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「古典派からのメッセージ・2009年〜2010年」目次
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自由をよりよく生きるために

 

 

http://www2s.biglobe.ne.jp/~ubukata/20130324.files/image001.jpg皆さんこんにちは、今ご紹介いただいた生方です。私はこの岡崎高校を昭和五十年に卒業したOBです。今から数えてかれこれ四十年近く前になります。今日、この校舎、体育館を訪れることができ、四十年前とあまり変わってないので嬉しく思いました。

 

 はじめに私の今まで高校時代から辿ってきたいろいろな経験を少しお話してみたいと思います。あそこにいらっしゃる進路指導のF先生は私と同じ学年で、一年生の時に同じクラスだったと思います。それから今もバリバリの現役で活躍しておられる音楽のKS先生は私が高校生の頃はまだ若くてきれいな先生でみんなの憧れの的でした(笑)。

 

私にとって高校時代というのは第二の誕生の時期だったと思います。皆さんも今はあまり自覚がないかも知れませんが、将来この岡高で過ごした三年間を振り返ってみると、自分が形成された第二の時期だというふうに感じると思います。ここは自己形成のとっても大切な場所で、先生方あるいは友達の影響を強く受けて自己形成をしました。特に私はその頃、歴史とか古典というのが好きになり、それもやはり親しい友人の強い影響であったと思います。一年生の頃は明治の古典とも言うべき夏目漱石が好きなり、漱石の作品はあらかた読みました。また、「伊勢物語」とか「平家物語」という日本の古典も大好きな書物でしたし、高校二年の時には中国の古典も非常に好きになりました。「論語」は孔子が語ったことを弟子が記した書物ですが、今の私のように五十六歳くらいになると書いてあることがとても素直に心に染みてきます。ただ高校生ぐらいの時期は「論語」というのはいわば秩序を作った人の優等生的な人生訓だというような感じがして、私は「論語」よりも孔子に反抗したり、ちゃかしたりしていた老壮思想が好きになりました。夏休みの宿題の読書感想文で「荘子」を読み、毎日新聞主催の読書感想文コンクールで文部大臣賞をいただきました。

 

僕がなぜ荘子に惹かれたかということですが、高校一、二年の頃は特に自分が将来何をやりたいんだろうとか、あるいはどういう人間になりたいんだろうとか、結構いろいろと悩んでいたような気がします。そういう時に「荘子」を読むと、人間というものはどんなに貧しかろうとどんなに病弱であろうと、あるいは社会的地位がない人間であろうと、そんなことは関係ないんだと、もうはるか遠い宇宙から眺めればそんなことは大したことではなくて、そんなものを超越した精神の自由というものを伸び伸びと味わったらいいじゃないかというようなことを言っているわけです。これは当時の私にとっては非常に驚きであり、二千何百年も前の中国大陸でそういう発想をしていた人がいたということで感動を覚えて感想文を書きました。自分がどんな身分であろうがどんな境遇であろうがそんなものを超越して精神的な自由を楽しめばいいじゃないかという心境になれる人っていうのは現実世界の人間ではあまりいないと思います。でも時々そうやって自分の身の回りのこととか、自分自身が悩んでいること、そういうことを遠いはるか彼方から眺めてみるというのもいいんじゃないかなというふうに今でも思っています。

 

http://www2s.biglobe.ne.jp/~ubukata/20130324.files/image002.jpg三年生になると進学ということになり、どこの大学に行こうかといろいろ考えました。僕の場合は最初から京都大学に行きたいというふうに心に決めて、現役の時は残念ながら不合格に終わりましたので一年河合塾に通い京大に入りました。なぜ京大に行こうかと思ったかといいますと、日本には東大、京大という二つの優秀な大学があるわけですが、私は京大の学問というのはどちらかというと日本のオリジナルな学問を自分達の手でつくっていこうという発想が非常に強い大学だというふうに思いました。ノーベル賞というのも東大よりも京大の方が取っている人が多いです。というのはやはり単なる輸入学問、欧米から入ってきた知識を翻訳してそれを日本に適用するというような形の学問、これは明治以来日本が発展した理由ではあるんですが、そうではなくて自分達が世界を観察して得られたオリジナルの知識で学問を構築しようと、欧米理論に頼らずに自分達でオリジナルの学問をつくろうと、そういう発想というのが昔から京都大学にはあります。

 

