度を消極的にした、と繰り返し述べている。例えば:−
「検査官が怖くて金融機関が震えてしまって、そういうこと(報告者注:金融機関と債務者との信頼に基づく柔軟な貸出条件の変更)をしなくなってしまっている現実が起きている。これは、だけど、検査官が悪いのでもないのです。誤解のないように。これは、小泉・竹中がそういうことをやるように金融庁にやらせてしまっていたからそうなってしまったのです。役人ですから、政治家が間違えたらいけないです」[2]
といった内容である。この法案は、郵政民営化路線の否定と共に、小泉政権に徹底して排除された政治家・亀井の最重要テーマだったのである。
亀井のもうひとつの狙いは、彼の支持基盤でもある地方の中小企業への「得点稼ぎ」であり、選挙対策である。彼は、地元の中小企業関係者が自殺したことを引き合いに出して、この政策が重要であると情に訴えている。[3] 国会での「たとえ一割でも、困った人がいれば対応するのが政治だ」との答弁も、個別利害を重視する亀井の政治観の表れである。筆者は、ある地方銀行の頭取が「資産を秘匿しながら利払いや返済に応じない悪い債務者に限って、金融機関が督促すると『貸し剥がし』だと大騒ぎして金融庁や政治家に駆け込む。しかも彼らは税金も滞納していることが多い」と嘆いていたのを聞いたことがある。亀井金融大臣のもとへ「陳情」に駆け込む中小企業にそうした「悪い債務者」がいないとは限らない、と言ったら言い過ぎであろうか。
亀井は、この案件を主導したが、具体的な中身は大塚や金融庁官僚におおむね委ねた。彼は、「脱官僚」を掲げる民主党とは一線を画し、記者会見などでも、常に、官僚は政治家より優秀であり、彼らをうまく使うことが政治家の役割だと述べている。就任後一ヶ月を経てのメディアの閣僚評で、亀井大臣は次のように評された。
「国民新党の代表という立場と長い政治経験から、他の閣僚からも一目置かれる。返済猶予の検討でも、慎重な対応を求める官房長官や財務相に、『担当大臣はおれだ』と主導権にこだわった。金融庁の職員には『方針に従えない者は辞表を出せ』と言う一方で、裏ではこまやかな気遣いを見せるなど、官僚の掌握術にもたけている。」[4]
いずれにせよ、亀井には、産業の新陳代謝を促すといった金融の果たす機能についての理解は極めて乏しい。
3.法の原案は大塚副大臣が官僚と協力して作成か。
公表された「工程表」では、大塚、田村を中心にした与党ワーキングチームが原案作成に当たるとされたが、原案作成には10日ほどしか時間が無く、与党議員たちがどの程度関与できたか疑問である。状況証拠から見て、実質的には、大塚が金融庁官僚の協力を得て作成したものと思われる。
4.与党内での政策形成プロセスは未確立。
与党政策会議は意思決定機能が無く、その分、政務三役の実質的な決定権限が大きい。大塚自身、この法の成立過程を振り返って、次のように述べている。
感想としては、やはり与党議員の皆さんとのコミュニケーションというか、与党議員の皆さんの意見をどういうふうに反映していくかというのは、今後も大きな課題だな、というのは感想として持っています。今回は割と、4回も政策会議を開けましたし、その間、1か月ぐらい間があって皆さんもこうやって話題にしてくれたから、いろいろな与党議員から政策会議以外の場でもいろいろ注文を受けたりしましたから、結構吸収できたと思うのです。ところが、今後、そんなに話題にならない法案とか、あるいは検討期間が短いものの時に、与党議員の皆さんにしてみたら、気が付いたらもう法案が、原案が決まっていたみたいなケースも想定されますから、これはやはりそういうことが今後の検討課題だな、というふうに思います。(中略)新政権の政策形成プロセス自体も、まだそんなにコンクリートな状態ではないですよね。これからじわっと変わってきますし。今回は政策会議の中に第1次ワーキング、第2次ワーキングというのを作って、という絵でやりましたけれども、前も申し上げたけれども、全てがこのパターンではないし、手探りですよね。[5]
5.国会での討議時間も短く、野党である自民党も精彩を欠いた。
臨時国会では、野党から議事運営について不満が表明され、審議欠席や委員長解任動議の提出があったが、効果的な「抵抗」にはならず、野党としての自民党の「戦術」や「所作」が未確立であることが露呈した。
6.官僚機構は、新政権の路線転換や新政策にも忠実かつ迅速に対応した。
これについては、大塚が国会答弁で端的に次のように述べている。
