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比較文明論の視座



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 「周辺文明論」(山本新)を大変興味深く読了した。この本は、ここ数世紀の間に起こった世界の「西洋化」に対して、非西洋のさまざまな文明が、それをどう受け止め、どう対処してきたかを比較考察したものである。即ち、近代技術で武装された西洋文明が世界唯一の「大文明」として世界中に広がり、西洋以外の諸文明が「周辺文明」としてその影響下に置かれた中で、ロシア、日本、トルコ、インドの各文明をケーススタディとして取り上げ、それら各文明がいかに異なる仕方で西洋に対処し、西洋化に適応しながらも自らのアイデンティティを守ろうとしてきたかが、各文明における「西洋派」と「土着派」の対立を軸に比較検討されている。

 「周辺文明」とは、隣接の「大文明」に依存しており、絶えず大文明から文物を借用していないと文明の水準を維持できない、独り立ちできない文明のことである。古代日本や朝鮮は中国文明の、古代カンボジアやインドネシアはインド文明の、古代西欧は西ローマ文明の、それぞれ周辺文明であった。近代になると、西洋が唯一の大文明となり、非西洋諸文明は全てその周辺文明たらざるを得ない状況に至ったのである。シュペングラー、トインビーら比較文明論の学問の系譜が、このように、日本人の学者によって継承され、深化されているのは、実に喜ぶべきことである。

 日本の近代化の過程や特色を総体的に考えるためには、二つの視座が必要である。ひとつは、西洋の近代化と日本の近代化の比較であり、垂直軸とでも言うべき視座である。第二の水平軸の視座とは、「非西洋の諸文明に属する諸国、ロシア、中国、インドや、イスラム諸国のトルコ、エジプト、イラン、パキスタン、インドネシアなどの、さらに仏教圏に属するスリランカ、ビルマ、タイなどの、また今はなきギリシア正教文明に属するギリシア、ブルガリア、ルーマニアなどの近代化と、日本の近代化とが、どう似ており、どう違うかを考察することである。」(「周辺文明論」二二三ページ)

 従来の近代化論は、もっぱら日本と西洋の比較ばかりで、視野が狭い。例えば、「日本文化論」として喧伝される「雑種性、雑居性」などというのは、日本独自の特徴でもなんでもなく、周辺文明ではどこでも見られることなのである。日本と西洋を比較する垂直軸によるだけで、第二の水平軸が認識されていないと、こうした誤った論が出てくる。また、垂直軸の視座により、西洋(というより抽象化された西洋)を基準に、これと異なることを「歪み」「遅れ」と見る見方は、自文明に対して自己卑下と皮肉な考えを助長するだけで、未来に対する何の展望も生まない。「近代化に無限の可能性があるなら、西洋の近代化はその一つにすぎない。日本やその他の文明には、それぞれの近代化のパターンやコースがある。全ては独自であってよい。いや独自のものになるはずである。なぜなら、文明はそれぞれ個性を持ち、独自性を持っているからである。」(「周辺文明論」二二四ページ)

周辺文明どうしを比較する第二の視座で考えることが明らかに公平かつ生産的なのである。

 

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 山本氏は、日本の西洋化と共通性が多いのはロシアの西洋化であることを、明快な論拠で示している。まず、ロシアはそもそも西洋文明に属していないことから正しく認識しなければならない。西欧文明が西ローマ帝国の周辺文明として発生したのに対し、ロシア文明は、ビザンツ文明(ギリシア正教文明)の周辺文明として発生した。従って、宗教はカトリックではなくギリシア正教であり、文字はローマ字ではなくギリシア文字であり、法もローマ法ではなくビザンツ法であり、建築その他の文化も全てビザンツ帝国から借用している。中世も西欧とは全く無関係に歩み、西欧における農業技術の改良や、ロマネスク、ゴシック建築、十字軍の遠征にも全く縁がなかった。一三世紀にモンゴル帝国がロシアを侵略し、その後二〇〇年にわたってロシアを支配するが、その時西欧諸国はロシアを助けるどころか、ロシアの西側の部分をもぎ取り、これをカトリック圏に組み入れてしまっている。西欧はロシアとは全く異なる文明であり、ロシアに何の連帯感も有してはいなかったのである。