私は本当は当時の京大の人文科学研究所の先生方、今西錦司先生とか梅棹忠夫先生とか会田雄次先生といった人たちに憧れていましたので、人文科学研究所を目指して文化人類学を志望していましたが、それでは飯が食えないという周囲の猛反対に押し切られて(笑)、結局法学部に進みました。父方の祖父は私に医者になって欲しかったようです。今ではどうか知りませんが、当時のこの地方では成績のいい子は医学部か工学部へ行くのが標準的な(?)考え方だったように思います。さて、法学部というところは大きく言えば法律の解釈学と政治学に分かれてます。私はどちらかというと法律解釈学よりは政治学とか経済学に興味があり、将来は中央官庁の行政官かあるいはビジネスの世界に入って、まず現実世界で起こっていることを身をもって体験したいという思いもあり、政治経済を勉強しました。京大はなんといっても全国のいろんな俊才やら秀才やら天才が集まってきていました。いろんな意味で優れた能力を持った人が全国から集まってきたのを目の当たりにしまして、俺はいったい何になれるのだろうかということで大学の一、二年生のうちは非常に悩んだというか落ち込んだ時期がありました。今風の言葉で言えばアイデンティティー・クライシスというようなことだと思います。この危機をどう乗り越えたかはあとでお話しします。

 

大学の三年になるとゼミが始まります。私は行政学の村松岐夫先生のゼミに入りました。当時新進気鋭の村松先生は、政治家、官僚、圧力団体へのアンケート調査を行い、日本の政治的意思決定を誰が実質的に担っているかを実証的に研究していました。村松先生の立派なところは、そのアンケート調査を一回きりではなく、その後も十年おきくらいに既に三回実施し、いわば日本の政治的意思決定についての「定点観測」を続けてこられたことです。主義主張の前にまず「事実は何か」を明らかにせよ、というのが先生の教えでした。これはその後の私の実務生活や研究生活にも有益でした。さて、四年の夏になると、就職活動をしなければなりません。私はさっきも申しましたように、ビジネスの世界で働いてやろうという気持ちがありました。銀行を選んだのは、銀行という職場は狭い分野ではなくて大変大勢のお客さん、個人のお客さんもいらっしゃいますし、それから貸出とか投資などを通じていろんな業種の大企業から中小企業まで様々な企業とお付き合いをします。銀行の仕事にはそういう「世界の広さ」が感じられました。その中で私は「少数精鋭」というキャッチフレーズに惹かれて日債銀(日本債券信用銀行)という銀行を選んだ訳ですが、特に当時は日本の金融機関が海外に出て行った頃ですので、国際的なプロジェクト・ファイナンスだとか、シンジケート・ローンだとか社会的に意味の大きい仕事ができるということでその道を選びました。

 

実際に就職以来、資金調達や貸出やマーケット業務など、国際的なことも含めていろんな仕事をさせてもらいました。私にもし社会的能力があるとしたら、それはほとんど日債銀での仕事によって身につけたと言ってもいいでしょう。ところが一九八〇年代の半ばを過ぎますと日本はバブルの時代に入ります。バブルというのは後で説明しますけども、とにかく高級品やブランド品がたくさん売れて世の中が酒に酔っぱらったように景気のいい時代です。ところがバブルというのは必ず破裂することになっていまして、現に日本のバブルも九一、九二年頃には破裂しました。バブルが破裂しますと借金していろんなものを買っていた人が借金だけが残って困るという状態になります。そうすると金融機関にとっていえば貸していたお金が返ってこないということになり、日本中の金融機関、特に大手銀行の経営が悪くなりました。私の勤めていた日債銀も一九九八年に経営が悪化いたしまして最終的には国の出資を仰いで国有化するというような、銀行の失敗というのを経験しました。私の持っていた日債銀の株券も紙くずになり、会社の経営が悪くなるというのはこういうことだということを身をもって感じた次第です。

 

http://www2s.biglobe.ne.jp/~ubukata/20130324.files/image003.jpgその後私の勤務先の銀行は国有化から民間企業を株主として再出発し、そこに引き続き勤務していましたが、二〇〇八年にリーマンショックが起こり、じわじわと景気が悪くなり、トヨタ自動車も売上げがガクンと落ちて、創業以来でしょうか赤字決算をするというようなことになり、日本にも最終的には非常に大きな影響がありました。私はほんの十年前に日本で金融危機が起こったのにまたなぜ十年後にアメリカであるいは世界で同じような危機が起こるんだろうかと、ある意味銀行というところに勤めていて腹立たしいというか悔しいというかなぜだろうという気持ちを拭えなかったわけです。その他諸々個人的な事情もありまして二年前に銀行を退職しました。そこで私が今何をやろうとしているかということですが、自分が金融危機に立ち会った、それから十年してまた同じようなことが起こった、こういったことを後の世にきちんと教訓として伝えていかなきゃいけないというのが今の私の持っている問題意識です。それをきちんとした経済学というフレームワークの中で後世に伝えられるようなものをつくっていこうということで、今、リサーチ&コンサルティング業をしながら一橋大学で金融システムについての研究生活をしています。

