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ドストエフスキー読書日誌から「地下室の手記」

 

【あらすじ】

四十歳の小官吏である主人公は、極端な自意識から、職も辞し社会との関係を断って地下の自室に籠って手記を書く。手記の第一部では、合理的人間観と理性による社会改革の可能性を激しく否定し、人間の本性は非合理性にあると執拗に主張する。

 

第二部で主人公は、かつての奇妙な経験談を語る。それは、友人の送別会で、予期していた通りひどく惨めな気分を味わい、その夜、売春宿で初心(うぶ)な娼婦のリーザに会い、彼女に心から同情し、自分の自宅を訪ねるように勧める。しかし訪ねてきたリーザを彼は凌辱するという経験談だ。そして主人公は、今あの時のことを思い出すと「何とも後味の悪い」思いがすると述べて、手記を打ち切ってしまう。(江川卓・訳(新潮文庫)による)

 

 

【自意識の化け物と合理的人間像の限界】

「貧しき人々」とは正反対に、この作品では、世間の一切を侮蔑、冷笑し、自分さえ良ければ世界など破滅しても構わない、と毒づく主人公の独白を、読者は延々と聞かされる。私は、自意識の化け物が地下室でとぐろを巻いているように感じたが、この読後感は、ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」を読んだ時と似ている。ニーチェもまた、近代合理主義に激しい怨嗟を吐きかけ、人間の生の根本的意味を激しく問うている。

 

だが、松原正[1]氏は、利己主義の悪人である主人公は、実はすこぶる善人でもあることに注意せよ、と言う。曰く:−

 

…激しい利己主義者である『地下室の住人』の中にも、他方の極、すなはち激しい他愛主義者がゐるのである。…(中略)…破壊的な言辞を弄してはゐるものの、その実彼は『公衆のため』との善意だけは捨てきれずにゐる。そして実際、彼は頗る『善良』なのである。友人の送別会で、友人を侮辱し、彼は誰にも相手にされなくなる。だが一人きりになると、真情を理解して貰ひたい、友人達から『友情を哀願』して貰ひたいと願ひ、涙さへ流すのであり、娼婦リーザに対しても同様である。リーザが訪ねて来る前、彼は、いつの日かリーザが自分の足許に身を投げ、『世界中の何よりも、あなたを愛してゐますと告白する』であらうなどと、何とも感傷的な空想に耽るのだ。

 つまり、『愛し愛されること』の幸福なんぞ幻想に過ぎないと言ひながらも、彼はそれが欲しくてならない。『友情』だの『愛』だのを罵倒しながらも、彼はそれを求めずにはゐられない。『地下室の住人』の中にもマカールがゐると言ったゆゑんである。

 では、ドストエフスキーはなぜ、悪魔的な言辞を弄する主人公を、滑稽な迄に善良な男として描いたのか。無論、偽悪の限界を知り抜いていたからである。性悪説で押し通せるほど人間は強くないのだ。

…(中略)…要するにかういふ事なのだ。人間を性善説で割り切る事はもちろん、性悪説で割り切る事もまた一種の合理主義に他ならない。が、さういふ合理主義では説明し切れないのが人間なのである。

…(中略)…人間とは時に利害得失を無視し、頗る非合理的な『冒険の道へ突進してゆく』のである。そしてそれなら、人間がさういふ非合理的な動物なら、人間が屡々戦争といふ『冒険の道へ突進してゆく』事に何の不思議があるだらうか。[2]

 

そして松原氏は、非合理的動物である人間の必然の営みとしての「戦争」を容認し、偽善的で知的沈滞をもたらす「平和」よりも「戦争」の方がましであるとドストエフスキーが述べていることを指摘している。それは、ドストエフスキーの「作家の日記」の次の一節である。ドストエフスキー曰く:−

 

「しかし血だからな、しかし何と言っても血じゃないか」――と賢人たちは、またまた同じ繰り言を並べ立て始めた。ところが、…(中略)…いつまでも苦しみ続けるよりは、いっそひと思いに剣を抜いたほうがさっぱりするというものだ。第一、現在の文明諸国間の平和が、いったいいかなる点で戦争よりまさっていると言うのだろう。むしろ反対に、人間を狂暴にし残酷にさせるのはどちらかと言えば平和、それも長期間にわたる平和であって、戦争ではない。長期にわたる平和はどんな場合でも残忍、臆病、そして粗野で脂ぎったエゴイズム、それに何よりもまず――知的沈滞を生み出すものなのである。[3]

 

【日本人とキリスト教文学】

松原氏は、さらに、私たち日本人がドストエフスキーを含むキリスト教世界の文学に接する際に意識しなければならないことについて、以下のように説示している。私たちは彼らの文学、芸術を、安易に「わかったつもり」になってはならない。キリスト教は、文学や芸術に、私たち日本人が考えるよりはるかに深刻な刻印を押していると知らなければならない。

 