「この法案作成に当たっては、(中略)政務三役だけではとても対応し切れませんので、金融庁長官以下、事務方の皆さんの本当に昼夜を惜しまずの努力の結果、こうした形になっております」[6]
亀井大臣もまた、民主党の何人かの大臣と違って官僚を排除していない。むしろ使いこなすことをよしとした。
金融庁事務方が政権交代にスムーズに対応できたのは、このように、政務三役が官僚の専門知を活用する必要に迫られたことや官僚排除的でない組織マネジメントのスタイルを採ったことにもよるが、1998年に大蔵省から分離されて以来、小泉政権の竹中平蔵大臣をはじめとする「政治主導」のもとで「世論への鋭敏な応答力」を身につけてきた経験によるところも大きいと思われる。金融庁における「政治主導」の歴史をたどると、以下のとおりである(図表4も参照)。
図表4 歴代金融庁首脳(森内閣以降)
かつて大蔵省時代の金融行政とは、業界指導、業界調整であった。政治やメディアに対して様々な対抗カード、対抗するためのリソースを持っていた旧・大蔵省と異なり、リソースを持たず丸裸にされ、ひたすら金融への管理監督の責任を負わされた金融庁は、政治や世論の圧力に極めて敏感で弱い存在になった。特に、小泉政権時代に金融担当大臣となった竹中平蔵は、「霞ヶ関」と対峙し、「政治主導」で行政方針を大きく変化させた。竹中時代に金融庁長官だった高木祥吉の事績に、その変化に対する官僚機構の対応ぶりがよく現れている。柳澤伯夫大臣時代に金融庁長官に就任した高木は、柳澤が小泉首相に更迭され竹中が金融相になった当初は、資産査定を厳しくし金融機関に強硬な姿勢で臨み、積極的に公的資金を注入する竹中路線に反対していた。次のような当時の新聞記事がそれを裏付ける。
<記事@>
金融庁は二〇〇四年度までの問題解決目標を「達成できる」(高木祥吉長官)と明言、公的資金の再注入にも否定的だ。[7]
<記事A>
(当時竹中らが練っていた金融再生プログラム案について)「繰り延べ税金資産」の上限引き下げ案といった「劇薬」に対し、高木祥吉金融庁長官は「経過措置が必要です」と反対した。しかし、竹中氏は「政治的決断だ」と押し切り、そのまま夜9時前、首相官邸に向かった。[8]
<記事B>
登庁した竹中氏を一時間も前から高木氏ら金融庁幹部は待ちかまえ、税効果会計の見直しに、より長い猶予期間を設けたりして、銀行経営への影響を小さくするなど、対策の衝撃度を弱める道を残すよう説得しようとした。だが、金融庁の従来路線に否定的な竹中氏は納得せず、朝の話し合いは物別れに終わった。[9]
<記事C>
竹中氏は、(金融再生プログラムを成立させる)短期決戦には秘密主義しかないと、木村剛KFi代表ら一部の特命チームだけで加速策の策定を急いだ。金融庁幹部は対抗策として「事務局案」を作り、高木祥吉金融庁長官が官邸に持ち込んだものの、退けられた。[10]
しかし、「首相主導」「政治主導」を徹底させていた小泉・竹中のもと、高木長官以下金融庁官僚機構は、竹中行政を担うほかなく、次第にその強硬路線、金融機関に対する強圧的姿勢に慣れ、むしろそれに徹することで自らの「存在意義」を見出したようである。その間の心理をある金融庁関係者はこう語る。
「90年代末、東京地検特捜部が摘発した接待汚職事件で金融検査官への信頼は地に落ち、金融監督機能は大蔵省から切り離され金融庁へ移管された。金融検査官の誇りは失われ、方向性を見失っていました。竹中大臣のもとで、これまで指導相手だった金融業界が、検査を通じて対峙する存在となった。そうするうちに、汚職事件の後遺症は薄れていった。」[11]
結局、金融庁は幹部以下、竹中路線の行政に邁進することになり、竹中が掲げた不良債権処理の半減という目的達成に貢献したのである。金融庁退官後の2006年、高木は、竹中によって民営化された「ゆうちょ銀行」の社長に抜擢されている(2009年、亀井大臣就任後、西川善文日本郵政社長らと共に退任)。
金融庁が「対立する怖い存在」であることを金融業界に決定的に知らしめたのが、竹中時代の2004年10月、UFJ銀行が検査忌避で刑事告発された事件だった。その頃の他行への検査でも「UFJ銘柄(UFJが主力行となっている企業)」への査定は殊のほか厳しく、UFJを追い込む意図が感じられた。