 

 それでは前置きが長くなりましたが、今日は前半と後半と大きく分けて二つの話をしたいと思います。

 

 一つは今申し上げたような金融システムと金融危機、金融危機が起こるとどんな影響があるかということ、さらに金融危機というものが繰り返し起こっていてそれはなぜかというお話をしたいと思います。後半はガラッと変わりまして、同じ歴史から学ぶということですが、この三河の歴史ということから私がいかに力を得たかということ。そのことでアイデンティティーを確立してきたこと。そうした私の経験、知識などを踏まえて最後に皆さんにメッセージをお送りしたいと思っています。

 

http://www2s.biglobe.ne.jp/~ubukata/20130324.files/image004.jpg はじめに金融システムと金融危機ですが、金融システムというのは簡単に言えば、お金が必要な人とお金が余っている人を仲立ちする仕組みです。経済にとっては血の流れのように循環しているものだというふうに言われます。金融システムは預金とか貸出とかいった商品を通じて銀行とか保険会社とか証券会社といった金融仲介機関が担っています。さらにマーケットというのがあり、東京証券取引所だとか外国為替市場といったような市場でいろんな取引が行われます。貯蓄というのは銀行に預けたり証券会社で株式を買ったりいろんなことがあるわけですが、例えば皆さんのお父さんやお母さんが百の給料のうち二十を岡崎信用金庫に預けたといたします。そうすると岡信さんはその二十というお金を金庫の中にしまっておくのではなくて企業に対して貸出をしたり投資をしたりということでこの経済体系の中でおカネが回っているのです。企業はお金を借りたり出資者からお金を得て設備投資をしたり新たな商品を開発したりするということです。ですからお金というのは消費と賃金でもぐるぐる回ってますし、貯蓄されたお金がさらに貸出しや投資という形で企業に回るということでぐるぐる回っているわけです。金融危機というのは何が起こるかというと結局ここが駄目になってしまう。つまり銀行が破綻してしまったり、あるいは証券市場が暴落して取引ができなくなってしまう。ここが麻痺してしまいますとお金が流れなくなってしまう。つまり血流が止まってしまうわけです。ですから金融危機というのは金融システムに著しい機能不全が起こること。具体的には銀行などが破綻したり、証券市場が暴落したりするというようなことです。さっきも言ったように直近では二〇〇八年を頂点とするグローバル金融危機というのが起こりました。それから十年前の一九九八年には私も当事者でありました日本の金融危機というのが起こりました。でこれらに共通なことがありまして、不動産の価格というのが異常なほど高騰いたします。それがやがて弾けて企業や家計の借金が返せなくなって金融機関がおかしくなるというのが金融危機というもののメカニズムです。金融危機が起こるとどういう悪い影響が社会にもたらされるか、具体的に二つに分けてご説明したいと思います。

 

http://www2s.biglobe.ne.jp/~ubukata/20130324.files/image005.jpghttp://www2s.biglobe.ne.jp/~ubukata/20130324.files/image006.jpg 一つは取りつけが起こるということです。銀行の経営状態がよくないということになるとみんな銀行の窓口に押し寄せて預けているお金を払い戻そうとするわけです。そういう状態が起こりますと社会的、心理的に非常に不安な状態が起こります。これは一九四六年のアメリカ映画「素晴らしき哉、人生」という映画の一シーンです。ここに立っているのがジェームス・スチュワートという俳優が演じている主人公で、彼は大学を出て世界中を冒険旅行しようとしていたんですが、田舎で銀行を経営しているお父さんが倒れてしまって自分がこの田舎の銀行を継いだわけです。ところが運悪く一九二九年の大恐慌が起こりまして、この田舎の銀行も経営がおかしくなって、そこでこのように窓口に預金者が押し寄せて、俺のお金を返してくれと言って主人公が呆然としているというシーンです。これは私が勤めておりました日債銀が破綻した翌日、行員たちが侘しげに肩を落として通うという写真が当時の新聞に載りました。このように銀行の経営がおかしくなると社会的に異様な不安心理が広がります。

 