これは要するに、(新井白石に尋問を受けた江戸時代の宣教師)シドチは『神のもの』と『カイゼルのもの』とを峻別し、『カイゼルのもの』に関する限りは譲歩しても、『神のもの』に関しては決して妥協しなかったといふ事に他ならない。

…(中略)…西欧の文学や哲学に接する時、吾々は常にかういふ彼我の相違を意識してゐなければならないのである。ドストエフスキーにしても同じであって、彼の小説の作中人物の悉くは『神に()かれた人々』なのだ。例えば『貧しき人々』のマカールは、ワルワーラのために徹底的におのれを犠牲にする。それを神が(よみ)するからである。一方、『地下生活者の手記』の主人公は、『世界なんぞ破滅しようが、自分さえお茶を飲めればいい』と言ひ切る。神が信じられないからである。けれども、既に述べた、『愛し愛されること』の幸福なんぞ幻想に過ぎぬと考へながらも、彼はそれを手に入れ味ははうとして足掻(あが)くのであって、この神を気にするがゆゑに『人間性の両端』を往来せざるを得ぬ激しさは、吾々日本人には到底馴染めないものなのであり、それゆゑ馴染んだふりをするよりは寧ろ、馴染めない事を常に忘れずにゐる事の方が大事なのである。[4] (( )内は近藤補)

 

【小林秀雄とドストエフスキー】

小林秀雄は、長きにわたってドストエフスキーの愛読者であり、戦前戦後にまたがって、時折ドストエフスキーの小説について作品論を書いている。しかしまとまった評論としては、小林流のドストエフスキー伝とも言うべき「ドストエフスキイの生活」があるのみである。小林がドストエフスキーに強く惹かれ、彼を理解しようと悪戦苦闘した挙句、ついに途中で放り投げてしまった作品論が多い理由は、まさにこれ(キリスト教に到底馴染めないこと)であると思う。

 

 「地下室の手記」についても、昭和十(一九三五)年に「『地下室の手記』と『永遠の良人』」[5]と題する作品論を書いている。「地下室の手記」と「永遠の良人」の二作品の間には「いつも変わらない独特な根底」が存在している、と兄に宛てて書いたドストエフスキーの手紙を足掛かりに、この「いつも変わらない独特な根底」とは何かを探り当てることがこの作品論の目的であった。しかしこの作品論は、「永遠の良人」までたどり着かず、「地下室の手記」の分析も未完に終わっている。

 

小林は、地下室で嘯く主人公が「世の合理性に対する、法則に対する、良識に対する、反抗者たる姿」を見せる傍から「奇怪な自己嫌悪の情と屈辱感」を告白する矛盾を解き明かす「何ものか」を探り当てようと悪戦苦闘するが、ついにそれは無いことを悟り、「地下室の男の像を、捕へようとして捕へあぐむ読者の困惑こそ、まさに作者の狙ったもの」であり、「この作品の率直な印象は、主人公の絶望的身振りだけだ」として、作品論を放り出してしまう。

 

しかし小林は、娼婦リーザが主人公を訪れる場面で、リーザは「相手の絶望的な不幸を直覚」し、「相手の嘲罵は意味を成さない」ことに鋭敏に注意を向けた上で、「彼女の眼は即ち作者の目なのである」と書き記している。リーザすなわちドストエフスキーは、主人公の「絶望的な不幸」に彼の人間性の善性を見出し、心から憐憫の情を示しているのである。

 

これは、「激しい利己主義者である『地下室の住人』の中にも、他方の極、すなはち激しい他愛主義者がゐる」ことを小林も強く感じていたことを示している。しかし結局、その「『人間性の両端』を往来せざるを得ぬ激しさ」が何に起因するか、小林にも実感しかねたので、彼はこの作品論を途中で放り投げてしまったのではないだろうか。もちろん、小林もドストエフスキーをはじめとする西洋文学におけるキリスト教の重要性はよくよく認識していた。しかし、それは「吾々日本人には到底馴染めないもの」、深く実感し難いものだったのではないか。自己の感性に信頼を置き、まっすぐに対象を見つめ続けた小林は、正直に「わからないものはわからない」として、この作品論の完成をあきらめたのであろう。

 

【政治思想史から見た地下生活者:自由への渇望】

一方、勝田吉太郎[6]は、政治思想史家の立場から、「地下生活者」の合理主義への嘲笑と徹底的な反逆には、人間の自由意志と独立尊厳を守ろうとする熱烈な思いが潜んでいる、と、次のように述べる。

 

功利主義者、実証主義者、また科学的社会主義者の理論家たち――ベンサムやコントやマルクスたちが提示する理想社会の青写真は、それが青写真にとどまっている限り、人々の心を魅了するであろう。[7]

 