 一五世紀にロシアがモンゴルから独立を回復した時には、ビザンツ帝国はオスマン・トルコに滅ぼされており、ロシアの親文明は既に存在せず、また、西からのポーランドやスウエーデンの侵攻も激しかった。一七世紀末のピョートル大帝に至って、ロシアは自己防衛のため、ついに「欧化」を決意する。この間の経緯は幕末に欧米列強の圧力により「開国」「欧化」を選んだ日本と似ている。ピョートル大帝の徹底的な欧化政策は少なくとも軍事面では大成功し、一九世紀初頭には、ロシアはナポレオン軍をも撃退するに至る。

 その間国内では、非西洋世界に共通の急速な「近代化」が進展する。即ち、農業社会の急速な商工業化、それによる都市化と農業社会の解体、外来物の急速な移入による伝統との激しい断絶、伝統社会の統一性の喪失、土着の宗教、思想、法、慣習と外来のものとの雑居または折衷等々。この西洋化の担い手こそが「インテリゲンツイア」である。インテリゲンツイアという言葉は近代ロシアに生まれたもので、外来の文化を習得し、それを土着に媒介し広める使命を担ったエリート知識階級のことである。当初インテリゲンツイアたちは無自覚、無反省に欧化を推進していたが、一九世紀半ばに至って、西洋化に対する本源的反省がインテリゲンツイアの中に生まれる。チャダーエフの「哲学書簡」がその契機になったと言われる。その中の次の一節は我々日本人にとっても痛切な叫びである。

「我々が時間の中を前進する仕方は、非常に不思議なもので、一歩前進する毎に前の時間が消え失せ、二度と呼び戻すことが出来ません。これは、もっぱら借用と模倣に基づく文化の、自然な成り行きなのです。我々には内的発展も自然な進歩も全然ない。新しい思想はどれも古い思想を跡形も無く一掃してしまいます。我々がいつも出来合いの思想を受け入れるから、我々の脳裡には深い溝が形成されないのです。我々は自主的に思考することを教わらなかった子供に似ています。成人したとて、自分自身のものは何一つ持っていないのです。知識とて表面をかすめるにすぎず、魂とて自らの外にあるのです。」

こうしてインテリゲンツイアは、異質の文化を受容したがために、外来と土着に引き裂かれ、いずれの側にも逃げ込めず、二つの対立するものの緊張関係の中に身を置かざるを得ない魂の分裂に悩み、大衆から遊離した存在であることに苦しむ。インテリゲンツイアの中にやがて西洋派とスラブ派(土着派)が現れ、激しく論争を交わすことになる。文豪ドストエフスキーはスラブ派の代表的存在であり、音楽の世界ではチャイコフスキーはやや安易な西洋派といえよう。

 インテリゲンツイアの出現はロシア固有の現象ではない。西洋化に晒された非西洋文明に共通の現象である。インテリゲンツイアは、中国にも東南アジアにもアフリカ諸国にも存在する。日本におけるインテリゲンツイアの典型は、夏目漱石と丸山真男である。漱石の「現代日本の開化」や、丸山氏の「日本の思想」の問題意識は、チャダーエフの「哲学書簡」のそれと何と似通っていることだろう! 日本においても、ロシアにおけるのと同様に、明治以降、西洋派と土着派の対立があり、欧化と国粋の循環がある。幕末から明治中期までの急速な欧化に対し、明治二〇年代に反省が起こり、国粋保存派が台頭した。日露戦争の勝利後、大正時代には大衆レベルまで欧化が進展するが、昭和初期には逆に「日本浪漫派」に代表される本格的土着派が登場する。だが「日本浪漫派」は不幸にも日本型ファシズムに取り込まれ、太平洋戦争敗戦に至る。戦後はファシズムの反動でより徹底的な西洋化(というよりアメリカ化)が進展したが、昭和四〇年代後半からは土着派も盛り返しつつある。

 さて、山本氏は、ロシアと日本の西洋化の類似性を四点ほど指摘しており、興味深い。まず、ロシアも日本も二重の周辺文明であることが第一の共通点である。即ち、文明の起源において、ロシアはビザンツ文明の、日本は中国文明の、それぞれ周辺文明として誕生し、途中かなりの独自性を発揮したものの、再び西洋の周辺文明と化した。これに対し、例えばインドは、近世に至るまでは自ら大文明であり続けた(なお、イランも、イスラム化と西洋化を経験した二重の周辺文明である)。このような二重の周辺文明では、大文明へのコンプレックスが強くなりがちで、過度の自己否定と過度の自己肯定の両極に自意識の針が揺れがちである。日本の戦中、戦後を見るとまさにそのとおりであり、ソ連の極端な膨張主義もそうであるし、イランのホメイニのイスラム原理主義も極端に振れている典型であろう。