 それから二つ目に悪いことといいますか、非常に問題なのはみんなお金を払い出しに来てしまいますと銀行はお金が無くなってしまいます。そうすると本来は貸出をしなきゃいけないのに貸出ができなくなる。貸し渋りという言葉を使います。そうすると結局血流が止まってしまいます。血流が止まると企業が思うようにお金を使えなくなって景気が悪くなります。景気が悪くなると銀行にとって返ってこないお金が多くなってますます銀行の経営が悪くなる。銀行の経営が悪くなるとまた貸し渋りが起こるということでどんどん負のスパイラルに経済が陥ってしまうということです。リーマンショックの後は、トヨタのような企業でも世界的な景気の悪化の影響で赤字になったりするというようなことが現実に起こるわけです。金融機関が悪くなりますと政府が出動します。政府が出動すると今度は国の財政が悪くなります。極端な場合には今新聞などでいろいろ報道されているようなギリシャのように国の借金が返せないというような状態になってきます。ギリシャの問題ももともと国の借金が多かったわけじゃなくて、二〇〇八年のグローバル金融危機で銀行がおかしくなったことの波及効果でこうなっているわけです。

 

実は金融危機というのは希なことではなくて歴史上繰り返し起こっています。ラインハートとロゴフという二人の経済学者が書いた本によれば、十九世紀以来二百十年ぐらいの間で金融危機と呼ばれるものが三百数十件起こっています。なぜ金融危機やその原因となるバブルが起こるかというと、海外からお金が異常な勢いで入ってくる。それから住宅価格が異常な勢いで上がる。それから民間の銀行などの貸出量が異常に増える。こういったいろんな異常な経済指標の伸びがバブルであり、金融危機を引き起こす共通要因だというふうに彼らは言っています。もうじきバブルが来そうだというのは、例えば住宅価格の状況であるとか、あるいは銀行の貸出量だとか、こういう経済指標をよくチェックしておれば、もうバブルなんだとか、もうここまで来たらバブルが弾けるぞというような警戒警報というのを出すことがある程度はできます。これは経済データを分析すればかなりわかっているわけです。それにもかかわらずなぜ十九世紀以来三百何十件も危機が繰り返し起こってきたんでしょうか。これはまさに「今回は違う症候群」による、とラインハートたちは述べています。つまりもうバブルが来てるよというのはいろんな経済指標を見ればある程度わかるわけですが、人々はそれを忘れてしまったり、あるいは今回は違う、前回はバブルが崩壊しておかしくなったけど今回日本経済はものすごく強いから大丈夫だとか、もうアメリカは景気循環を脱却したから大丈夫だというような、「今回は違う」というようなことをみんな主張し始めます。それで同じ失敗を繰り返すというふうに言われています。つまりいくら精巧な危機の予知指標を構築しても結局それを使わなくなってしまう。つまり人間がそれを忘れてしまったり、今度は大丈夫だというような傲慢さですね。健忘症とか傲慢さとか、そういったものを人間が持っている限りは経済学が何をつくっても使わなければ意味がないわけです。

 

 従って、前半の結論は経済学とともに人間学というのを学ばなければ我々はものごとを解決できない、あるいは同じ過ちを繰り返すということです。実はこれは経済学に限ったことではありません。地震の予知であるとか、あるいは成人病の予防といったような自然科学に関することも全く同じです。

 

http://www2s.biglobe.ne.jp/~ubukata/20130324.files/image007.jpg ガラッと話題が変わります。皆さんこの人物、誰だかご存じですか。はいそうですね、これはここ岡崎が生んだ英雄、徳川家康です。この絵を見ますと何かこう顔をしかめたような、何か困惑したような変な表情をしています。これはどういう絵かといいますと、家康がまだ若くて浜松城にいた頃に甲斐の武田信玄がいよいよ京都に攻め上るということで東海道を上って来まして、浜松城の郊外を通り抜けたわけです。信玄は当時戦国大名の中で圧倒的な武力を持っていまして、家康はまだ全然それに及ばないような兵力しかなかったわけです。そういう時はひたすら浜松城に籠城して通り過ぎるのを待つというのが戦の常道なわけですが、家康も若くて、このまま城に籠って通り過ぎるのを見過ごすのは武門の名折れだということで浜松城を出まして郊外の三方が原というところで信玄の軍勢を迎え撃ちますが、木っ端微塵にやられてしまいます。家康はもう命からがら二,三人の供と浜松城に逃げ帰るという大敗北を喫します。この絵は、実は浜松に逃げ帰った直後に自分のこのみじめな姿、敗北した後のこの焦燥しきった様子というのを絵師に描かせて家康は生涯ずっとこの絵を持ち続けたと言われています。顔をしかめてますので顰(しかみ)像というふうに言うそうです。何が言いたいかといいますと、無謀な迎撃で大敗北を喫して命も落としそうになったというこのみじめな自分の姿を描かせて、時とともに沸き起こってくる傲慢さとか、あるいは物忘れですね、要は教訓から学ばないというようなことがないように、家康は自分の経験から学ぼうとしたということです。これはさっきの金融危機のお話でもわかるように、家康は自分の弱さというものを自覚して、それをなんとか克服しようと努力をしたということです。

