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マレーシアにて―Rへの手紙

 

 お腹の中の子供ともども元気で過ごしていることと思います。さて、一月七日に成田を発って以来はや一週間以上になりますが、体調すこぶる快調、仕事すこぶる順調ですので、まずはご安心下さい。当地クアラルンプールは思ったほど暑くはなく、夜などエアコンは要らないくらいです。

 クアラルンプールは「City in the garden」と呼ばれるほど緑が豊かな美しい町です。英国統治時代のなごりを留める見事な区画整理と、近年次々に建てられた高層ビルがうまくとけ合って、実に清潔でゆったりした町の造りになっています。この国は食べ物が豊富なため、飢えということは無く、従って発展途上国の大都市によく見られるスラムも殆どありません。町へ出て来て失敗しても、帰郷すれば豊かな自然と食べ物にありつけるというわけです。人々の性格も温和で、東南アジアの中でも泥棒などは少ない方です(それでも日本のように安全というわけにはいきませんが…)。

 では、当地で見たこと、感じたことのいくつかをお知らせしましょう。

 

 一月九日 マラヤ大学のR教授(中国系)とM助教授(マレー系)を訪問。当地マレーシアは、マレー系四五%、中国系四〇%、インド系一〇%、その他五%という民族構成です。公用語はマレー語ですが、ほとんどの人が英語を話します。中国系の人に至っては、彼らが商人であったこともあり、英語、中国語、マレー語の三ヶ国語は最低話します。その意味では、当地のインテリは、日本のインテリよりはるかに洗練された国際人である、との印象を受けました。

 

 一月一〇日 科学技術省のK事務次官を訪問。マレーシアでは、現マハティール首相になってから、「ブミプトラ政策」と呼ばれるマレー人優先政策をとっており、政府高官は民族構成以上にマレー人が多いようです。K次官もたいへん有能な典型的マレー人官僚と見受けられました。難しい民族構成でありながら、この国の政治が比較的安定しているのは、官僚機構がしっかりしているからだ、と当地の日本人の方に聞きました。

 しかし、マレーシアの経済を動かしているのは中国系の人たちであり、彼らはブミプトラ政策を非常に不満に思っています。当地でつくづく感じるのは、中国人のヴァイタリティと、彼らがいかに本当の「旨いもの」を知っているかということです。クアラルンプールのチャイナタウンで食べた鶏肉といい、後日クアラルンプール郊外の港町クランで食べた海老や蟹といい、本当に安くて旨いのです。

 

 一月一一日 午前、松下電器の現地法人「MALEX」の工場を見学。この松下の現地法人は、マレーシアの家電製品の八割弱を生産し、クアラルンプールとシンガポールの株式市場に上場しています。もうすっかり当地に根を生やした企業と言っていいでしょう。

 午後は「PROTON」の工場を見学。「PROTON」は、三菱自動車工業と当国重工業公社の合弁による自動車会社で、マハティール首相が強力に推進しようとしている「国民車構想」に基づいて近年作られた企業です。当地でやっているのは、まだまだ日本から送られてきたエンジンその他を単に組み立てているだけ、といった様子でしたが、ここで作られた一・三リットル、一・五リットルの「サガ」という国民車は、今マレーシアで大変なブームになっているそうです。日本型多国籍企業の当地での展開は、まずは順調に進んでいるようでした。

 もし東南アジアにおいて、この調子で、日本型多国籍企業が先導して地場産業も形成されるなら、「産業・経済を発展させられるのは西洋だけである」といった西洋的偏見は、既に明治期日本の躍進でかなり破られてはいますが、これで完全に打ち破ることができるでしょう。

 アジアには、まず日本から韓国、台湾、香港、シンガポールへ、さらに東南アジア諸国へと、中心国が成長し経済構造が高度化すると、それが周辺国や後発国の成長と構造転換を促す、連鎖的波及のメカニズムが備わっているとの説(雁行的発展論)が現実の姿になるならば、一九世紀西洋が主導した暴力的植民地支配による経済発展でもなく、二〇世紀社会主義が生み出した暗い官僚統制の経済発展(それはもう既に停滞しつつあります)でもない、世界史上でも類の無い、幸せな経済発展が実現されるかも知れません。

 

 一月一二日(休日) マラッカまでドライブ。マラッカはクアラルンプールから車で三時間ほどの港町で、マレーシア国民の精神的原点ともいうべき町です。それまでジャワ王国やタイ王国の属領であったマレーが、イスラム教の流入を契機にマラッカ王国を建国したのが一四〇四年。また、明の永楽帝が鄭和(ていわ)を指揮官とする大艦隊を南洋に派遣したのもこの頃で、以来、マラッカに中国人が進出するようになったのです。その意味で、マラッカは、マレー系の人にとっても中国系の人にとっても歴史の原点なのです。

 以来マラッカは重要な港町として栄え、一六世紀以降は、ポルトガル人、次いでオランダ人、最後にイギリス人の支配下に置かれました。古都マラッカには、こうした多層的な文化の遺構が数多く残っています。マラッカ王国のスルタンの屋敷跡、明皇帝の娘でスルタンに嫁いだ林豊姫の使った井戸と仏教寺院、ポルトガル人の基地跡、オランダ時代のキリスト教会等々…。日本には無い、複雑で多層的な歴史の跡を訪ねるのは不思議な気持ちでした。

 

 明日はいよいよ第二の訪問地ビルマ(注:現在のミャンマー)へ向かいます。また時間に余裕があれば手紙を書きたいと思います。くれぐれも体に気をつけて過ごして下さい。

クアラルンプールの エクアトリアル・ホテルにて

(一九八六年一月一五日)