次の文章へ進む
前の文章へ戻る
「古典派からのメッセージ」目次へ戻る
表紙へ戻る

日本人と西洋声楽

 

 CBSソニーから出た「モーツァルト大全集」には、何故かオペラが一曲も入っていない。本当は、モーツァルトではオペラが最も重要なジャンルであるのに、どうしたことか? これは、日本人の好みにうまくあわせた企画なのである。つまり、日本人にとって、対訳と首っ引きになりながらストーリーを理解しつつオペラの鑑賞をするのは、大変面倒なことであるし、そもそも西洋の声楽は基本的に日本人に受け入れにくいものなのである。商売上手のソニーがそのへんの「マーケティング」に抜かりのあろうはずはない。大方の日本人にとっては声楽作品抜きの「モーツァルト大全集」で十分なのである。

 西洋の歌唱法は、イタリア語やドイツ語には向いた歌唱法だが、当然ながら、日本語はじめ欧印系以外の言語には向いていない歌い方である。日本人には西洋式歌唱法に違和感があるのは当然のことなのである。

 音楽学者の小泉文夫氏が述べておられるように、明治期の音楽教育ほど、従来の伝統的な音楽を極端に捨てて西洋音楽を導入したケースはほかの分野にはない。絵画や文学といったジャンルではまだ伝統とのつながりはかなり強く維持されていたのである(絵画などはむしろ浮世絵がヨーロッパ印象派絵画の規範になっていたくらいだ)。しかし、永い伝統を持つ一民族の音楽の好みがそう簡単に変化するはずもないし、変化させる必要もないのである。現に歌謡曲の世界では、堂々と日本人の伝統を濃厚に引き継いだ音楽が愛好されているのである。これは単に演歌のことではない。小泉氏によれば、松任谷由美の音楽でさえ、かなりの部分が日本の伝統的音楽の要素で成り立っているという。

 西洋の音楽が「普遍的」で「絶対的」である、などという偏見はもう捨てたい。民族の数だけ音楽がある、という人間の自然なあり方を信ずれば足りるのだ。 僕はオペラというジャンルが日本に根付かなくても何の問題もないと思う。一部の奇特なオペラ愛好家がいるだけでいいではないか。僕は、ベルカント唄法(自然で美しく流麗な歌い方)の良い趣味が生きていたモーツァルトなど古典派オペラならともかく、巨大化した演奏会場と管弦楽に無理矢理適応しようとした巨大な肉塊から発せられる声の化け物が威丈高に人を圧する十九世紀後半のオペラなど、聴けなくても何の不自由も感じない。

 むしろ、ヨーロッパでは、この二百年の間に不自然に変容してしまった十八世紀以前の音楽の「原形」を取り戻そうという動きがある。ロッシーニが嘆いたように、ベルカント唱法は、十九世紀の進行と共に、非人間的なまでに巨大な声量を伴った重々しい歌い方へと変容してしまう。アノンクールやブリュッヘンやレオンハルトら「古楽」派の演奏家たちは、十八世紀以前はもっと自然な発声法が行われていたことを実証し、かつ演奏の場で実践している。ヴィブラートを抑えたナチュラル・ヴォイスで歌われるバッハやヘンデルの何と鮮烈で美しいことか! 十九世紀風厚化粧を剥がした新鮮な声楽は、十八世紀以前の音楽の演奏では、むしろ異端ではなく正統派になってゆくだろう。

(一九八四年二月一九日)

 

〈参考にした文献〉

 小泉文夫「空想音楽大学」(青土社)

 団伊玖麿・小泉文夫「日本音楽の再発見」(講談社現代新書)