 

 司馬遼太郎が書いた随筆に「忘れられた徳川家のふるさと」があります。これは豊田市の松平町を司馬遼太郎が訪ねた時のことを書いたものです。その中で彼が鳥居忠吉という人物のことを書いています。家康が十三歳か十四歳の頃で、鳥居忠吉はもう八十を越えた老武将だったそうです。当時、家康は今川義元のところに人質になっていました。人質になって空いていた岡崎城を守っていたのがこの鳥居忠吉他の重臣達です。鳥居忠吉は家康のために今川家の目を盗んではこつこつと兵糧米やらお金を貯めて岡崎城の奥深いところに貯蓄をしていました。家康がたまたま里帰りした時に、その金庫に案内して「殿がやがて自立される時にはこのお金や兵糧米をお使いなされよ」と言い残して亡くなったというような話をこの随筆の中で司馬遼太郎が紹介しています。私はこの話非常にいい話だと思いまして、つまり鳥居忠吉というような重臣であれば家康を裏切って自分が岡崎城を乗っ取ってしまうというようなこともできたわけですがそうしなかったんです。少年だった家康のためにこつこつと銭や米を蓄えていた。私はこうした人を裏切らない律義さとか誠実さ、とにかくこつこつと努力して知識を蓄えるあるいはお金を貯める。こういった気質というのがやはり最終的には家康とかグローバルな自動車会社になったトヨタ自動車を生んだ元になっているのだろうと思いました。さっき申しましたように、私は大学生時代、周りの天才や異能達に押されて自分が非常に小さいものだというふうに感じていました。ところがこうして故郷に残されているいろんな遺産ですね、いろんな意味での人物遺産というのを知れば知るほどああこれでいいんだと自分は自分の道を行けばいいんだということでさっきのアイデンティティ・クライシスというようなものを克服できたという記憶があります。歴史に学ぶというのは自分のアイデンティティを確立することです。

 

皆さんも世界史や日本史で年号とか出来事を覚えるというのも大事ですが、もっと歴史を楽しんだ方がいいですね。伝記とか物語、つまり人間がいきいき活躍するようなドラマというのが歴史です。司馬遼太郎の歴史小説は明治や戦国時代、塩野七生さんの物語はローマ史ですね、古代ローマとか地中海世界の歴史を書いたもの。それから私が数年前に放送大学で政治学を学んだ時の指導教官だった御厨貴先生の「歴代首相物語」、これはあまり知られていない本なんですが、日本の総理大臣初代の伊藤博文から小泉純一郎首相まで、歴代の首相の事跡を二,三ページずつ人物史としてうまくまとめてあります。これはおもしろいので日本史のサブテキストとして是非読まれたらいいんじゃないかと思います。歴史に親しみ歴史に学ぶことは出自への根源的な自信と誇り、アイデンティティを養ってくれます。

 

 最後にまとめます。皆さんの世代というのはおそらく自由をどういうふうにうまく使っていくかということが私達の世代よりも遥かに大事な課題になると思います。例えば私が高校生の時は携帯電話なんていうものはありませんでした。ですから彼女と連絡を取るには彼女の自宅に電話するしかないわけです。そうすると当然お父さんかお母さんが取り次ぎで出てきますね。彼女の家に電話するのにもう一大決心がいるわけです(笑)。携帯のおかげで皆さんにはそういう苦労がない。いわば不便からの自由というのを得ているわけです。それから私が就職した頃はまだ寿退社なんていう言葉が生きていまして、大体女性は会社に入っても結婚したら、あるいはお子さんができたら退職をするという社会習慣がありました。もちろん今はそんなものはありません。働くのも自由だし、出産・育児に専念するのも自由です。つまり今の人達、皆さんははるかに選択肢が多くて自由度が増えています。ただ自由度が増えているということは、それだけ迷ったり悩んだりあるいは不確実な世界を生きていかなくてはいけない度合いが増えるということでもあります。つまり人生がある程度決められていれば自分の進路について悩む必要はないわけですが、皆さんはその折々にいろんな選択をしていかなくてはいけません。そういう苦労があるわけです。現代社会は複雑さと不確実性が増していますので、その中で自由をよりよく選択してよりよく生きていくためには知識とともに智恵が必要だということです。知識というのはいろんなことを勉強することで身につきますが智恵というのはどうやって身につけたらいいんでしょうか。人間が智恵をつけるには要は過去のサンプルしかないわけです。ですから私は智恵を学ぶためには歴史が大事であるし、「歴史に連なる自己」という感性を持つことが若い人にとっても大切なのではないかと思っています。