 二番目の共通点として、文明が世俗化していたがゆえの適応の早さが挙げられる。ロシアにおけるギリシア正教も日本における大乗仏教も、欧化を始めるまでに既に文明の指導原理ではなくなっており、西洋化に適応するのに宗教側からの反発がなかった。これは、例えばトルコにおける西洋化が、いかにイスラム教のために困難であったかと比較される。

 三番目の共通点は、対内的な進歩派、革新勢力(民主主義や共産主義の信奉勢力)が対外的なナショナリズムと結びつかないこと。ヨーロッパの市民革命は、民主主義と国民主義とが結合した運動であり、中国における共産革命が対外的には帝国主義に対するナショナリズムであったように、世界史上、一般的には、対内的な進歩派、革新勢力(民主主義や共産主義の信奉勢力)が対外的にはナショナリズムと結合することが多いのに対し、ロシアと日本の進歩派は、ナショナリズムを嫌悪し、抽象的な国際主義に傾きやすい。これは本当に不思議な現象である。

 四番目の共通点として、独立を維持したがための西洋化の安易さが挙げられる。例えば西洋の植民地となったインドでは、西洋文明との対決が当初から徹底的に行われた。西洋派も土着派も、彼我の文明について深く考察し、自己の本質が何であるかを深刻に省察せざるを得なかった。インドにおける西洋派、ローイやタゴールは、西洋の啓蒙思想や近代キリスト教に心酔して、西洋を一途に理想化し、インドを全面的に軽蔑したのではない。西洋心酔から醒め、伝統の基本的肯定の上に立って、なおかつヒンドウーの伝統を批判したのである。これに対し、ロシアや日本の場合は、独立を維持するために性急に西洋の文物を吸収するのに忙しく、安易な模倣や無反省な借用に走りやすかったのである。

 

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 以上のロシアと日本の共通項から、僕はこう考えた。彼我の文明を深く省察したインドの西洋派と異なり、日本における西洋派は非人間的である。なぜなら、内なる固有性を意識的に抹消しようとしたり、或いは文明の固有性を意識できないというのは、人間についての感受性が欠如しているからである。例えば「自由」について、日本の西洋派は「自由の観念に酔うことと、自由を土着化することとの間に、どれほどの距離があり、その距離を埋め自己変革を遂げるには、何世代もの苦渋に満ちた苦闘が土着の保守性との間に必要なのかを考えない。このような根無し草的コスモポリタニズムは、どこにも基盤を持たず、どこにも根を生やしていない浮き草のごときもので、『欧化』によって文化的無国籍になり、精神的故郷を喪失した存在である。しかも、意識の底には、土着が文明として劣っているという深い劣等感を秘めている。ナショナルなものとどこにも結びつきのない、奇怪な『インターナショナリズム』とは、世界の大勢の上に安易に乗った対外依存の一種にほかならない。」(「周辺文明論」一五八ページ)

 いずれにせよ、幕末に始まった日本の西洋化は、「今も進行中であって、これまで一〇〇年以上を経過したが、実はまだ序の口にあり、その結末がどうなるか、つまり、『欧化』に食われて日本文明が消滅するという悲運に至るのか、それとも外来との緊張関係を保ち続け、何らかの形で生き残り得るかは、未来に属することである。」(「周辺文明論」一〇三ページ)

 僕は、「周辺文明論」を読みながら、西欧自由主義の精神と、道徳、文化における日本の伝統との二重構造を保持し、両義的に生きざるを得ない矛盾を自覚しつつ、それでも絶望することなく日本人の生き方を模索する福田恒存氏の真の「土着派」の良心を思った。保守派と言われる論人の中にも、無責任なタレント論者は多いが、福田氏の言説には彼自身の生き方に裏打ちされた、日本に対する強烈な責任感が感じられる。その論理の強固さと晦渋な語り口には閉口させられることもあるが、英国的教養と深い人間洞察に基づいた首尾一貫した主張に、僕は深い敬意を表する。現代日本は、今や、外来に距離を置き、外来を意識的に土着化してゆくことにより、成熟した文明を目指すべきであると僕は思う。

 