しかし人間は、そうした「歴史の究極的目的」を実現した暁には、つまり合理的、科学的社会を建設し終わる時には、それを惜しみなく「家畜」に与えてしまうだろう。なぜなら、そうした究極の合理的社会制度への社会改革とは、地下生活者に言わせれば「人間を旧習から解放して科学と常識の要求に従って人間の意思を矯正しようとする」人間改造であり、そんなことはできるはずもなく、いや、してはいけないのである。ベンサムやコントやマルクスたちが提示する理想社会実現のための「人間改造」は、人間を「蟻塚」の住民に、つまり人間という名で呼ばれる畜群へと堕落させるものだからだ。非合理であっても、人間の持つ自由な意思を奪うことは、人間を家畜のように「飼い馴らそうとする企図」であり、そういう企図が成功して実現する「理想の人間社会」とは、一群の蜜蜂や蟻の群れと異ならないものに化してしまうであろう。

 

 以上のような勝田の論考は、ニーチェが「超人」に仮託して、近代合理主義の人間規格化(畜群化)から人間の自由と尊厳を守ろうと力を振り絞って叫んだことを思い起こさせる。

 

【規格化された「人生のモデルケース」への疑問】

 関連して、私は以前、初級産業カウンセラーの資格を取得するのに、心理学の講座を受講した時の「違和感」を生々しく覚えている。アメリカ流プラグマティズムを背景とする現代心理学は、人生のモデルケース(義務教育と高等教育を経て、会社などの組織でサラリーマンとして働き、やがて所帯を持って定年まで働き、子供の巣立った後は年金生活を送る云々)を想定したうえで、そうしたモデル的人生に「適応」できない人の様々な「病理」を扱う、と教えていた。

 

こうした現代心理学の人間観に、私は非常に強い違和感、抵抗感があった。人間の生涯がこんなに「規格化」されていいのか、人間はもっと自由であるべきではないのか、個々人が実践するかどうかは別としても、もっと多様な生き方の余地を残すことを人間諸学は前提とすべきではないのかと、憤怒の気持ちが強く沸いた。

 

モーツァルトは「正規の学校教育」など一度も受けていない。本居宣長は豪商の跡取り息子だったが、商売に全く関心も能力もなく、本ばかり読んでいる「落ちこぼれ」だった[8]。ドストエフスキーは、若い頃の工兵隊勤務も五十歳過ぎてからの編集者としての雑誌社勤務も、いずれも三年ともたず辞職している。彼には「主人持ちの規則正しい生活はとうてい手に合わなかった[9] 」のである。

 

平均化された人間を大量生産することが社会の目標であっていいのか。人生の「モデル」から外れてしまうような人間からは、大悪人も出るだろうが、モーツァルトや本居宣長やドストエフスキーのような大天才も出るだろう。大悪人も大天才も生まない世界というのは、何と息苦しいことであろうか。現代もてはやされるのが、たかが「ビジネスで成功する人」に過ぎないとは、何と情けないことではないか。その意味では、私も「地下室の住人」と憤りを共有している。ドストエフスキーの要所は、何にも増して彼が人間の「自由」を尊んだことだと私は感じている。

令和二(二〇二〇)年五月七日

 



[1] 松原正(昭和四(一九二九)年〜平成二十八(二〇一六)年)については、「ドストエフスキー読書日誌 貧しき人々」の注4を参照

[2] 『松原正全集 第一巻 この世が舞台(増補版)』圭書房、九三〜九五頁

[3] 『作家の日記』一八七七年四月。小沼文彦・訳(ちくま学芸文庫)第四巻の二八五頁〜二八六頁

[4] 『松原正全集 第一巻 この世が舞台(増補版)』圭書房、九七頁

[5] 『小林秀雄全集 第三巻 私小説論』(新潮社)所収

[6] 勝田吉太郎(昭和三(一九二八)年〜令和元(二〇一九)年)は、京都大名誉教授、元奈良県立商科大学長、元鈴鹿国際大学長。京都大学博士。専門は政治思想史、特に近現代ロシアの政治思想や共産主義思想、アナーキズムの研究で知られる。一九七〇年代以降は保守系メディアで時局についての論評も活発に行う。主要な著書に、『近代ロシヤ政治思想史―西欧主義とスラヴ主義』創文社(一九六一年)、『現代社会と自由の運命』木鐸社(一九七八年)、『甦るドストエフスキーの世紀―現代日本への警鐘』ミネルヴァ書房(二〇一〇年)など。

[7] 勝田吉太郎『近代ロシヤ政治思想史』創元社、七八一頁

[8] モーツァルトは、幼年期から父レオポルトに連れられてヨーロッパ中を旅していた。彼の「学校」は馬車の中であり、彼の「教師」は父であった。それでも彼はイタリア語やフランス語を自由に操ることができた。本居宣長は、松阪の木綿問屋の家に生まれ、十六歳で江戸大伝馬町にある叔父の店に寄宿して商人修行をしたが、本ばかり読んでちっとも商売を覚えないため、翌年郷里に帰らされている。

[9] 小林秀雄『ドストエフスキイの生活』新潮文庫、二〇八頁