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東南アジアの民族と歴史

 

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 現代の日本人は、戦前の人たちよりも東南アジアのことを知らないのではないだろうか。戦前この地域は、日本にとって各種天然資源確保の見地から「戦略地域」であった。現在でも、日本的多国籍企業にとっては、市場として或いは輸出基地として、重要な戦略地域であるが、国としては、また、日本人ひとりひとりにとっては、戦前よりも切実な関心が薄いのではないだろうか。この地域にどんな民族が分布し、彼らがどんな歴史を展開したのか、例えば、タイとカンボジアは民族系統が異なる国であることなど、「一流大学」の出身者でも知っている人は少ないのではないか。

 今後、世界は、米国、欧州、日本の三極を中心にしたゆるやかなブロック経済化が進むと思われる。その場合、米国の後背地は中南米であり、欧州の後背地は中近東とアフリカであり、日本の後背地は東南アジアである。米国は既に中南米囲い込みに動いており、欧州も自らを統合した後は中近東・アフリカの囲い込みを始めるだろう。東南アジアは、今後日本にとって、再び戦略的に重要な地域になることは間違いない。その意味で、日本の各界リーダーを目指す人にとって、東南アジアの民族と歴史は学ぶべき必須科目である。

 いや、実は僕は、そんな「義務」として「勉強」することを勧めたいのではない。知的好奇心や感受性に満ちた人たちにとって、東南アジア諸国の歴史は、知れば知るほど興味をそそられる存在である。何世紀にもわたる民族大移動があり、諸王国の興亡があり、ボロブドールやアンコールワットのような文明の大遺跡が築かれ、その中に様々な人間ドラマが展開し、しかも輝ける古代インド文明と偉大なる中国文明の接点として、両文明の交流と対決があった。戦国時代から江戸時代初期の「海洋民族」日本人もその歴史に登場する。

 我々があまり学校で習わなかったこの地域の歴史がいかに面白いか、今年初めに通産省の調査で当地を訪問した経験も交えて、僕のささやかな発見を多くの人に共有してほしいと思ったのが、この文章を書こうと思い立った理由なのである。ただし東南アジアと一口で言っても広大だ。ここでは、現在のインドネシア、マレーシア等に属する東南アジア島嶼部ではなく、現在のヴェトナム、ラオス、カンボジア、タイ、ビルマに属するインドシナ半島部の歴史に的を絞って見てみたい。

 

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 まず、現在のヴェトナム中部、南部地域に二世紀から一五世紀まで存在した大文明国家「チャンパ」を紹介したい。チャンパ王国を構成していたのは、現在のヴェトナム人とは民族系統の異なるチャム人であった。ヴェトナム人が中国南部の「越」の人たちと文化を共有していた(「ヴェトナム」は漢字で正に「越南」と書く)のに対し、チャム人はインドネシア、マレーシアといった南洋地域の文化を共有する人々であった。この人々が古代から中世にかけて、後述するクメール帝国と並ぶ有力な国家を築いたのが、チャンパ王国である。

 この王国は、古代インド(主にグプタ朝)からシヴァ神を奉ずるバラモン教を取り入れ、後にはジャワ経由で大乗仏教を取り入れている他、文字や政治体制もインドから取り入れており、いわば古代インド文明の衛星国家であった。チャンパ王国の財政的基盤は中国と南洋地域またはインドを結ぶ海洋貿易の中継にあった。チャンパは中国の史書にも「林邑」とか「占城」とかいう名で登場する。チャンパ王国は六世紀から一〇世紀にかけて繁栄の絶頂に達する。日本は大和朝廷から平安時代中期の頃である。

 さて、チャンパの北方で、ヴェトナム人が中国の長年の支配から脱して独立したのは一〇世紀のことである。以降、黎朝、李朝、陳朝、黎朝、阮朝と、中国風の名を持った王朝が興亡する。ヴェトナムは、漢字、政治制度、儒教、科挙に至るまで中国から取り入れており、中国文明の衛星国家であった。ヴェトナム人の人名は漢字表記できる。例えば、最後の王朝の創始者グエン・フック・アンは「阮福映」であり、革命の英雄ホー・チ・ミンは「胡志明」である(ただし、ヴェトナムは、今世紀フランスの植民地支配を受けた時期に、漢字使用を止め、ヴェトナム語をローマ字表記するようになった。最近のヴェトナム人は殆ど漢字を書けなくなっているようである)。