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 周辺文明の中には、ほとんど知られていない文明もあり、大変興味深い。本書の中で紹介されているエティオピアもそのひとつである。エティオピアは、四世紀にギリシア・ローマ文明の周辺文明として、単性論キリスト教を受け入れて成立した、古い文明である。高地であることが幸いし、その後のイスラム勢力の侵攻を食い止め、単性論キリスト教を保ち続けた。殊に一六世紀には、オスマン・トルコの火器で武装したイスラム教徒、ソマリ族の攻撃に対し、エティオピア皇帝クラウディウスは、ポルトガル人から火器を得てこれを打ち破っている。ポルトガル人らは、これを契機にエティオピアを単性論キリスト教からカトリックに改宗させようとし、これに反発したエティオピアはポルトガル人、スペイン人を追放し、鎖国に踏み切る。エティオピアが鎖国を解くのは、一九世紀後半にアフリカ分割に狂奔する欧州列強が開国を迫ったためである。このあたりの鎖国にまつわる経緯は、同時代の日本と似ているのが実に興味深い。一八九六年、エティオピア皇帝ネグス・メネリクは、侵攻するイタリア軍を、今度はフランスの武器を借用して撃退した。結局エティオピアは、ファシズム・イタリアにほんのわずかの間占領されただけで、苛烈な帝国主義時代にアフリカで唯一独立を維持し続けたのである。

 那谷敏郎氏の「紀行モロッコ史」(新潮選書)も、モロッコという大変面白い文明世界を紹介している。モロッコを形成する民族であるベルベル人は、古代カルタゴ時代からローマ帝国、ヴァンダル族の支配を経て、イスラム勢力の侵入とともに独特の地中海イスラム王朝を形成、他のイスラム世界には見られない繊細で洗練された建築や文化を残した(那谷氏は日本人の感性に合う文化である、とおっしゃっている)。また、サハラ砂漠を越えて内陸の黒人アフリカ国家とも接触を持った。こうした多彩な歴史を作ってきた各王朝(イドリース朝、ムラービト朝、ムワッヒド朝、マリーン朝、サアード朝)の後を受けて一七世紀に成立したアラウィー朝は、一時的なフランス、スペインの植民地支配を受けたものの、王統は現代のハッサン二世まで続いている。イスラム世界最大の歴史家イブン・ハルドウーン(一三三二〜一四〇六)は、モロッコ歴代王朝の変遷を総括して「社会集団を結集しやすい連帯意識を持つ遊牧民の方が歴史を動かす。そんな連帯集団は、強力な支配欲を持ち、都市の国家を征服して大帝国を建てる。だがやがて連帯意識を失ってゆき、また新しい連帯意識を持つ集団に取って代わられてゆく。」と述べている。

 司馬遼太郎氏の「ロシアについて」にも、世界史の狭間の、シベリアの文明世界が紹介されている。バイカル湖西千キロにあるミヌシンスク遺跡は、紀元前三千年にオリエント文明の影響を受けた青銅器文明の跡であり、中国文明圏の北辺に中国文明と無関係なオリエント文明の周辺文明が存在したこととか、同じモンゴル人でも、最北辺に住むブリヤード・モンゴル人は、ロシアのシベリア征服の際、ロシア・コザックに激しく抵抗し、ロシアに征服された後も遊牧民族として純粋性を保ったが、南方のモンゴル高原や内蒙古のモンゴル人は、清朝支配の間に、ラマ教と商品経済で遊牧性が骨抜きになり、乞食化し、悲惨な状況に陥ったことなどが、興味深く描かれている。

 

 辺境の地にも、こうした知られざる人間のドラマが演じられてきた。歴史は、ただ文明の中心地だけに存するのではない。知られざる周辺文明の歴史を知ることで、人は、正しく歴史を認識し、正しく日本の位置づけを理解し、目指すべき方向性をも処方することができる。ゆえに我曰く、知的好奇心ある独立人よ、汝を周辺文明の歴史へ招かん。

(一九八七年九月六日)

 

夏目漱石(一八六七年〜一九一六年)

 「人間の附属物について」の項参照。

丸山真男(一九一四年〜一九九八年)

 「丸山真男と古典」の項参照。

福田恒存(一九一二年〜一九九四年)

 「『福田恒存語録』を読む」の項参照。

 

〈参考にした文献〉

 山本新「周辺文明論」(刀水書房)

 那谷敏郎「紀行モロッコ史」(新潮選書)

 司馬遼太郎「ロシアについて」(文芸春秋)