 

 ここで一つクイズですが、日本人が英語で書いた著書のうち世界で一番読まれているものは何だと思いますか。例えば村上春樹の小説って基本的に日本の読者を対象に日本語で書かれています。でも世界中で人気がある。翻訳されて読まれる。まあこれはこれでいいんです。でも最初から英語で日本人が書くということは日本人の読者をターゲットにしているわけじゃないわけです。世界の、あるいは欧米の読者を最初から念頭に置いて書かれた書物です。実は次の四つが日本人が英語で書いたベストセラーだと福田和也さんが紹介しています。それは、岡倉天心の「茶の本(Book of Tea)」、内村鑑三の「代表的日本人(Representative Men of Japan)」、同じく内村鑑三の「余は如何にして基督信徒となりしか(How I Became a Christian)」、新渡戸稲造の「武士道(Bushido:The Soul of Japan)」です。驚くべきことにこれらはみんな明治の人の著書です。よく考えると英語力とかいろんな専門知識とかそういったことから見れば現代の日本人の方がはるかにうまい英語が多分使えるでしょうし、いろんな知識水準も高まっているにもかかわらず明治の人が書いた本が今だに欧米でよく読まれています。これはなぜでしょう。逆に言うとなぜ明治の人達が書いたものが欧米人に感銘を与えるんでしょうか。それはやはり明治の日本というのはまだまだ新興国ですから、彼らは何とか日本という国を世界に知らせなきゃいけない。日本人というのはこういう民族だということを知らせてアピールしないと生き延びていけなかったわけです。ですから必死さというかコンテンツを一生懸命書こうという熱意があったわけです。今の人は英語力はあるし、専門知識はあっても借り物の学問をしていることがけっこう多いので、欧米からいろんな枠組みを借りてそれで物事を説明する。そういったものは日本人が書いてもあまり外国でアピールしません。つまり日本人らしい日本人こそ世界が求める日本人です。私もいろんな機会で国際会議とか外国のジャーナリズムと付き合ったことがありますけれども、彼らが知りたがるのはお前は日本人としてこれをどう考えるんだというふうに彼らは聞きます。つまりお前は日本人じゃないか、日本人だったらどう考えるんだということを彼らは求めます。

 

これからは日本自身の経験から学び得ることを世界に発信する時代になっているというふうに思います。世界に発信し得るような日本の智恵、日本はさっきも言ったように金融危機というものも欧米より十年早く経験しましたし、それから高齢化社会というのが世界に先立ってやってきた国です。あるいは去年の東日本大地震もそうです。そうした人類が将来向き合うであろういろんな困難というのにいち早く向き合わざるを得なかったわけです。ですから私達は単に外から知識を入れてうまく解釈して自分達で使うということだけではなくて、日本人は大地震をどうするんだ、高齢化社会で日本人はどういう社会をつくっていくのか、あるいは金融危機を克服するために日本はどうしてきたか、こういった智恵を世界が求めているわけです。皆さんはこれからおそらく世界に羽ばたいて活躍される方、あるいはいろんな組織の一員として世界的に活躍される方も大勢出られると思います。今日私が言った話は私の個人的な体験からやや偏ったお話だったかも知れませんが、世界が求めているものというのは何かということを考えてもらって是非有意義な高校生活を暮らしていただきたいと思います。どうもありがとうございました。

 

<質疑応答>

 

三年 Sくん

 浪人は一年中勉強づけですか。

 

生方

 当たり前です(笑)。私の経験からいっても二年連続で中日が優勝するということはあまりありませんから、中日の優勝に熱狂したばかりに現役で合格できなくても浪人して勉強すれば志望校に受かると思います(笑)。彼女がいる人は浪人中でもたまにはデートしてもいいかも知れませんが、できるだけ彼女に会わないということを私は自分に課しました(笑)。(彼女がいたんだ、というようなざわつきが会場の女子の間に広がる)

 

三年 Mくん

 僕は去年、生徒会活動をやっていたのですが、そこで文化祭を盛り上げるためにどうしたらいいかと話し合いをいました。そこで僕達が頼りにしたのは歴代残してくれたその資料とか歴史になるのですが、あと周りの人達の感性、いわゆる人間学からの視点でしか話し合えませんでした。もし生徒会メンバーの中に生方さんのような経済学に熟知した方がいとしたら話し合いはどういうふうに展開していくのでしょうか。経済学ではどういうことを学ぶかということと、それとどういうふうに活かしていくのかという質問です。お願いします。

 

生方

 経済学をどういうふうに学んだらいいかということでいいの?