 梅棹忠夫氏が「東南アジア紀行」の中で、自分たちがカンボジアからヴェトナムに入ったとたんに心の安らぎを感じたのは、日本もヴェトナムも同じ中国文明圏にあるためだろう、と述べておられるが、この感受性は重要だ。同じ東南アジアでも、ヴェトナムだけは他の国々と背負ってきた文明の背景が全く異なる。日本でもこれくらいは高校生でも認識しておくべきだ。

 一〇世紀のヴェトナム独立以降、チャンパとヴェトナムは長い間抗争を繰り返した。そして一五世紀にヴェトナムがチャンパに対して決定的な勝利を収める。時のレ(黎)朝の王タントン(聖宗)はチャンパ征伐軍を起こし、一四七一年クワン・ガイにおいてチャンパ軍を破り、その首都をも陥落させた。チャンパは六万人が戦死し、王族以下三万人が捕虜として北方へ連れ去られた。日本は室町中期、応仁の乱が起こった頃である。これ以降チャンパはインドシナ半島南端に封じ込められ、地方領主として細々と存続したが、ヴェトナムの圧力はなお強く、一八世紀に完全に滅亡した。古代にあれほどの文明を誇ったチャム人は、現在、山岳地域に少数民族として生き延びているにすぎない。

 何と言う歴史の残酷さであろう! 現在も中部ヴェトナム地域には昔のチャム人たちが残した神殿の遺構がいくつもあると言う。機会があれば、この「文明による文明の征服」の悲劇の跡を巡ってみたい。

 

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 次に古代、中世のインドシナ半島において、最大の文明国であったクメール帝国を見てみよう。このクメール人は現在のカンボジア人の直接の祖先である。民族系統から言えば、クメール人は、インドネシア、マレーシア等の南洋諸族とも、タイ人やビルマ人といった蒙古系諸族とも異なる、モン・クメール諸族に属する。

 タイ人やビルマ人はもともとインドシナ半島にいた人たちではない。最初にインドシナ半島にいたのは、先に見た南洋諸族に属するチャム人とモン・クメール諸族で、クメール族が現在のカンボジアに、モン族が現在のビルマやタイのあたりに分布していた。インドシナ半島では、中世以来、北西から南東へ民族移動が起こってきた。九世紀になると、蒙古系のビルマ族がチベット方面から南下し、ビルマ北部に定着、十世紀には、先に見たようにヴェトナム人が南隣のチャム人を圧して次第に南下した。さらに一三世紀になると、雲南方面からタイ族が南へ移動し始め、先住のモン族やクメール族と戦いながら現在のタイ国の領域に出現する。このように、東南アジア大陸部に現在の諸民族が出そろうのは、ようやく一三世紀になってからのことなのである。

 さて、クメール帝国の起源は必ずしも明らかではないが、六世紀の中国の史書に登場する「真臘国」は明らかにクメール人の国家であるらしい。現在残っている碑文によれば、六世紀後半の王ジャヤヴァルマン一世は偉大な征服者であった。クメール帝国もチャンパ王国と同様に、インドからシヴァ神を奉ずるバラモン教を取り入れ、文字もインドのサンスクリット文字に由来するクメール文字を発明した。「…ヴァルマン」という王の名はサンスクリット語そのものである。

 その後帝国は分裂時代を経て、九世紀初頭にジャヤヴァルマン二世が現れ、王と聖職者を中心とする神政的な中央集権国家を確立した。この王の時代には農耕が発達し、国の財政基盤が、従来の貿易仲介から内陸部の農耕へ変貌したと言われる。

 クメール帝国の最盛期は、一二世紀初めのスーリヤヴァルマン二世から一三世紀初めのジャヤヴァルマン七世までの約一〇〇年間であった(日本は平安末期から鎌倉中期)。スーリヤヴァルマン二世は、外征で得た捕虜や金銀財宝を用いて各地に寺院を建設した。その最大のものがアンコールワットである。アンコールワットは世界最大の宗教建築物で、西を正面とし、東西一・五キロ、南北一・三キロの敷地に、ピラミッド状に三層に建物が建てられている。第一層の回廊には浮彫がほどこしてあり、「ラーマーヤナ」の物語やスーリヤヴァルマン二世の軍隊指揮やヴィシュヌ神と悪魔の戦いなどが描かれている。スーリヤヴァルマン二世から三代後のジャヤヴァルマン七世も偉大な王で、その勢力はインドシナ半島全域とマレー半島の一部に及んだ。彼は幹線道路や宿駅を整備し、各地に施療院を建設した。アンコールワットの近隣の巨大な都城アンコールトムとその中のバイヨン寺院も彼の時代に建造されたものである。

