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バッハとテレマン――歴史による淘汰?

 

 バッハの音楽の重構造性、精神性に対して、テレマンの音楽は「底が浅い」という言い方がされる。しかし、この言い方は「まじめインテリ」の立場からの片寄った評価である。バッハの音楽は農民的であり、それは、彼や彼の先祖が生きた中部ドイツのテューリンゲン地方の風土が醸成したものである。一方、テレマンは商業の風土の中で生涯の大半を過ごした。「まじめインテリ」とは、言うまでもなく、こつこつと勉強し秀才となった人たちであり、基本的気質として、農民同様、緻密さやまじめさを好む。

 こうした「まじめインテリ」たちは、例えば、テレマンが「お堅い教師」をとても勤めきれないため、その職をバッハに譲ったなどという話を聞くと、ますます「まじめなバッハ」に惚れ込み、「商売人テレマン」を軽蔑する。そして「テレマンは当時こそ最大の人気作曲家であったが、歴史の聖なる淘汰作用によって現在では存在価値は薄れ、今評価されるのはバッハの方なのだ」という言い方をする。しかし歴史とはまさに「その当時」を知ることであり、当時なぜテレマンが評価されたかを知ることにより、一八世紀前半という時代の実相を知ることが歴史なのである。

 一八世紀に人々が欲していたのは、一時の気晴らしのための音楽であり、気の利いたおしゃべりの背景に流れる気の利いたバックグラウンド・ミュージックであり、厳粛なセレモニーをより荘厳に演出したり、晴れやかな行事を一層浮き立つようなものにしたりする効果音楽であった。音楽は日常的、実用的なものであり、抽象的な想念をめぐらすための存在ではなかった。そもそも貴族たちの内輪の催しを別にすれば、現代のようなコンサート形式というものは未だ存在しなかったのである。音楽といえば、コンサートホールに行って、二時間以上も物音ひとつさせずに椅子にはりついたまま、何やら難しい顔をして、ありがたい名演奏家の顔を拝みに行くことになってしまったのは、一九世紀も後半になってからのことだ。テレマンの「実用的な」音楽が圧倒的な人気で受け入れられたのは、彼が、それぞれの機会にふさわしい音楽で人の心を楽しませる術(すべ)を最もよく心得ていた作曲家だったからである。

 まるで一八世紀の人々の趣味が現代人より劣っているかのように「歴史による淘汰作用」を語り、「バッハこそ生き残るのにふさわしく、テレマンは忘れられる運命にあった」などと歴史を裁くことは、歴史と人間への冒涜であるとしか僕には思えない。我々は今だに歴史の「発展」という幻想にとらわれている。

(一九八三年一一月二七日)

 

バッハ(一六八五年〜一七五〇年)

バロック時代の頂点に立つ音楽家。二百年続いた音楽家一族に生まれ、作曲家、オルガニスト、楽長として、中部ドイツ各地で活躍。オルガン曲、器楽曲の傑作もあるが、彼の本領は、何といっても、ルター派プロテスタントの立場からの、カンタータ、オラトリオ、受難曲といった宗教声楽曲で発揮されている。

テレマン(一六八一年〜一七六七年)

ドイツ・バロックの大音楽家で、生前はバッハを凌ぐ人気を博す。あらゆる分野に数千曲の膨大な作品を残し、未だに作品の全貌は把握されていない。フランス、イタリア、ドイツ各国の様式を自在に駆使し、当時最新のロココ趣味も取り入れた。十九世紀以降長い間忘れられていたが、今世紀後半の古楽復興とともに、その真価が再評価されつつある。