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津田梅子が活躍した明治の偉大さ

 

放送大学は、小生も修士課程でお世話になりましたが、今も、BS放送で2系統のテレビ授業番組を朝から晩まで放送しているのを、時々拝見しています。今年見た中でとても興味深かったのは、2014年から開講されている「歴史と人間」という科目です(下の様に、シラバスが放送大学のウェブに記載されています)。

 

https://www.wakaba.ouj.ac.jp/kyoumu/syllabus/PU02060200211/initialize.do

 

一般的に、高校や大学の歴史学系統の授業は、今も、ヘーゲル、マルクス以来の「歴史の法則性」追求に基礎を置いた教え方をしています。しかし、歴史は人間が演じる物語であり、人間を捨象した「経済の発展法則」や「政治体制変遷の原理」ばかり教わっても面白いはずはありません。しかも、ヘーゲルやマルクスの唱えた「世界史の法則」は、その後の歴史的事実によって完全に反証されて「過去の遺物」になり果てています。もう一つ重要なのは、今までの西欧発の歴史学の「歴史の法則」が当てはまるのはせいぜい西欧社会のみで、インド史にも中国史にもイスラム世界史にもサハラ以南のアフリカ史にもヨーロッパ人が来る前の南北アメリカ大陸史にも、全く当てはまらないことです。中世以来封建制(地方勢力による分権的支配体制)が発達したことなど、日本は例外的に西欧史の法則がかなり当てはまることは梅棹忠夫が「文明の生態史観」で明らかにした通りです。ですから日本の知識人は、何となく西欧発「世界史の法則」を受け入れてきたのです。

 

教育の世界を離れて大学の専門的な歴史学の学問研究の世界を見てみると、今や実証性ばかりが重んじられ、文献資料、器物、人骨、地層、遺伝子解析などを用いた「実証」に偏重しており、社会人経験のある「一人前の大人」が求める「人間とは何か」「私はどう生きるべきか」という、本来の歴史学が追求してきた知的営みから程遠い存在になっています。歴史に実証性が重要なのは当然のことですが、歴史研究者は、実証性が「生きることの意味」から完全に乖離していることに何の疑問も感じないような知的テクノクラートになってはいけないと感じます。

 

「一人前の大人」が求める「人間学」としての歴史がきちんと大学の講座に位置づけられていないため、社会人たちは、俗流ビジネス教訓書や俗流ビジネス教訓番組でその欠落を取り戻そうとします。しかし、そこには真摯で深い人間観察は期待できません。そうした書物やウェブサイトやテレビ番組の作り手は、ビジネスマンたちの性急さを見抜いて、深い考察や回答の出ないような問いを回避し、誰でも安易に飲み込める安物サプリメントのような「教訓」を量産するばかりでしょう。織田信長や徳川家康からビジネスのヒントを性急に得ようとするビジネスマンは、恐らく真のヒントは得られますまい。

 

 その点、社会人を主な対象にした放送大学の授業に「歴史と人間」という科目があるのは貴重です。ここでは、講師の先生方も、日頃の「歴史の法則性」や「実証性」の呪縛から逃れて、研究者としての問題意識を生かして、俗流ビジネス教訓に陥ることなく、活き活きと人物と歴史を語っておられるように見えます。

 

15回の授業の中で、「西行と定家」、「北条泰時」、「豊臣秀吉」、「モンテーニュ」、「孫文」などは、人物の知られざる一面や歴史上の役割などを講師の先生が巧みに表出していて、楽しく拝見しましたが、小生がとりわけ感動したのが杉森哲也先生の講ずる「津田梅子」の生涯でした。

 

シラバスをそのまま紹介すると、「津田梅子(1864-1929)は、明治41871)年に開拓使がアメリカに派遣した日本最初の女子留学生の一人である。帰国後は女子教育に尽力し、明治331900)年には自らの教育理念を実現すべく女子英学塾(津田塾大学の前身)を創立した。津田梅子の人生、そしてともに留学した山川(大山)捨松、永井(瓜生)繁子の人生を通して、日本の近代化と、この時代を生きた女性と社会との関係について考える」のが、この授業の主題です。

 

小生がこの授業を拝見して、特に心動かされたことが二点あります。第一は、梅子の志の強さ、第二は、政府としての基礎も固まっていない時期に、早くも女子だけの留学生5名を米国に送った明治政府の驚くべき闊達さです。

 

梅子が留学生として派遣されたのは、何と6歳の時で、5人の留学生の最年少。米国で様々な教育を受け、帰国したのは22歳の時でした。梅子はすっかり「英語脳」になったので、生涯日本語には苦労したそうです。通訳や華族女学校で英語を教えたりしていましたが、一念発起して二度目の米国留学を果たし、ブリンマー大学で学び、女子のための英語教育を志すようになります。帰国後、いろいろな人の助力も得て、45歳の時にようやく「女子英学塾」(現・津田塾大学)開校に漕ぎつけます。彼女の高い志と開校までの粘り強い努力には、心から敬意を表さないわけにはいきません。

 

そして、明治政府や梅子の周囲の人々の心意気と自由闊達さにも目を見張らされます。6歳の梅子はもちろん、他の留学生、山川(大山)捨松や永井(瓜生)繁子たちもまだ少女であり、彼女たち自身の意思で留学に手を挙げたわけではありません。彼女たちの父や兄が、娘や妹に挑戦の機会を与えようと手を挙げたのです。こうした女子留学生たちの父や兄は、幕府の役人で通訳をするなど、何らか海外との関係のある仕事に就いていたそうです。新しい時代に何が求められるか、恐らく彼らは肌身に感じていたのでしょう。それにしても明治4年という早い時期に、娘や妹を長期にわたって見知らぬ土地に留学させることに積極的に手を挙げた彼らの自由闊達さには感動を覚えます。この女子留学を企画したのは、薩摩藩出身の軍人、黒田清隆だったそうです。また、梅子の女子英学校設立には伊藤博文も協力を惜しまなかったとのこと。明治期の政治家や軍人たちの人間としての度量、幅の広さには、改めて感じ入った次第です。

 

ちなみに、小生の勤務先である「京都橘大学」(高校なども含めた学校法人としては「京都橘学園」)の創立者は、近江国(滋賀県)出身の中森孟夫(たけお)18681946)という人物です。中森孟夫は、女性が経済的に自立することの重要性を認識し、「女子のための実業教育の学校」として刺繍や裁縫を教える「京都女子手芸学校」を明治351902)年に創設しました。同校は良妻賢母主義の女子教育が中心だった当時にあっては珍しく、女子の自立を趣旨とする学校でした。これが京都橘大学の起源です。中森は、他にも実業教育に力を注ぎ、京都で簿記の専門学校などを10校以上創立しましたが、京都女子手芸学校以外はことごとく失敗したそうです。津田梅子のような知名度はありませんが、明治期の日本に充満していた教育に対する熱気を感じさせる人物です。

令和二(二〇二〇)年九月十四日