 これら偉大な建築物を僕は写真でしか知らない。いつかカンボジアの政情がもっと安定したらぜひ見てみたいと思う。僕は、こうしたクメール帝国の歴史を知るにつけ、日本人は、イギリスやフランスの王様の名前をたくさん覚えるよりも、これらクメール帝国最盛期の二人の王様の名前くらいはきちんと言えるようにすべきだと思う。

 その後クメール帝国は徐々に衰退に向かい、国民の宗教もセイロンから伝わった小乗仏教に変貌する。一四世紀になると、西から台頭してきたタイ人のアユタヤ王国の侵略を受けるようになり、一五世紀にはついに栄光のアンコールワット、アンコールトムを放棄して、首都を東のプノンペンに移すことになる。ただし、名前は変わったものの、カンボジア王国自体はその後紆余曲折を経ながらも存続しており、現在のシアヌーク国王やラナリット皇太子はその末裔なのである。

 

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 これら先住のチャム人やクメール人の後に、いよいよ北方から蒙古系諸族のビルマ人やタイ人が登場する。九世紀に成立したビルマ人のパガン王朝は、当初、イラワジ河上流域の一地方国家にすぎなかったが、一一世紀に現れたアノラータ王の時代に大いに発展する。彼は大規模な灌漑工事を行い米作を盛んにする一方、南方のモン族の国ペグーを破り、領土を拡張し、その王族、僧侶など多数の捕虜を獲得した。この結果、インド文明の保持者たるモン族の文字、法制などがビルマにもたらされ、ビルマも間接的にインド文化圏に属することになった。またこれ以降セイロンとの交流が活発化し、小乗仏教がビルマの国教になり、多数の寺院が建設される。こうしてその後も順調に推移するかに見えたパガン王朝だったが、一三世紀にユーラシア大陸を席捲したフビライ率いるモンゴル帝国の突然の侵攻にあい、滅亡を余儀なくされた。

 僕はビルマ出張の際、首都ラングーンから飛行機で北へ約一時間のパガンを日帰りで訪ねてみた。モンゴルに滅ぼされたパガンの遺跡は、日本ではボロブドールやアンコールワットほど有名ではない。しかし、イラワジ河沿いの大平原に広がる無数のパゴダ(仏塔)の遺構群は、その数の多さといい、規模の大きさといい、壮大なだけに、一層「無常」という言葉が口をついて出てくる風景だった。

 さて、その後ビルマは、混乱時代を経て、一六世紀にトングー朝、一八世紀にアウランパヤ朝が興亡する。アウランパヤ朝は強国で、一時はタイのアユタヤ朝を支配下に置き、一九世紀末のイギリスの侵略に対しても頑強な抵抗を示したが、最終的には英領インドに併合された。

 現在ビルマは独自の社会主義体制をとっており、事実上鎖国している。僕が訪問した時もビザは七日間しかおりず、外資が殆ど入っていないため、世界唯一の「コカコーラの無い国」であった。また、観光客が宿泊できる施設も整備されておらず、僕が泊まったラングーンの「一流ホテル」も、ソ連の援助で一九五四年に建設された、まるで巨大な病院のような味気ない建物であった。空港では手荷物を運ぶベルトコンベア設備はなく、飛行機から降りた人たちはトラックが運んでくる手荷物を取りに行かされる。空港からラングーン市街までの道をのんびりと水牛が横切っている。しかしそれだけに、観光ずれしていない人々の素朴さが僕の心に染みた。街で話しかけた人たちや村で住居を見せてもらった人たちは、皆愛想よく親切だった。太平洋戦争中に日本語教育を受けた年配の人たちは、向こうから積極的に日本語で話しかけてきた。

 ビルマ人の親日感情については、会田雄次氏の「アーロン収容所」に詳しく述べられている。およそ近代帝国主義時代にあって、欧米列強の植民地化を免れただけでなく、日露戦争に勝利し、アジアが欧州に打ち克った実績を作った明治日本の功績は、どんなに称えても称えすぎることはない。日露戦争に日本が勝ったことが、植民地支配に喘いでいたアジア諸国のリーダーたちにどれほど希望を与えたことか。伝統的にロシアに苦しめられていたトルコの親日感情は特に顕著である。太平洋戦争時代、ビルマのリーダーたちが、自分たちを植民地支配する大英帝国を、一時的であれ、打ち破った日本に賛嘆の眼差しを向けたとしても何の不思議もないのである。

 