 

Mくん

 経済学がどのように活かされるかという具体例を一つ。

 

生方

 生徒会の運営に経済学がどう活かされるか。

 

Mくん

 お金は絡んでないですけど。

 

生方

 経済学というのは基本的にはものの生産とか流通とかお金の流れだとかそういったことの規則性を見いだして、いかに効率的に経済成長するかとか、分配ですね。社会の不平等をなくすにはどういう最適な分配があるかということを研究する学問です。ですから生徒会活動にそれを活かすとすれば、例えば生徒会で使っているお金をどうしたら最大限の効用が出るように使えるのかを考えるとか、或いは行事をやる時に人員配置というのを合理的にするにはどうしたらいいか。例えばある目的に向かって体育祭を一番楽しくやるという目的があったとすると、その目的のために人の配置だとか誰をどういうふうに役回りを持たせるのか、経済学では「資源の配分」という言葉を使います。資源というのは例えば文化祭をやるために必要なお金とか人とか時間ですね。資源をどう配分すれば一番最大限の効果を出せるのかというのが経済学の発想ですので、ある個性を持った人にどういう係をやらせたらいいかとか、お金をどこに配分すれば一番その目的が達成できるのか。そんなことを考えるのが経済学的な発想だと思います。

 

一年 Yさん

 生方先生が思う日本人らしい日本人ってどんな人なんですか。

 

生方

 日本人らしい日本人ですか。生まれ育った三河とか日本の刻印を押されていればもう日本人そのものです。

 

Yさん

 日本的って何ですか。

 

生方

 アメリカ人でもなく中国人でもなく日本人だということですね。

 

Yさん

 じゃなぜアメリカ人はアメリカ人なんですか。なんでアメリカ人とか日本人とかどういうふうに分けているんですか。

 

生方

 アメリカ人として生まれた人は両親がほとんどアメリカ人でしょ。小学校、中学校、高校、育った環境も例えばカリフォルニア州のロスアンゼルスだとか、ヒューストンだとか、アメリカの国内で暮らすわけです。そうすると人間ってやっぱりその周りから吸収することで自分の行動パターンというのを形成するわけです。高校生だったら僕が冒頭言ったように、自分の人間形成というものにものすごく周りの影響を受けるというか、もう周りが自分を決めるといっても多分いいと思います。ですからアメリカ人はそもそもアメリカ人以外のものになれないんです。日本人は日本人以外のものになれない。それを自覚すべきだというのが僕の言いたいことです。自覚をして要はそれを上手に使ってほしいということです。皆さん一人一人間違いなく日本人です。日本の家庭で育っていますし、この地で育ってもうそれだけで十分日本人なんです。ですからお花を習わなきゃいけないとか、お琴を弾けないといけないとかそんなことはないと思います。

ただ一つだけ僕が言えるとすれば、F先生が配ってくれたポスターでは僕の紋付き袴を着た姿の写真を載せてもらいました。実は私は能楽の謡と仕舞いを習っていまして、能楽はご存じだと思いますが、舞台の上でゆっくりゆっくり面をつけて装束つけた人が動く歌舞劇です。金沢に単身赴任していた頃にたまたま人から能楽師の先生を紹介してもらって始めたのですが、能楽の謡と仕舞いをやっていると言うと、それだけで世界の人はけっこう喜んでくれるというか関心をもってくれます。ですからせっかく日本人に生まれたのであれば、能楽でなくてもいいし、華道でも茶道でも弓道でも柔道でもなんでもいいんですが、何か和の芸が一つあるといいですね。国際的に活動する人ほどそういうものを一つ身につけておいた方がいいです。でもそれがないと日本人ではないということではないです。

 

Yさん

 じゃ日本人って何なんですか。何となくは分かったのですけど先生の言葉で一言で日本人を現すと何ですか。

 