また、金融庁は、この頃から、「金融自由化の中の投資家・預金者・保険契約者保護」の観点からも金融商品取扱業者への監視を強化するようになり、業界トップから名もないファンドまで、毎日のように行政処分を下すことから、「金融処分庁」と呼ばれるようになった。こうした利用者保護行政に見られるメリハリの無い膨大な「処分」も、利用者の視線やその背後にある政治や世論への過敏なまでの応答が「習い性」になった結果である。金融庁は、政治や世論に対して極端に弱く、一方、メガバンクからFX業者に至るまでの監督対象業者に対してはsuper powerfulな性格になったのである。
その後、2006年以降、市場機能と規制緩和を重視する山本有二大臣や佐藤隆文長官によって、金融機関の自主性を尊重する旨の「ベター・レギュレーション(金融規制の質的向上)」路線が打ち出されたが、山本大臣の後任で「脱官僚」を標榜する渡辺喜美大臣のもとで、必ずしも長官以下の意図通りに自由化路線は進まなかったように思われる。金融機関との意思疎通は改善せず、金融監督の現場にも大きな変化はなかったように思われる。竹中や渡辺といった官僚敵視路線の大臣が座ったことにより、金融庁官僚は、その専門知を生かして長期的視野で金融の将来像を描くといったことよりも、その時々の政治家と世論の意向に鋭敏に応答することが徹底されていったように思われる。
2008年9月のリーマンショックで世界的に金融機能が麻痺し、中川昭一大臣のもと、またしても「政治主導」で金融行政は大きく転換される。10月に金融検査マニュアルが改訂され、不良債権として処理する基準が緩くなり、引当不足の指摘は少なくなった。また、株式や国債の含み損を自己資本から差し引かなくていいといった緊急避難措置が講じられた。[12] もっとも今回は日本だけでなく世界各国とも国を挙げた「粉飾」に走ったのである。
鳩山政権は、金融行政については、この麻生政権での「緊急避難」路線を継承している。「情の人」亀井大臣は、就任後、最優先に「中小企業金融円滑化法」を成立させ、金融検査マニュアルをさらに改訂して、企業も金融機関も倒産させないとの「決意」を表明した。当時、金融庁長官を退官し顧問だった佐藤隆文が「亀井金融相のモラトリアム騒動には心底うんざりしていた」(金融筋)[13] というが、大方の金融庁事務方は、亀井大臣の意を戴して2009年末の民間資金繰りに間に合わせるべく、政権発足後3カ月足らずで法から金融検査マニュアルに至るまで整備し終えたのである。こうした「迅速な対応」ができたのも、竹中以来の「政治主導」に慣れて、路線は180度変わっても政治の変化に鋭敏に応答できる「力」が身についていたからである。
7.経済学界、金融学界からは「中小企業金融円滑化法」への批判が多い。
その典型は、櫻川昌哉慶応義塾大学教授と星岳雄カリフォルニア大学サンディエゴ校教授の連名コメントである。これは、有力金融学者たちの「金融監督政策研究会」の提言の概要でもあるという。櫻川・星両教授の趣旨は以下の通り。
貸出条件変更は金融機関の努力目標にとどまったとはいえ、この法案には以下のように問題が多い。
@既存の保証制度が適用を受けない企業にまで拡大された保証制度が、貸し倒れリスクを政府に負わせる金融機関のモラルハザードを惹起する。
A政府による過剰な信用保証は、信用リスクと金利の関係を不明確にし、金融機関のリスク管理力や収益性を歪める。
B金融庁の強い指導のもとに返済猶予の条件変更が行われれば、金融機関は新規顧客開拓に慎重になり、新規融資が萎縮してしまう。
C返済猶予を求める企業への新規融資が滞ることを恐れて、健全な企業がこの制度を使わず、結局制度を使うのは返済見込みのない企業ばかりということになりかねない。健全な企業を守るはずの制度の趣旨とは逆の効果が生じる。これを経済学では「逆選択」という。
D制度の適用に際して金融機関の貸倒引当を軽くするというような金融検査マニュアルの「場当たり的な」改訂は、日本の金融システムへの不信感を募らせる。
金融庁のアンケート調査によれば、資金繰り悪化の要因として中小企業が挙げるのは、第一に「販売不振・在庫長期化等の営業要因」である。次いで「金融機関の融資態度」だが、建設業・不動産業以外では少数意見にとどまる。多くの中小企業で資金繰りを悪化させているのは事業不振なのであり、中小・零細企業にとって問題の核心は、貸し渋り・貸し剥がしではなく、収益力の低迷である(図表5参照)。