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 インドシナ半島に最後に登場するのがタイ人である。タイ民族は、ラオ族、タイ族、シャン族に大別され、ラオ族はラオスの、タイ族はタイのそれぞれ主要民族であり、シャン族はビルマの重要な少数民族である。これらタイ諸族は、一三世紀頃から次第に南下し、現在のラオス、タイの領域へ進出する。このうち、タイ族が建てたスコータイ王国は、一三世紀後半に王位についたラーマカムヘン王の時代に大いに発展する。王はクメール文字を改良してタイ文字を作り、また、セイロンから伝えられた小乗仏教を国家宗教とした。しかし、タイの本格的統一王朝は次のアユタヤ王朝である。この王朝は一四世紀から一八世紀までの長きにわたってインドシナ西半分とマレー半島を支配した。一六世紀には、「海洋民族」であった戦国時代の日本人がアユタヤ王国各地に日本人町を形成して、華僑やポルトガル人と貿易を競った。山田長政のように王の家臣になった人さえいた。

 アユタヤ朝は、一七六七年、西方から侵攻してきたビルマのアウランパヤ朝に滅ぼされ、その後の短い混乱期を経て、バンコク朝が成立する。この王朝では、ラーマ五世(別名チュラロンコン大王)が有名である。明治天皇と生没年も在位期間もほぼ重なるこの王は、経済開発と国家機構の近代化を大胆に推し進め、タイは一躍近代国家としての体裁を整えた。また、巧みな外交でイギリス、フランス両勢力の緩衝地帯となり、日本以外のアジア各国で唯一独立を維持した国であった。タイでは今でも王室に対する人々の尊敬は厚く、街の至る所に国王夫妻の肖像が掲げられている。なお、現在のプミポン国王はラーマ九世に当たる。緑色と赤色の配色が見事な王宮の建物群は、堂々としていて美しい。この宮殿建築は、西洋の建築技術を学んで、しかもタイの伝統的建築様式もベースにした「タイ洋折衷様式」でできており、この国のたくましさを象徴しているかのようだ。

 僕は、出張時、ビルマからタイへ入ったが、現在のビルマとタイの文明度、国力には、訪ねたことのない人には実感できないほど大きな落差がある。現在この地域で他を圧して強大な国力を有するのはタイであり、堂々たる近代国家といってよい。ヴェトナムは人口の多さや歴史上の文明度の高さから見て、潜在的な力は最も大きい。ビルマとカンボジアは一桁落ち、さらに一桁落ちるのがラオスである。東南アジア諸国をひと括りにしてはいけない。こんなにも国力の差は大きい。近隣諸国のことを日本人は正しく知るべきである。東南アジアを訪ねる旅行も、単にビジネスかリゾートか買い物しかないような心貧しい旅行ではいけない。東南アジア諸国の文化や国力の違いに知的好奇心を持てば、当地を訪ねる旅行は本当に面白い旅行になるはずだ。

 

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 以上見てきたように、インドシナ各国は、古代の文明国から比較的新しく国家形成してきた国まで歴史的多層構造にあること、また、インド文明を背景にした国々の中でヴェトナムだけは中国文明の衛星国家であったこと、現在の国力にはかなりのバラつきがあることがわかる。しかしいずれの国も古代から近世にかけて統一国家を有してきた「思い出」を持つ。これに対し、フィリピンのような国は、無数の島から成り立っていることもあり、統一国家の形成は遅れ、無数の部族国家が統合される直前にスペインやアメリカの支配を受けてしまった。その意味で、フィリピンには、他の東南アジア諸国のような、古代、中世、近世の王国や帝国の「思い出」が無い。そのナショナリズムは勢い人工的なものにならざるを得ないだろう。古代や中世の無い国としては、他にも、米国、豪州などの英国系の旧植民地白人国家や一部のアフリカ諸国(これら諸国もフィリピン同様、部族国家、村落国家が統合されないまま植民地にされた)がある。

 人間も色々な経験を積むことで人生の年輪がより深く多く刻まれるのと同様に、古代や中世の「思い出」が、国の「心の襞」を深く細やかなものにするとすれば、これら古代や中世の無い国々は、なかなか大人になりきれない存在であると言わざるを得まい。特に米国を見ているとそういう思いにかられる。

(一九八六年三月八日)

 

〈参考にした文献〉

 梅棹忠夫「東南アジア紀行」(中央公論社)

 大林太良ほか編著「東南アジアの民族と歴史」(山川出版社)

 会田雄次「アーロン収容所」(中公新書)