生方

 一言は難しいよね。例えば、三河の人っていうのは僕はさっきも言ったように人を裏切らない律義さとか、それから物事をこつこつと諦めずに粘り強くやる堅実さとか、そういったようなものが僕は多分幅広く平均的に言えば三河の人の個性だと思う。もちろんそうじゃない人もいますけどね。(人間学には単純な「正解」は無いのだよ、というようなことも言いたかったが言いそびれた。質問者があまりに性急に「一言で正解」を求めすぎている印象を受けた)

 

一年 Mくん

 今の話で子供達に出自の根源への自信と誇りを抱かせるアイデンティティの確立、三河人、日本人であることの静かな揺るぎない誇りを持つべしという話がありましたが、自分も全くそのとおりだと思って同感なんですが、ただそのために必要となってくるのが日本人としての自分を持つために正しい歴史認識というのが必要だと思うんですね。それで今どうしてもその歴史認識に対する風潮として、とりあえず日本の過去を否定し、いわば諸外国に要求されるがままに謝罪、賠償し、その民族の歴史をとりあえず否定していくという風潮がありますがどういうふうにお考えでしょうか。先生の考え方をお聞かせください。

 

生方

 このスライドの一番最後に「静かな揺るぎない誇り」という言葉を僕は載せました。大事なのはこの「静かな」というところです。郷土愛だとかそれから自分の生まれ育った祖国に対する愛情って自然に誰でも持っているものです。オリンピックでやっぱり日本選手を応援します。で僕はあえて「静かな」って書いたのは、いろんな国によっては静かじゃないナショナリズムというのもあります。それはいろんな歴史的な経緯があって、今の政府に忠誠を尽すということが教育目的になっているので、そのためにいわば今の政府とか権力にとって都合のいい歴史といいましょうかね。それをいわば理想化するための歴史教育がされているということがあると思います。僕はやっぱりそうではあってはいけないし、日本の歴史教育ってそんなふうになってないと思っています。確かにともすれば自国に否定的になり過ぎる面があると思います。自分の身近な歴史、親のルーツだとかそんなものも含めて、要は自然な愛情って誰でも持っています。ですからそういった静かな、つまり誰かと比べてどうのこうのとかそういうことではなくて、静かな揺るぎない誇りというのを持ってほしいと思います。それでよその国の歴史のこともフェアに見て、そういう静かな誇りであればほかの国の歴史もフェアに眺めることができるんじゃないかと思います。いたずらなナショナリズムというのはよくないと思いますし、日本人がそういうふうになっているとは僕は思っていません。ふるさとにあるものとか、さっきも言ったようないろんな日本史や世界史の物語を読んでくれれば静かな誇りというのは自然に身に着くんじゃないかと思っています。よろしいでしょうか。

 

Mくん

 ありがとうございます。静かなということで他国と比べて日本が勝れているだとかそういうことを言いたいわけではなくて、現に今その日本の民族の歴史そのものを否定して、要は反省、反省と言うのを強要されてて、反省を強要されることによってあまり日本人としての誇りが持ちにくい状況になっていると思うんですが、そう反省や否定が強要されることに関してはどう思いますか。

 

生方

 難しいんですが、日本人としてきちんとした歴史を学んでそれをしっかりと胸に刻んでいれば、ほかの国とかほかの人が何を言おうが動じないということが大事です。ですから「静かな」という言葉と同時に「揺るぎない」という言葉を入れたのはそのためです。ですから深い自信につながるものというのは何というんでしょう。表面的な啓蒙活動とかなんかで得られるものじゃなくて、やはり自分の地元あるいは自分の自然な生まれ育ちの中で身につけていく、それが本当の誇りというものだと僕は思っています。

 

代表生徒謝辞 三年 Tくん

 今日は本当に素晴らしい講演ありがとうございました。自由をよりよく生きていくために歴史を学んでそれを教訓にして生きていくということが大事だと僕も思うんですけれど、その時にその歴史を学ぶというのは普通に授業で教えられたことをそのままノートに写してそれを覚えるみたいな受動的な覚え方では駄目だと思っていて、能動的に自分からその歴史を知りに行くというかそういう気持ちでやっていかないとやっぱりずっとその自由を勝ち取るということはできないと思いました。ちょっと言い方は悪いんですけど、先生がこの講演会を設けてくれて、僕達はなんか最初は仕方なくこの中に入っているという感じでしたが、そういう受動的な考え方ではなくて、今たくさんいろいろな質問が出たんですけれど、能動的に学んでいくということをこれからもしっかりしていきたいと思います。ありがとうございました。

平成二四(二〇一二)年五月講演