従って、必要なのは、今回の中小企業金融円滑化法のような貸し渋り対策それも政府の介入を拡大するような政策ではなく、収益性の高い新規企業の参入促進であり、金融機関の新規企業に対する適切な審査と融資行動である。既存の企業を保護する政策は、しばしば新規企業の参入を妨げている。[14]
櫻川・星両教授の指摘の第三点に、「金融庁の強い指導のもとに返済猶予の条件変更が行われれば」とあるが、金融機関へのプレッシャーは明らかである。亀井大臣も記者会見でしばしば金融機関の「社会的責任」を強調、大塚副大臣も次のように、検査でチェックするとプレッシャーをかけている。
「いずれにしても後々検査に入るわけですから、その申込件数と実際に応諾した件数に基づいて、それについての検査に入るわけですから、それなりの対応をしていただけるものだというふうには思っています。」[15]
一方、巷では、当の中小企業主からも、櫻川・星論文を支持する次のような指摘がなされている。
大阪市内で大手電機メーカーの精密部品を製造する下請け会社の社長は言う:−「(貸出条件の変更を)申し出るなんて、白旗揚げるようなもの。自分からつぶれますって宣言しているに等しい。まともな企業なら、まず申請しない。」むしろ社長が心配するのはその副作用だ。「モラトリアムが効果を発揮したら、却って淘汰されるべき企業を延命させることになってしまう」と。それは、結果として日本経済の再生に逆行することにもなりかねない。[16]
図表5
8.もう危機ではなくなってから危機対応を政治的に演出した政策である。
2008年末の世界的な資金繰り危機における「緊急保証制度」や「セーフティネット貸付」はタイミング的に意味があった。しかし、世界的に市場混乱が収束しつつあった2009年春以降、「緊急保証制度」の利用さえ減ってきており、2008年末のピーク時には1日に2700億円の保証承諾があったのが、2009年9月は最高額でも1日900億円だった。政府の保証承諾累計は2009年9月末までで14兆5000億円と、確保した保証枠30兆円の約半分の利用率であり、枠は充分残っていた。[17]
主要国が危機対応策の収束(出口戦略)を模索するなか、なぜ市場機能を歪めかねない危機対応策の強化を最優先課題とするのか、政策策定過程で充分な説明はされていない。亀井大臣の「政治信念」ないし「情」または「選挙対策」という世論応答以上の説明はついに聞かれなかったのである。
[1] 第173回国会・参議院財政金融委員会(2009年11月26日)会議録より
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/173/0060/main.html
[2] 金融庁ホームページ中「活動について」の2009年9月29日亀井大臣の記者会見記録より
http://www.fsa.go.jp/common/conference/minister/2009b/20090929.html
[3] 同上
[4] 「朝日新聞」2009年10月17日
[5] 金融庁ホームページ中「活動について」の2009年10月30日大塚副大臣の記者会見記録より
http://www.fsa.go.jp/common/conference/vice_minister/2009b/20091030.html
[6] 第173回国会・参議院財政金融委員会(2009年11月26日)会議録より
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/173/0060/main.html
[7] 「日本経済新聞」2002年9月13日
[8] 「朝日新聞」2002年10月23日 ( )は報告者補
[9] 「日本経済新聞」2002年10月23日
[10] 「朝日新聞」2002年10月31日 ( )は報告者補
[11] 「ZAITEN」2010年3月号
[12] 「金融ジャーナル」2010年2月号p19
[13] 「FACTA」2009年12月号(ポリティックス・インサイド)
[14] 「問題多い中小企業金融円滑化法案」〜「日本経済新聞」2009年11月13日の「経済教室」より要約
[15] 金融庁ホームページ中「活動について」の2009年10月30日大塚副大臣の記者会見記録より
http://www.fsa.go.jp/common/conference/vice_minister/2009b/20091030.html
[16] 「日経ビジネス」2009年12月14日号p30
[17] 数値は「日本経済新聞」2009年10月7日による